臥龍山 林昌寺
岐阜県瑞浪市陶町大川216 Visit :2006-10-14 08:30
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●臨済宗妙心寺派 臥龍山 林昌寺(がりょうざん りんしょうじ)
本尊:釋迦如来
美濃瑞浪三十三霊場
当山は、三河から信州に抜ける中馬街道沿いの静かな大川郷にあり、寺院南側の東から西北に掛けて起伏の多い尾根が続き、その姿があたかも龍が臥せっているかの如くに見えることから“臥龍山”と山号が附けられた。
当寺は、戦国時代の頃、臨済宗聖澤門派の開祖東陽英朝が開山したという、五百余年の歴史を有する特筆すべき寺ではあるものの、残念なことに開山以来の寺歴・法経などの伝承はされておらず、数百年間の詳細は不明であるという。
時代は下り、寶永元年(1740)になると、大春大和尚を招請し、中興として三首座(*1)が住してはいたが、堂宇が整わず風雨を凌ぐのみという有様であったと伝えられている。
しかしながら、当寺喚鐘の銘文からは、寛延四辛未年(1751)三月に、尾張(現在の名古屋市東区泉二丁目)から出職(*2)に来ていた、尾張藩一国の独占鋳物師頭水野太郎左衛門の配下にあった、水野彦左衛門藤原房が当寺の喚鐘を新しく鋳造していることが判明しており、当時の住職は惠充であったと陰刻されている。このことから中興された十年後には、住持が常駐し檀家も出来、ある程度の寺院としての形態が整ってきたものと推測される。
銘文は、「新造された喚鐘からは無尽の妙なる音が響き、十罪が滅するのを聞き、また萬の祥(さち)を見るに至り、朝夕鐘を撞き、君主はこれを祝し、家も里も安泰で、禅宗の寺院は永く栄える」という意味になるのであろうか。
ともかくも、この時期本堂の建物は例え粗末であったにせよ、法会(*3)は行われていたようであり、人々を呼び集めるための喚鐘を必要としたことは、この銘文から明かである。
それから七十余年後の安永年中(1772-1780)になり、普山和尚に請うて伝法の祖となっていただき、さらに桃龍和尚に至って法地開山とし、現在に至っている。
本尊は釋迦如来であり、聖観世音菩薩、三十三観音も祀られている。
●水野彦左衛門清房作 喚鐘
寛延四辛未年(1751)三月
喚鐘銘文
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銘曰
蒲 牢 新 鋳 妙 音 無 量
聞 滅 十 罪 見 臻 萬 祥
晨 昏 敲 撃 祝 此 君 王
家 郷 日 泰 禪 林 久 昌
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興 徳 陽 道 智 眞 誌
農 恵 那 郡 大 川 郷
臥 龍 山 林 昌 禪 寺
現 住 惠 充 新 添
寛 延 四 辛 未 三 月 吉 祥 日
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尾 州 名 古 屋 住 大 鐘 師
水 野 彦 左 衛
______________________藤 原 房
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[註]
*1=しゅそ。「そ」は唐音で仏教用語。禅寺で、修行僧の中で第一席にある人。住持(住職)の次席。
*2=でしょく。注文に応じて他に出かけ仕事をする職業。左官・庭師など。
*3=ほうえ。仏教用語。 説法・読経・修法などの仏事を行い、死者を供養したりするための集会。
☆旅硯青鷺日記
今秋初めての採訪となった東濃の旅は、小春日和と云うよりは小夏日和とでも表現したいくらいの暑い一日となりました。まず最初に訪れたのが当山で早朝に発ったことで、午前八時半という通常の訪問には早すぎる時間ではありましたが、大黒様(御庫裏さま)が丁寧にご対応下さり、喚鐘の撮影にも直ぐにご快諾いただきご本堂に案内されました。
取材にご協力いただき心から感謝申し上げます。
お話しが進む内に、檀家の中に「水野姓」の方が沢山おられるとお聞きし、なにやらほっとした気分となりました。
当ブログのカテゴリに「B-3 >鍋屋町鋳物師」を設定しておりますが、開設以来これら鋳物師の作品を採訪出来ずにおり、気には掛けておりましたが投稿数はゼロのままでした。この度、漸くにして手始めに「水野彦左衛門房」の作品を拝見することができ、とても嬉しく思っています。事前に想像していたとおり、作風は水野太郎左衛門、水野平蔵と酷似しており、水野太郎左衛門支配下の鋳物師の製品の統一性が見られました。
精しく調べるとひょっとして木型に同じものか、またはコピーされたものを使っているのかも知れませんね。
帰宅後、デジカメで撮影した銘文を拡大してその文字を読み取りましたが、誤読や読み下しに誤りなども多々あるかと思いますので、ご覧のみなさんにご指摘いただければ幸いに存じます。
鍋屋町の鋳物師名簿http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/26f5b0b640ad36d9d59f805e99b8e356