∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その11―終章)

2006-07-29 13:35:55 | C-3 >山川山形水野

             写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん




水野三郎右衛門元宣(その11―終章)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。


17.山形藩戊辰戦争殉難者
川瀬同氏作成 平成8年9月(『山形市 下巻』を土台とし、『山形藩戊辰殉難者略伝』等を資料としている)

▼刑死
明治二年(1869)五月二十日
水野三郎右衛門元宣  27歳 七日町長源寺 自性院無外宗本居士

▼落合口戦死者
慶応四年(1868)閏四月四日
大久保傳平知敬    52歳 八日町浄光寺 一心院武勇日顕居士
赤星守人武美     41歳 七日町長源寺 自性院忠岳良雄居士
加藤雅蔵重信     23歳 八日町浄光寺 武徳院先進日嚴居士
松嵜竹四郎正功    28歳 七日町大寶寺 随喜院忠広日顕居士
原田喜平太正次    37歳 小姓町明善寺 釋凝實居士
稲葉半兵衛信賢    41歳 七日町来迎寺 良山賢譽忠道居士

▼長崎達摩口戦死者
慶応四年(1868)閏四月四日
前田庄助通宗     58歳 七日町大寶寺 了縁院眞浄日因居士

▼入間方面戦死行方不明者
慶応四年(1868)閏四月十一日
小林榮信明 32歳 三日町光禅寺 勇性院義肝良忠居士
柘植中蔵行元     31歳 七日町来迎寺 良勇進譽運居士
永井熊次郎直方    26歳 八日町浄光寺 永徳院勇進日浄信士
高宮猪兵衛信明    27歳 七日町光明寺 高宮院専阿勇進居士
鳥居吉次郎長久    25歳 七日町願重寺 釋忠倫
鈴木総次郎      28歳 三日町光禅寺 遠雲院雄岳良道居士《行方不明》☆

▼城内戦死者
慶応四年(1868)閏四月十三日(城内火薬爆発)
柘植長左衛門     36歳 八日町浄光寺 相如院亦然日實居士 ☆
木原乙吉       19歳 七日町大寶寺 是正院音日住居士 ☆

▼有谷方面戦死者
慶応四年(1868)七月十一日
豊嶋彦太郎吉次    29歳 七日町長源寺 玉粧院義光良雄居士
川越祐二久基     24歳 七日町来迎寺 光覺院祐進川忠居士
 外 人夫(ママ) 一名 ☆

▼新庄・秋田間の戦死者
慶応四年(1868)七月十五日(弁財村で負傷後死亡)
小池源之介      24歳 諏訪町法昌寺 鐵應忠心居士☆
慶応四年(1868)八月四日(有谷戦死)
加藤庄助久壽     52歳 七日町心縁寺 義信院釋義善
朝倉三郎兵衛國友   34歳 八日町浄光寺 高顕院忠至日浄信士
慶応四年(1868)八月九日(秋田平鹿郡で銃創後死亡)
柴田勝右衛門壽靜   28歳 七日町長源寺 鳳仙院義山領雄居士
慶応四年(1868)九月十九日(稲庭在板戸村戦死)
宮本熊太郎道衡    44歳 八日町浄光寺 顕徳院寛勇日嚴居士         

▼南方作戦の戦死者
慶応四年(1868)五月二十九日(越後帯織戦死)
松嵜主計正敬     40歳 八日町浄光寺 忠顕院正敬日輝居士
慶応四年(1868)八月十七日(白川口二本戦死)
矢口鐘次郎直方    54歳 七日町大寶寺 眞善院覺了日辨居士

◆負傷者
落合口
築井健九郎、岩永郷太郎、中根宗信(医)
長崎達摩口
稲垣道右衛門
入間方面
高山郡太、寺林太左衛門、外 二名
有谷方面
水野馬太郎、齊藤悦太郎、加藤辰次郎

[凡例]
☆印の名前は、豊烈神社境内の「戊辰殉難之士」石碑(写真)には陰刻されていない。
また、同石碑の末尾に「明治廿七八年戦没」として以下の三名の名前が陰刻されているが詳細は不明である。
室 次郎、高須種之、宮本鹿太郎


