横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

伊達市  精神性と思想

2009-02-27 | 日々
大人の事情で伊達へ出張。週末は函館方面へ。

伊達はうまい蕎麦屋が多い。ホテルの隣の蕎麦屋も、うまい。
別にそばの産地でもないのに。
これは伊達という土地のインテリ度合いと関係があると、私は確信している。
「どれ、ひとつ、うまい蕎麦屋でもやってみるか」
そういう人が集まるような土地だ。
でも、伊達のそばは、本州の有名なところにありがちな量がものすごく少ないくせに高い、蕎麦屋の精神とウンチクを食わされてるような「インテリ蕎麦」ではない。量多いしね。そこらへんは北海道だ。


今日はホテルの自室で仕事。
風呂入って朝飯食って、パンツ一丁で猛烈に仕事中。

それにしてもパンツ一丁ってなんだ。
パンツの数え方って”丁”なのか。

・・あ、わかった、褌(ふんどし)の流れだ。
褌一丁、だからね。

じゃあ何で、褌は”丁”なのか、というと、
きっとそれは褌が本質的に内包する精神性ということになるのだろう。
褌=ぺらっとした布で局部を隠してぎゅっと締める、という行為自体の精神性だ。
そうすると、褌で隠蔽されるべき部分も”丁”でカウントされるべきで。でも、何でそう呼ばれないかというと、褌で隠蔽されるべき部分を数えるという機会が普通に生活している中では無いからなのでしょう(極特殊な場合を除いては)。
いずれにしても精神性だ。
それは思想ではない。
思想ですらない、精神性。
いやだなあ。

千年王國『愛する人を失うという世界共通の悲しみについての物語』

2009-02-27 | 観劇した
千年王國を観た。コンカリーニョ。


以前、橋口と話をしていたときは、彼女の口から「共同体」という言葉がよく出てきて、僕は、演劇というロジックの中での彼女が意図する”共同体”の意味・定義がわからなかった。今、橋口は”共同体”というものについてどう考えているんだろう。

気になるところといえば、どうしても俳優の体が踊ってしまうことだ。身体が、台詞を説明しそうになる。説明したがっているように見えてしまう。そうすると、”ファンタジーを表現するための身体”というふうに見えてしまう。そのことが、この神話としての劇を進行するのに有効に働いているところもあるんだけど。

でも、役者はこの劇をよく体現していたと思う。
なんだろう、ああ、やっぱりこの人も年齢を重ねたんだなあ、と、あるとき思った。榮田さんと村上さんだけど。ひとりの女性が、確かに見えたりした。独立した、”個”としての女性が。それで、この劇団のこととか、橋口のいう共同体というものを考えたりした。詳しく知らないけど、榮田さんと村上さんって多分30歳前後なんでしょう、違ったらすいません。あ、なんかこの人たちこの先いい芝居すればいいな、できるんじゃないかな、と思った。今、なんというか、役者としての転機なんじゃないかって。ほんとに大変勝手な、余計なお世話なことですが、そのように思いました。

村上さんと赤沼くんペアのありかた、それと重堂くん坂本さんの居かたが、僕がこの劇を考える軸になっている。村上・赤沼は”些細なエピソードの人”、重堂・坂本は、つまり見守る人だ(最後は未来を引き受ける二人なんだけど)。見守るんだよな。見てるんだよな。どうやって、見てるんだろう。どうやって居るのだろう。そういうことに、そのリアルさに、人は敏感だと思う。

ファンタジー。
橋口って、よくこんなこと考えるよな。よく思いつくよな。
で、ファンタジーを語る手口はどうだ。
役者がファンタジーを体現するって、難しいな。
役者にファンタジーを体現させる、言葉と身体で体現させるって、難しいな。

もう一回観たいな。観れるかなあ。

出張 美唄 テアトル・パニック

2009-02-23 | 日々
雪だ雪だ。北海道は大雪だ。
雪かきで大変だ。
本州の皆さん、北海道は今、雪です。

大人の事情で美唄へ。
美唄の人とお酒など頂きながらお話。
「私のような者からすると、岩見沢・美唄・砂川そして滝川までというのは、”道央道沿いの空知”というくくりで見てしまいがちであるが、果たして当地の方から見て、美唄という土地とその気質をどのようにとらえておいでか」なんて話をした。私よりもずっと年上の方だったのだが、とても丁寧に答えて下さり、面白かった。旧産炭地であり、なおかつ稲作地帯であり。町の、町としての成立の仕方に、やはりこの町特有のものがあり、また各種産業や商売の成り立ちや変遷にも、当然だがこの町の固有の事情に沿った経緯があり。そして、この町と人の今があり。いくらでも聞いていたい話だった。
そのあと、道南のホールの担当の方とは、最近地元で立ち上がった劇団の話など。劇団の世話をいろいろする関係でホール担当者としての愚痴をぐちぐちとこぼしておられたから、「それではその人たちは、御地で演劇というものを成立させるためにどのような展望なり希望なり策なりを有しておられるのか」などと話す。


