老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

896;ブログタイトル名改題 ”家で死にたい”

2018-08-17 21:22:48 | 生老病死
 『空蝉/老い楽の詩』から『家で死にたい』へ 改題

いままでブログを書いてきた視点は
自分の目から見た老人介護であったり
自分が日常のなかで感じた様々なことや私的なことに関する内容が主であった。
それはそれで良かったのだが、書き手の立場であった。

これからは
老人介護
なかでも在宅介護のことについて
読み手の立場になった
ブログに編集できるよう意識していきたい。

長寿の時代になり
人生90年から100年の齢になった。
終戦後は、50、60才と短く、認知症の病は無縁に近かった。

いまや町内には寝たきりや認知症の老人は増え、
保育園や幼稚園の送迎車よりも
老人のデイサービスの送迎車の方が多く走っている。

寝たきりや認知症になり
家族の手を煩わせても
住み慣れた「家で死にたい」と叫ぶ老人。

しかし、現実は病院で死ぬ老人が圧倒的に多い。
自宅死に比べ介護施設で死ぬ老人の数はまだ少ないが、
最近、介護施設で死ぬ老人が急増している。


世間体から見た死に場所は「病院」
誰に見送りされることもなく寂しく死ぬのは「病院」


誰も死ぬときは 傍らに誰かが居て手を握ってくれることを望む。
一人で死ぬのは寂しい。
コメント (2)
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895;67年目の夏

2018-08-17 07:51:43 | 阿呆者
67年目の夏

66年前の夏
8ヶ月の未熟児で産まれた
生きれるかどうか危ぶまれたが
いま 感謝している

生家は貧農だった

母乳は出ず
ミルクも買えず
米のとぎ汁と
忘れたころに山羊の乳を
飲み育った私

いまは父母は亡き
親孝行はできなくなった

今日
67年目の夏
産まれた瞬間から
死に向かって生きる

老いになって
死を意識始めた

昨日のことは忘れ
明日はあるとは限らない
今日を生きる

あと5年先の夏まで頑張るとしようか
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