ズッキーニの味噌煮込みBlog版

コンピュータのこと、食べ物のこと、なんでもないこと、とんでもないこと。

雨の日に考えること

2008年08月27日 10時57分23秒 | Weblog
 休日の雨なら悪くない。

 「雨かぁ」「雨だねぇ」などと言いながら、落としたばかりのコーヒーをゆっくりと飲み、新聞をめくる。嫁さんは先にチラシを眺めている。「今日なにかあるんだっけ」「ない」という実りのない会話を交わしながら、雨の音を聞くとは無しに聞いている。悪くない。

 これが平日だと出勤だから、ノンビリとしていられない。いやなのは雨が降っていることより、傘を持たなければならないことだ。かなりの確率で電車に傘を忘れるので緊張する。いつものようにボーッと、iPhoneでインターネットラジオのお気に入りチャンネルを聞いている気分になれない。

※ こういうユーザは、立て続けに2度もSoftBankが最低通信料金を下げてくれても、なんのご利益もない。パケット量はいつも上限に貼り付いているんだから。

 だから平日の雨の日は、考えることも明るくない。またその方が状況に合っているんだから、無理矢理明るい未来を考えるよりはいい。

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 こないだテレビで評論家が面白いことを言っていた。

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 格差(の下の方にいること)を自己責任とする考えが一般的のようだが、そうではない。まったく自由に選択できる状況なら格差自己責任論もいいが、個人の選択の自由なんて現実にはずいぶん限定されている。早い話が、こちらが選んでも向こうが選ばなければ就職は成立しない。中には選ばなかった人もいるだろうが、選べなかった人の方が多いのではないか。
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 たしかにそうだ。この「選べない」に注目した意見が、最近出てきた格差世襲論。格差の上も下も世襲が利くというのだ。

 早い話が、親が金持ちなら子供の教育にその金をつぎ込んでやれる。多少ぼんくらでも(失礼)、塾に通わせ家庭教師を付け、なんとか能力ギリギリ上限の大学に押し込んでやれる。そこで培った人間関係は一生の財産になり得るし、名の通った大学の卒業証書は就職にも有利だろう。収入も平均以上が望めるし、男女ともに結婚できる確率が高い。なにかのアクシデントがあっても、金持ちの親というセーフティネット(?)がすかさず機能する。

 これに対して貧乏人の子はどうか。ぼんくらどころか相当に出来のいい子であっても、親に金がないから教育投資ができない。そこを自力でといっても、人生に大きな影響を与える幼少期のことは本人にはいかんともしがたい。気がついてみたら貧乏人の家にころがっていたわけで、塾にも家庭教師にもご縁がない。よほどの僥倖でもなければいい学校に進めるはずもなく、収入の高い職に就くチャンスは低いから低賃金労働に甘んじるしかない。結婚のチャンスも少ないし、なにかあっても親には頼れない。下手をするとその親がヘマをして転がり込んで来かねない。

 わかりやすさを狙ったせいで多少極端になったかも知れないが、おおかたこんなところではないだろうか。そう言うと、いやいや昔は貧乏な寒村から出て立身出世をした…などと言う人がいるが、そもそも昔は国全体が貧しかったのだから、貧乏は大きなマイナス要因ではなかったのではないか。またそういうケースがまれだからこそ、取り上げられいまに語り継がれているとも考えられる。昔と今では状況が違う。

 貧困の再生産ということもおなじ文脈でよく語られていて、犯罪率の増加を危ぶむ声もある。貧乏人が必ず犯罪に走るなどと言うつもりは毛頭ないが、以前このブログに書いたように、月に100万円もらっている人はしないが、月に10万円しかもらっていない人は1万円のために犯罪に走る可能性が高いのだ。100万円の人はその被害者になり得る。だから格差貧困は、金持ちにとっても人ごとではないのだ。

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 これじゃいくら雨の日だといってもあんまり暗すぎるから、ちょっと脳天気な話をしよう。この状況を解消するとまでは言わないが、多少緩和することならできそうだ。低所得者層に、いまよりほんの少しの経済的なゆとりを持ってもらうのだ。

 「愛」などという高度に抽象的な概念は、高い知能がなければ体現できない。しかし「思いやり」ならどうにかなりそうだ。それはゆとりから生まれてくるものだからだ。思いやりのある社会は、人を傷つけることが少ない。助け合う社会は、弱者を排除しない。誰でもいいから人を殺したくなる人や、いっそ戦争でも起きてくれればいいなどと考えるような人を生まない。人は寛容になり、いざこざが少なくなる。

 …はずだ。^^;

 ワーキングプアとは、年収200万円以下で働く人のことを指すそうだ。月にして16万円ほどだ。ここから家賃や光熱費を払い。健康保険と年金をかけ、と考えていくと、とても蓄えなどできそうにない。働いていてこれでは悲しすぎる。

 ではここで4万円プラスして、月に20万円ならどうか。収入の実に25%アップだ。裕福とは言えないまでも、少しゆとりが生まれるのではないか。泣く子に苛立って頭をひっぱたくしかなかった母親は、あめ玉を買い与えることができる。お父ちゃんの晩酌に一品添えることもできよう。どうも言うことが数十年前だな。まぁ、いいけど。例だから。

 すべてが解決するわけではない。しかし、人々の顔が少し明るくなるはずだ。人数で言ったら少数派の金持ちがこれ以上笑顔になったって、社会に与える影響なんかないに等しい。それよりはいま、貧困にあえいで希望も夢も持てない人のほとんどが少しゆとりを持つことの方が、社会にはずっと良い影響を与えるだろう。

 いまのあのチンパンジーになにを言っても始まらないので、このつぎにこの国の運営を担当する人にお願いする。ひとり頭、月4万円でどうだ。手を打たないか。3万円にまけてもいい。確実に本人の手元に現金が入るようにできるなら、方法も問わない。これを「ばらまき」などと批判する人間は、おそらくいない。

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 さて今月27日の花。

 ご近所でこれを鉢に植えていたのを見つけて、撮らせてもらった。野原で丹念にさがすと見つかるというのだから、そう珍しいものではないのだろう。しかし実物は初めて見た。

 ねじ花といって、その名のとおりの咲き方をする。ランの一種だというが、そのイメージに似合わず実に控えめにひっそりと咲く野の花だ。おなじ仲間でも贈り物に使われるのは一輪で100万円もするのだろうが…なに、いくらなんでも100万円は大袈裟だ? いえいえ、なにしろ名前が「誇張」ランでございます。

 お後がよろしいようで。

今月の27日の花は「ねじ花」