アラバールの「建築家とアッシリアの皇帝」を改めて読む。
うーん、これはやばい。やばいよこれは。むちゃくちゃだなあ。むちゃくちゃするなあ。こういうの、やりてえなあ。『恐怖の演劇(テアトル・パニック)』だそうですよ。今度鳩で読んでみよう。





札幌相互観劇パス”Miruca”

2009-02-20 | 日々
芝居なんかを作ってる連中、お互いの芝居を、もっと観なくてはいかんなあ。
そんで、もっと、人の芝居に対してあれこれ言わないとだめだなあ。
演劇大学のあれやこれやの中で、すがのとそんな話になったのが昨年の春か夏あたり。

それで、作ってみました。
札幌相互観劇パス、Miruca。
かっこいいでしょう。
俺とすがので一枚づつ持ってる。お互いの芝居を、これをピッと出して観るのです。
今は、僕とすがのくんだけですが。

■記名本人だけが使えます。「ちょっと貸すからお前、観てこいよ」とかはダメです。
■演劇大学札幌実行委員会発行、ということにしておきます。
■お財布に入るナウいデザインです。
■どの団体どうしで、誰と誰がフリーパスになるか、これが決まればmiruca契約成立です。多分、カンパニーの代表間で、というのが一般的でしょうが、もちろん俳優・スタッフどうしでも可能です。カンパニーの事情によるでしょう。
■miruca契約が成立したら、私か近所の演劇大学実行委員会にご連絡いただければ、2枚作って、お送りします。
■演劇大学札幌に関わりない方でも作ります。本当です。
■作ったからといって、演劇大学札幌に参加しなくちゃいけないというもんではありません。参加して欲しいですが。
■送料と実費で200円くらいはいただこうかしらと思ってます。
■詳細、ご相談お問い合わせ下さい。


Miruca。いいでしょう。
Mirucaの輪をじわじわと広げよう。
そして、お互いの芝居をもっと観よう。
堂々と批評しよう。評価しよう。

製本

2009-02-19 | 日々
やってみたい戯曲を自分用に製本する。
コピーして切り貼りしたり、スキャンしたりして、ページをふりなおしてB5サイズに。今はコピー機で表裏印刷なんてのがあるから、楽だ。
なにより両面印刷にするとかさばらない。

こういうことを今までちゃんとやってこなかったなあ、と思う。

自分の中で俳優部と文芸部と演出部を分けて考えてみる。
自分の中に俳優部・文芸部・演出部をそれぞれ立ち上げてみる。
それはつまり、平和の鳩の俳優部と文芸部と演出部なのだが。
ああ、制作部ももちろんあるが。

各部をじわじわと進めていってだな、それが一本のワイヤーになればよい。
バランスとアンバランスを、じょーずにやりたい。それはつまり、尖がってる、ってことなのだ。

ぐるぐる地獄

2009-02-16 | 観劇した
舞台塾の「ぐるぐる地獄」をみた。

今回のは”リーディング公演”だという。だから、本を手に持って芝居は進む。

リーディング公演というものが一体何であるか、ということはどうでもいいのだが、問題はなぜその形の上演を選んだのか、ということだ。その意図だ。
で、観ながら、面白くないからいろいろ考えた。

①本を読みながら動きもそれなりにつけて上演するというスタイルを新たに確立、模索する。
だとしたら、”人間が文字を声に出して人前で読む”、という行為についてもっと考えたほうがいい。
多分、台詞は既に覚えてしまってるんだろうけど、読む、という行為の見せ方がいかにも雑だ。顔を本に向けて声張り上げりゃいいってもんじゃない。あれは、朗読、というスタイルの下手な模倣でしかない。幼稚だ。他の動きや何やらの要素がいろいろある分、余計に”リーディングをしている人々”ってのを類型的に演じてる人々に見える。幼い。