18.三郎右衛門の遺族
 三郎右衛門処刑の当夜は、前述のように水野籐五宅にお預けとなった。遺族は父元永、母文子、妻兼子(当時26歳)、長男龜太郎(当時2歳)、弟吉徳彌、緒川竹蔵、緒川猪多治、緒川辨彌、妹ため、作の十人が居た。こうして遺族へ救恤(*2)の意味で、一人当たり一日米四合の手当を給与されたが、やがて廃藩置県となり、明治三年(1870)三月三日に元永は「ひじょうに寛大な処分で謹慎を免じ」られたが、救助米は廃止となった。同年閏十月、三郎右衛門直系の子供達を除いて分籍をしても差し支えないとのお達しがあり、元永夫妻とその子供達は龜山家を相続し、二十二俵を賜るとのお達しがあった。その後、元永は香澄町の徴兵委員、副戸長、戸長などに就職した。明治十二年(1879)中に、香澄町一同で、山川水野祖忠元公、諡萬松寺殿の霊を下総山川に鎮座する豊烈神社から移して、香澄町に分社・新築し遷座式を挙行するのに際して、旧藩主忠弘が廃藩後初めて来形し、吉松邸に宿泊し南追手において旧藩士等に面会し酒肴を振る舞われた。元永は孫の龜太郎と共に面会し、忠弘から慰労の懇話があり、その上多少の恵贈金を与えられ、滞在中は龜太郎をお側でお世話をする係として使用された。ある日忠弘が千歳山に散歩の折、松の枝を手折られたが、その枝は珍しく変わった様子もないことから、お供の誰もが何のためにされたのか解らず奇異に感じた。夕方市内に入ると長源寺に立ち寄るとの仰せがあり、元宣が戊辰戦争の際に、さぞや苦しく辛かったであろうと同情されるが、逆臣首謀者となったことで、白昼の墓参を遠慮され殊更に夕景を待って、ご自身が手折られた松枝を供え慰霊されるとのご真意が解り、誰もが感激し涙を流した。元永は以前から藩主に対し少し不満を感じていたが、この事を聞いて非常に感激し積年の憂鬱が一気に晴れた心地がしたと近親に語り、その賜ったお金で三郎右衛門の墓前に香花の水鉢を作り納めた。

 考えてみるに、三郎右衛門家は、旧藩主家の初代から代々の君主と最も血縁の近い間柄にあり、累代二百五十年間臣事し役職を受けこの上なく大事な関係にあることから、戊辰の奥羽列藩同盟り際、得心できない事変に対し、その罪を元宣が負い、明治二年(1869)五月に裁きを受けたことで、以降、遺族は安住の地を追われ流浪の身となった。翌明治三年(1870)、藩内の強い意見によって自らの家を廃し、姓を改め龜山を嗣ぎ微禄の俸給が与えられたとはいえ、一族の暮らし向きをみると、旧藩主家とは少しも関係が無かったかのように、十余年間両家の関係は全くの隔絶状況にあった。ところが、今回初めて忠弘氏から親しくお声がかかり、また聞くところによると本月十七日夜、忠弘氏がお忍びで元宣の墓に参拝し供花があり、しかも東京の忠精氏からも執事の近藤孝行をわざわざ遣わされ、元永に慰労の伝言があった。これらのことから、連年文明開化が進む時代の中で、昔を偲び感じとるところがあり、このような慈愛の心を表されたものであろうと考えられる。この時になり漸く当家においても、初めて積年の気懸かりが消えて無くなったといえるのである。(元永記)

  元永は三郎右衛門の弟妹等をそれぞれ縁付かせて、老夫婦および三郎右衛門の妻子と一家四人でひっそりと辛い月日を送っていたが、明治十六年(1883)、水野三郎右衛門家の家名再興の特別の恩典があった(委細後述)。これにより香澄町の有志等は山形市内の有志と謀り、横町口(*3)に一軒の家を買い求めて、龜太郎親子を移住させた。龜太郎は後に元伯と改名し小学校の教員に奉職し細々と暮らしたが、明治二十三、四年(1891)頃、鳥居熊彌氏の周旋により、母と共に上京し、神田の八尾印刷所に勤めたが病気となり帰郷し、明治三十五年(1902)三月、死去したしたことから、緒川猪多治の二男精治を養子とし跡継ぎとした。未亡人の兼子はその後孤独の生活を送ったが、生活を保障する財産は無く、遂に住宅を売却し元永の旧宅に借家人と同居し、悲惨な月日を過ごした。明治四十一年(1908)九月、忠美公が来形の際、その近況を聞いて維新当時の犠牲的努力に同情され、毎年六十円ずつ扶助されることとなったが、月額僅かに五円で外に収入もないことから、生活上の困苦が癒えることはなく、明治四十三年(1910)に忠美公が亡くなったことに伴い、送金も途絶え、苦難は一層加わり大正六年(1917)十二月、夫元宣の五十回忌を最後に、七十四歳をもってその淋しい生涯を終わった。


