∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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R-4>「禅と武家水野」

2010-11-22 23:02:53 | R-4>水野氏諸他参考資料
 水野氏史を研究するようになって、水野諸氏の菩提寺に墓参する機会が多くなった。
取材した既得の資料により、採訪した菩提寺や未採訪の寺院を、大まかに列挙してみると、下表の通り大半が禅宗のお寺によって占められていることがわかった。水野氏諸家の大方が武家であったことから、なぜ禅宗と武士とがこのように密接に関係しているのかと、長年疑問に思いつつも、中々資料が得られず判らずじまいであった。
 そのような状況下、先日、偶然に大学の宗教学講義で、教授が「鈴木大拙」氏と板書されたので、著作を調べていく内、鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』に、これまでの謎を解く明解な指針が記されていたので、該当部分を引用し、その関係を考察してみる。

 なにかの関係でもよいが、禅が、日本の武士階級と交渉があったといえば、不思議に考えられるかもしれぬ。各国において仏教はいかなる形態をとって栄えたにせよ、それは慈悲の宗教であり、その歴史に変化はあったが、けっして好戦的な活動に従ったことはなかった。それでは、どうして禅が日本武士の戦闘精神をはげますことになったのだろうか。
 日本文化においては、禅は当初から武士の生活と密接な関係があった。もっともそれはけっして彼らの血なまぐさい職業を実行するように示唆したものではない。武士がなにかの理由で一たび禅に入った時は、禅は受動的に彼らを支持したのであった。禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲学というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。この振返らぬということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ。それゆえ、道徳的にも哲学的にも、禅は武門階級にとって非常に魅力がある。武門階級の精神は比較的に単純で哲学的思索に耽るというようなことは全然ないから――これが武人の根本的資質の一つであるが――当然、禅において似あいの精神を見いだすのである。おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つであろう。
 つぎに、禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振返ったり傍見してはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐに進むということが彼ららとって必要な一切である。ゆえに彼は物質的・情愛的・知的いずれの方面からも、邪魔があってはならぬ。もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮かんだならば、それは彼らの進行に大きな妨げとなる。もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない邪魔者になる。立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か自粛的修道者(ストイクス)である。という意味は鉄の意志を持っているということである。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける。
 
(鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』2005.12 講談社インターナショナル 第三章 禅と武士)


 本著は、誠に明確に記述されているが、水野氏史研究に資するため、内容を箇条書とし考察してみる――

1.どうして禅が日本武士の〝戦闘精神を励ます〟ことになったのだろうか
 武士がなにかの理由で一たび禅に入った時
   → 〝禅は受動的に彼らを支持〟
 禅は道徳的および哲学的に、二つの方面から彼らを支援
  禅は〝意志の宗教〟 → 哲学的で、より道徳的に武士精神に訴える
  道徳的―― 一たびその進路を決定 → 〝振返らぬことを教える宗教〟
  哲学的――〝生と死とを無差別的に取扱う〟
       〝直覚[直観]を重んじる〟(知性主義に対立)
        ∵直覚 → 〝真理に到達する直接的な道〟
   ∴道徳的にも哲学的にも、禅は〝武門階級にとって非常に魅力的〟
 武門階級の精神は比較的に単純 (武人の根本的資質の一つ)
   → 禅において似あいの精神を見いだす
∴おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つ

2.禅の修行 → 単純・直裁・自恃[自負]・克己的
   → 〝戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致〟
   ∵戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよい
 振返ったり傍見[脇から見て]してはならぬ
    敵を粉砕するために〝まっすぐに進む〟ということが彼ららとって必要な一切
∴戦闘者は、知的・情愛的・物質的のいずれからも、邪魔があってはならぬ
    a. 知的な疑惑 → 彼らの進行に大きな妨げ
     b.もろもろの情愛と物質的な所有物
     → 最も有効的に進退せんと欲する場合 → この上ない邪魔者になる
 立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か、自粛的修道者(ストイクス)である
   禁欲的戒行者=欲望、特に性欲を抑え戒律を守って修行に励む人
   自粛的修道者=自分から進んで、行いや態度を慎み仏道を修行する人
  ∴〝鉄の意志〟を持っている
     → そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける

 つまり、武士であった水野諸氏もまた、禅において似あいの精神を見いだし、禅と密接的な関係が生じたことから、帰依し心の拠り所として禅宗の寺を菩提寺としていったものと推察される。つぎに、具体的に諸氏の菩提寺について記述してみる。

 桓武平氏水野については、始祖水野影貞以降、子孫は代々愛知県瀬戸市水野の地に住み、暦応三年(1340)、六代目の致国は、鎌倉建長寺の高僧覚源禅師に帰依し定光寺を開山している。また、致国の甥で致顕の子致高は、応永十九年(1412)、備中守に任ぜられたが、同年十二月二十八日入尾城中で病死し、感應寺に葬られたことから水野家菩提寺のはじまりとなった。感應寺の縁起については、天平六年(734)、行基菩薩が諸国遍歴の途、水野の地を訪れ、小金(おがね)神社を鎮守として小金山感應寺を開基したもので、この地方では最も古い寺の一つといわれている。当初は天台宗であったが、その後臨済宗妙心寺派に属し、定光寺の末寺となった。致高の後裔致勝は、水野権平衛家の始祖となり、孫の正勝は尾張藩の御林方役所の初代奉行に任じられ、代々世襲で明治維新まで九代続く。その間水野代官所の代官を三名排出する。
また、永享九年(1437)生まれで、小河水野の祖ともいえる水野貞守は、水野郷において仏道に帰依し、感應寺に香華堂(こうげどう)を建立したと記録にある。
同系統の水野又太郎良春は、康安元年(1361)、志談村(名古屋市守山区上~下志段味)から荒居(新居)に移り、山林を切開いて一邑となし居住の地とした。新居と称した新田や新宅などの名が後に村の名となった。應安元年(1368)、新居領主となった水野又太郎良春が、聖観音の像を本尊とし、弟報恩和尚(定光寺を開山した覚源禅師の弟子)に安生山退養寺を開山させ当寺を開基した。應安七年(1374)六月十二(六)日、良春は逝去し当寺に葬られた。

 小河水野一族と曹洞宗の関係においては、宇宙山乾坤院(愛知県知多郡東浦町)の建立に始まり、天澤院(愛知県常滑市)、春江院(名古屋市緑区)、傳宗院(愛知県知多郡東浦町)、心月齊(愛知県知多郡美浜町)などを相次いで開創した。これは、統治の必要性から分家を要衝に配し、他の政治勢力を従属させていく課程で、祖先祭祀のために分家がそれぞれの菩提寺を建立したことを示していると云われている。宇宙山乾坤院の縁起については、室町時代中期の文明七年(1475)、緒川城の守護を目的に初代城主水野貞守の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺として、尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。
小河水野諸系は、江戸時代に入ると、大名・旗本などの武家として全国各地に封じられたが、平時の封地においても、なお禅宗の菩提寺が大半を占めることとなった。幕末動乱期においては、二百数十年ぶりに戊辰戦争などが起こり戦いを余儀なくされたが、その時もまた、武家水野諸氏の戦闘精神を大いに励ますことが出来たものと推察される。






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