②とりあえず、リーディングというところでとどめておいて、本の内容や可能性をアピールして次につなげる。
だとしたら、なおさらもっとちゃんと読まないと、本がかわいそうだ。
アニメのアテレコじゃねえんだからよう、冗談じゃねえや。
芝居が出来ると思ってる役者にリーディングなんかやらせると、ああなっちまうのは仕方ないのか。
それは、なんでしょう、芸ってやつかね。
芸じゃないと思うぞ、俺は。

客を馬鹿にするな、とは思わない。どんどん馬鹿にすればいいさ。だけど、人前で言葉を発するという行為の怖さくらいは知っていたいと思う。怖れをもって、やりたい。
あと、客は確かに馬鹿だけど自分と同程度にはかしこいかもしれないな、くらいのことは考えておいたほうがいい。俳優も。


リーディング公演がなんであるか、なんてことはどうでもいい。
”リーディング公演です”、そんなエクスキューズは不要だ。
”リーディング公演です”というアピールなら、すればいい。
で、なぜそのスタイルを選んだか、だ。
舞台上にそれを出現させたものの意図だ。その意図に興味がある。

興味は、それを出現させたものの意図にある。

ダム・ウェイター

2009-02-14 | 日々
『ダム・ウェイター』か。いいね。
ピンターは、やらないとね。
あ、清水が赤坂さんが買ってきたピンターをせっせと読んでるというので。

それで俺もあわてて本棚へ。
・・あ、アラバールだ。
アラバール、やりたいなあ。
『建築家とアッシリアの皇帝』なんか、どうだろう。
アラバールといえば『戦場のピクニック』が有名だけど、これは建築家と皇帝が出てくるのです。そんで、二人とも膨大にしゃべるのです。ものすごく大変そうです。こんなもの、観て面白いのでしょうか。
やりたいなあ。

企む日々。

SKグループ『アイドゥーアイドゥー』

2009-02-12 | 観劇した
SKグループ『アイドゥーアイドゥー』観劇。
次の下北沢でのコンクールの参加作なので、1時間の作品。

すがのが描いたクレヨンの絵がいい。美術もよかった。

人物の会話が、もう少し閉じた芝居(演技)だったらいいのにと思った。
どうしても客席に対して開こうとしているように見える芝居になってしまう。
人物同士でもっと完結して欲しい。言葉が、客席に向かって散っている。
後ろめたさとか、エロさなんかが、人となりが、もっと出るはずだ。
それを、いわゆる”キャラクター”として表現しようとするのではなく。
すがのの書いた言葉は、俳優も、演出的にも、もっとやりかたがあるのではないかと思った。

屋根裏だしな。急いで仕込んでるから、水性ペンキの匂いとかするし。
にじみ出てしまった情緒みたいなもの。愛みたいなもの。
この本は、練ればもっと良くなると思う。
面白かった。

緒形拳さんのこと

2009-02-08 | 日々
金曜日
緒形拳さんを偲ぶ会に出席。赤坂プリンスホテル。

今の仕事を始めた2003年、僕の初仕事が緒形さんと串田和美さんの『ゴドーを待ちながら』だった。入って3週間後、何も分からず函館空港で待ってたら、イカツイ舞台スタッフに囲まれて黒のコートを着た緒形さんが現われた。怖かった。
ある劇場でロビーに飾ってある人形を見て、「おいお前、これはアンティークか?」と聞いてきた。分からなかったから「すいません、わかりません」と答えた。緒形さんは「・・・そうか、分からないのか。」と言った。でも、なんか僕のことを覚えてくれて、最後には「おい、北海道」と呼んでくれた。たぶん、北海道のやつ、ということだったのだろう。
3年後、『白野』で東北と北海道に。翌年は同じく『白野』で西日本をまわった。
ツアーの何箇所目だったか、場当たりで声の響きとかを確認していた緒形さんは、いきなり「おい、横尾、お前やれ」と言った。しょうがないので、本を読みながら
冒頭の部分をやった。緒形さんが動くであろうところをグルグル歩きながら。しばらくやって、「どうもありがとう。・・・お前、下手だなあ」と言われた。でも、それから旅の間、毎回場当たりで緒形さんの前で読んだ。
あのでっかい手で頭をぶん殴ってくれたりもした。
旅の最後のほうで「『白野』で、また北海道まわろうな、面白い場所で」と言ってくれた。でも、それは叶わなかった。