19.家名再興、罪状消滅
 明治十六年(1883)の春、元庄内藩士石原倉右衛門と元米沢藩士色部長門の両家は、戊辰戦争の反逆主裁により家名断絶となっていたが太政官から以降再興しても良いとのお達しがあったと聞くと、父元永は親族等に計り諸藩士の連署を以て出願したところ、六月龜太郎改め元伯に対し次のように家名再興の許可があった。

                      山形縣
 元山形藩士亡水野三郎右衛門は、維新の際に反逆首謀の罪により家名断絶を申し付けたが、特別の恩典により、これ以降家名再興を許す主旨を遺族に通達する。
   明治十六年六月廿三日
                   太政大臣 三 條 實 美 (印)

 水野家はここに再興したことで、緒川猪多治方の戸籍に付属している長男龜太郎は分籍するこことなり、同年七月二十九日に家名の再興を祝って東京の旧藩主から金百円が贈与された。
 明治二十二年(1889)二月、憲法発布と共に大赦令を布告すると、翌二十三年三月山形軽罪裁判所(*4)検事田中玄文は、元永に対し次のように犯罪の証拠となる痕跡を消滅する証明書を授けられた。

         証明書
右明治二年五月中、軍務官の言い渡しにより山形藩において処分した罪科は明治二十二年、勅令第十二号により消滅した。
   明治二十三年二月二十五日
                   大審院検事総長 石 村 退 蔵 (印)


 犯罪の証拠となる痕跡を消滅の恩赦に浴したことで、五月二十日、長源寺庭において盛大な報告慰霊祭が執行されると、元永は弔辞を朗読するものの、往時を偲び万感胸に迫り、すすり泣きして朗読を中止する事が十数回もあった。もっともなことと参列者は皆頭を垂れむせび泣いた。
 ああ、天皇の御恵みが、死後に及んで元宣の心中は空しいものではなかったというべきであり、英霊は長く安らかに微笑まれることであろう。
                                   了


●「山形藩水野家分限帳」
―「山形市史史料第51号」1978/03/31 山形藩各氏の分限帳(*5))―
当シリーズの文中に登場する「水野各氏」の理解の助けとして、分限帳から「水野氏」のみを抜粋したものである。

┏  文久二戌歳(1862)三月改      ┓
 士分役寄銘録御勝手席順
 軽輩役寄組々銘録旧家席順  覚帳
┗            次 正 蔵 書    ┛
(アンダーラインは削除)

♦御家老        (朱印)
千三百石 御役料三百俵、文武掛り
 水野平馬
♦御家老並
六百石  御役料二百俵、文武掛り、安政六未年五月廿八日御家老並被仰附
 水野小河三郎
♦御年寄
三百石  御役料百三拾俵、御勝手方、弘化二年巳年正月十一日当役、後四百石トナル
 水野式膳
♦御年寄見習
弐百俵  文久二戌年正月十一日、見習被仰附
 水野治郎
♦御用人
弐拾人扶持 御役料四拾俵、御勝手方掛り、文久二戌年十月於江戸表當役
 水野雅楽之助*
♦御近習
三拾人扶持、御者頭上席
 水野帯刀
弐拾人扶持、御者頭次席
水野雅楽之助
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
♦御者頭
二百五十石 安政五午年ヨリ當役
 水野求馬
♦御小姓
十二両三人扶持 安政四年辰歳ヨリ
 水野籐五
八両三人扶持 文久元酉年十一月廿九日ヨリ
 水野好太郎
♦御金奉行
八両三人扶持 御中小姓格
 水野宗太郎
♦授読
八両三人扶持 文久三亥年正月、下立格、御中小姓格
 水野平四郎
♦授読
六両弐人扶持 御歩士席
 水野豊之進
♦御勘定所附頭取
(はり紙)
申三月ヨリ勤番、戌秋引取、亥正月上京、戌秋迄詰越
 水野籐五*
酉四月十三日依願出府、六月ヨリ二カ年詰勤番被仰附
 水野雅楽之助*
♦御馬廻
百石
 水野靱負
百俵 大番目付
 水野右門
百石
 水野半右衛門
♦御中小姓番順
八両三人扶持
 水野半右衛門*
♦御中小姓
八両三人扶持
 水野半右衛門**