緒形さんの芝居をみて思ったこと感じたことをここで全部書くことはできないからやめておく。緒形さんと出会って何を得ることが出来たか、なんて、とてもいえない。「私は何かを得ることができました」なんて、怖くて言えない。
ただ、僕はこの先も舞台に立つ以上、緒形さんがひとりっきりのあの最後の舞台になにを携えて何を考えて立っていたか、あのスクエアの舞台にどんな思いで立っていたのか、そのことは想像し続けるだろう。

エビバイバイ「つむぎブギウギ」

2009-02-06 | 観劇した
ちょっと前だが、エビバイバイの「つむぎブギウギ」を観た。
斎藤麻衣子が作・演出。

本が厳しいなあ。
エビは、第一作からムーブ中心みたいなつくり方をしていて、それはHAPPで一緒にやってたときの細木と麻衣子の興味の方向もやっぱりそうだったし、エビで「踊りに行くぜ」に出たりしてるから、まあ、動きのほうに興味があるんだろ。
で、今回は麻衣子が本を書いたという。
本が厳しい。
少なくとも舞台上で語られるべき言葉ではない。

舞台には天井にストリングがいっぱい張り巡らせてあって、床にも毛糸球の親分みたいのがたくさんころがってて、それがチラシにもあるように「こんがらがって、からまって」のイメージになっているのだが、残念ながら人物と人物が少しも絡まっていない。むしろ、すり抜けている。すり抜けてしまっているように見える。
だからといって、否応なしにすりぬけてしまう人間と人間を描くとか、すり抜けるために企む人物を描くとか、そういうことにもなっていない。言葉がね。

もっと悪い言い方をしてしまえば、言葉が、せりふが、ショウの時間を埋めるためのものになってしまっている。ショウの進行のために奉仕しようとして書かれているように見える。・・・言いすぎかなあ。言い過ぎだな。
動きの部分とかは、作品のなかでの必然性で言えば必然性があるとはいえないのだけど、動きがだめとかそういうことはなかった。

エビは、難しいことをやろうとしている。
でも、動き・ムーブの部分と言葉を合わせて演劇として成立させるには、相当な腕力か技術か知恵、それとビジョンが必要だと思う。

昨年清水のWATERのを見たときに思ったのは、ムーブのときの俳優のありかたと言葉を発するときの俳優のそれの差異というか、意識レベルの開き。「ああ、やっぱりこのひと(俳優)は、台詞をしゃべりたいんだなあ、パリっとしゃべりたいんだなあ」って思ってしまった。
今回のエビで思ったのは、それとは違う。
本のレベルで、言葉と動きが乖離している。


・・・・人のを観てあれこれ考えるのは、ためになるなあ。




TPS養成所卒業公演「足のある死体」

2009-02-06 | 観劇した
養成所の「足のある死体」(作・別役実)が今日から公演なのだが出張で観れないから、通し稽古を観た。

難しいねえ。
演出が指定した間(ま)が、ああいう形で現れてしまうということは、それは結局言葉による会話の部分も成立していないということになってしまうんじゃないでしょうか。
埋めればいいってもんじゃないけれど。
でも、間として成立していないというのは問題だ。
埋まらない間も、ある。埋まらない時間もある。成立しない会話・対話も、ある。そして演劇は、それを含めて演劇として成立しているべきだ。時間は流れるはずだ。

そうだ。そうなのだ。
演劇は、時間の流れに対して慎重であるべきだ。演劇は時間を扱う芸術だ、などと言えばかっこいいが、でも、そうだと思う。

そーいえば、演劇大学の時に青井さんが「優れた戯曲は加速する」ということを言っていた。

役者が時間をどう扱えるか、ということは、今はわからない。
でも、どの時間の流れ中で存在しているのか、間違った時間の中に存在していないか、そのことの検証は常に続けなくてはいけない。

見てよかった。
時間の流れに慎重になろう。
いやあ、観てよかった。




2月になった

2009-02-05 | 日々
次回作のための本を読んでばかりいる。あとは仕事。
最近の仕事は不細工な後始末ばかり。

仕事終わって地下でカマウチとイナガキと話す。
彼らの養成所卒業公演が金曜日からだ。別役さんの「足のある死体」。彼らもいろいろ悩み深そうで、楽しみなことです。
そのあと、ツルマキのやつの稽古終わったホソキと、この前のエビの芝居のことでちょいと立ち話。
あとは、ナカガワラがてんぷら油に火をつけそうになったとか。
サトウがいろいろ侍らせてバイエル新札幌公演に来たとか。
アベのお土産の富良野の饅頭がほとんど破裂してたりとか。
ヨコヤマが昨日から鬼になったとか。