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=きゅうじゅつ。困っている人々を救い、恵むこと。
*3=七日町口(済生館の所)と十日町口の中間にあたり。本町一丁目。
*4=現在の地方裁判所に当たると思われる。
*5=戦国時代から小渡時代を通じて、武将が領国にあって、家臣団の身分・家格に応じた扶持高を記した帳簿。



[参考文献]
1.『水野三郎右衛門元宣略伝[復刻版]』松野尾繁雄著 発行1988年5月20日
1.第二回 郷土と歴史講座テキスト「山形水野家老 水野三郎右衛門元宣」
  川瀬 同著(山形県立博物館元講師) 1996年9月20日 山形県立博物館 講堂
1.山形県立博物館研究報告 第21号「山形水野藩 戊辰の役―資料で確かめる―」
  川瀬 同著 2000年二月別刷
1.「山形市史編集史料」第20号 資料:山形廃藩置県関係史料
山形県立博物館 県民生活課 山形市史編集委員 1970年7月31日発行
1.「山形市史資料」第51号 資料:山形藩各氏の分限帳 7水野氏分限帳(文久2年)
  山形市史編集委員会 1978年3月31日発行
1.『丕揚録・公徳辨・藩秘録』北島正元ほか著 近藤出版社 1971年6月25日発行

[協力機関・個人](敬称略)
1.資料提供=山形市観光案内センター
1.史料提供=山形県立博物館学芸課
1.図書貸与=山形県立図書館
1.図書中継=名古屋市立図書館
1.情報提供=長源寺
1.情報提供=豊烈神社
1.写真提供=山形在住の友人・ハンドル:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん
1.情報提供=ブロガー:FFTさん・蓮花さん ほか


☆旅硯青鷺日記
[あとがき]
 昨年2005年6月、山形城採訪の目的で初めて当地を訪れ「山形城」を、同7月16日当ブログに投稿しました。
 その後、翌2006年3月になって「山形藩家老・水野三郎右衛門元宣公」のことを承知し、その元宣の生き様にすっかり惚れ込み虜となってしまいました。それからは興味の赴くままに取材を始め、上記のように多くの方々のご厚情によるご支援・協力が得られたことで、誠に稚拙で不備誤謬ばかりの拙稿ではありますが、なんとか脱稿することができました。
今回のシリーズは、既投稿記事では最長のものとなりましたが、この間、学校の教科書ではあっさりと端折られてしまった「幕末から明治に至る激動の時代」に興った、戊辰戦争の悲劇を改めて学習することが出来ました。この時代に山形水野藩の置かれた状況を紹介することで、先人達が時代の節目をそれぞれに直向きに生きた様を少しでも知っていただけたなら幸いです。
 この記事は、冒頭に記したように『水野三郎右衛門元宣略伝[復刻版]』を骨格とし、各資料・史料などから抜粋し肉付けしたものです。古文体を自分なりに解釈し現代語に置き換えたものですので、読み取りや識別に誤りが多々あることは必定でありますことから、何卒御批正をお願いしたく存じます。
 前期の参考引用史料、協力者各位のご厚情に改めて感謝申し上げます。

 猶猶 昨年ベストセラーとなった、武士道精神の復活などを内包した、藤原正彦著『国家の品格』は、もしかすると水野三郎右衛門元宣の生き様を書いたものではないかとも考えています。締めくくりに当たり、同書を一部引用することにより、元宣公に敬意を表したいと思います。

 「真のエリート」が必要
 国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。
 それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。
 真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一です。
 第二の条件は「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。……






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5 コメント

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訂正 (∞ヘロン)
2012-09-12 00:09:44
前コメントの 「御宮木綿人と言う役で、坊主より兼務 岩永剛太郎」 は、「岩永郷太郎」の変換ミスでした。お詫びして訂正します。
返信する
歓迎>岩永さん (∞ヘロン)
2012-09-11 12:53:39
ようこそ、岩永さん。まずお尋ねのFFTさんと蓮花さんとのその後の交流につきましては、蓮花さんは、お子さんが生まれて現在子育てに専念されており、メールなどでの遣り取りも中断しておりますが、FFTさんは、水野氏史研究会会員となられましたので、交流はございます。
 ご先祖様は、「岩永郷太郎」様とのことですので、既にご存じとは思いますが、「山形藩水野氏分限帳」文久二(1862)年、をあたりましたところ、役名は「坊主」で「拾七俵弐人扶持 皆川住 御宮木綿人兼小役人格 八代 岩永郷太郎 戌三十六歳」と記載されていました。このほかにも「御宮木綿人と言う役で、坊主より兼務 岩永剛太郎」と記載されておりました。要するに神社やお寺の管理職であったのだろうと思われます。
皆川とは(栃木県栃木市皆川城内町)の事だと思われます。つまり「山川水野氏の祖である水野忠元は、小河城主水野忠守の三男であり、当初は皆川領(栃木県栃木市皆川城内町)の一部に七千石の所領を持つに過ぎなかった。」詳細は「C-3 >護竜山萬松寺(山川水野家歴代墓所)」をご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5df9406e36f646df0e7d1c0da9a989bd
従いまして、貴家は山川水野氏の祖である水野忠元公の頃からの家臣であられた由緒正しいお家柄と言うことになりますね。

>ひと言では言えませんが自分ではいろんな思いでこの紋を旗指に選定びました
やはり、ご先祖様のお導きかもしれませんね。

>郷太郎は岩永10代目、私は14代目になります
とお書きになっておられますが、郷太郎様は、代々襲名なさってこられたのでしょうかね。

 また騎馬打球につきましては、水野氏史研究会ブログに記事を投稿しております。既にご覧いただいたかもしれませんが、念のためURLを記しておきます。
山形豊烈神社の騎馬打毬
http://mizunoclan.exblog.jp/11493859/

 それから、是非とも水野氏史研究会にご入会いただけますようご案内いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

水野氏史研究会について
http://mizunoclan.exblog.jp/i7/

返信する
岩永のルーツ (岩永姓)
2012-09-09 15:38:29
初めてコメントさせて頂きます。ヘロンさんとFFTさんや蓮花さんの交流?は現在も続いているのでしょうか?私は山形市出身で現在宮城県に住んでいる岩永というものです。
唐津~浜松~山形への水野家(三郎衛門)との同行や戊辰戦争での先祖の負傷などを両親から聞いて、当時の役割やルーツを調べようとしましたが、行き詰まり、断念していました。確かに長崎や佐賀には岩永姓が多く山形や東北は少ないことや、戊辰戦争で祖祖祖父の陣羽織を見ると間違いはないようですが、それ以上のことはわかりませんでした。その陣羽織は岩永郷太郎着用のもので、当資料の落合口負傷者に記載されていました。郷太郎は岩永10代目、私は14代目になります。今も山形や岩永姓が好きでいろいろ調べたり気にしておりました。また、子供の頃から青春時代までは豊烈神社にお参りしたり、だ球を見に行ったりしたものです。この度、勤務地である福島県相馬市の相馬野馬追いに甲冑姿で武士として出陣することになり、旗指を作りました。岩永の家紋は重ねシャクでしたが、自分では水野家の水野オモダカを旗指にして出陣しました。ひと言では言えませんが自分ではいろんな思いでこの紋を旗指に選定びました。また、同時に水野家や豊烈神社のことを調べ、水野家のことをもっと知りたくなった次第です。ヘロンさんや、FFTさん、蓮花さんとも交流がもてればと思いました。また偶然にも豊烈神社の宮司さんも水野姓ということを知り、家紋の使用のお礼やお話をする機会をつくろうと思っています。
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ご支援感謝 (∞ヘロン)
2006-07-30 15:36:41
FFTさん

 このシリーズの最初から最後まで色々とアドバイスをいだたいたり、また史料を教えてくださったり、そして力強いご声援を続けてくださったことが、小生の活動意欲となりました。ほんとにありがとうございました。m(__)m

 またこれからも御支援をお願いいたします。

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祝完成&お疲れ様でした (FFT)
2006-07-30 15:03:29
ヘロンさん超大作の完成お疲れ様でした。

改めてNo.1から読まさせていただきました。



戊辰戦争に関し我々の御先祖が特に山形を中心とした戦いの詳細、私が関心のある家臣の個々の名前、その行動など具体的に記述されており大変参考となりました・・感謝です。



ここは私のデータベースへ取り込ませていただきました、残念ながら私の先祖の名前はありませんでしたが関連が想定されますので実の在る文献に成りました。



前回、現首都大学へ行った時に戊辰戦争の記録として見ててはいたのですがここまでの調査はしませんでした、時間があれば再度調べてきたいですね。



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