横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

エビバイバイ「つむぎブギウギ」

2009-02-06 | 観劇した
ちょっと前だが、エビバイバイの「つむぎブギウギ」を観た。
斎藤麻衣子が作・演出。

本が厳しいなあ。
エビは、第一作からムーブ中心みたいなつくり方をしていて、それはHAPPで一緒にやってたときの細木と麻衣子の興味の方向もやっぱりそうだったし、エビで「踊りに行くぜ」に出たりしてるから、まあ、動きのほうに興味があるんだろ。
で、今回は麻衣子が本を書いたという。
本が厳しい。
少なくとも舞台上で語られるべき言葉ではない。

舞台には天井にストリングがいっぱい張り巡らせてあって、床にも毛糸球の親分みたいのがたくさんころがってて、それがチラシにもあるように「こんがらがって、からまって」のイメージになっているのだが、残念ながら人物と人物が少しも絡まっていない。むしろ、すり抜けている。すり抜けてしまっているように見える。
だからといって、否応なしにすりぬけてしまう人間と人間を描くとか、すり抜けるために企む人物を描くとか、そういうことにもなっていない。言葉がね。

もっと悪い言い方をしてしまえば、言葉が、せりふが、ショウの時間を埋めるためのものになってしまっている。ショウの進行のために奉仕しようとして書かれているように見える。・・・言いすぎかなあ。言い過ぎだな。
動きの部分とかは、作品のなかでの必然性で言えば必然性があるとはいえないのだけど、動きがだめとかそういうことはなかった。

エビは、難しいことをやろうとしている。
でも、動き・ムーブの部分と言葉を合わせて演劇として成立させるには、相当な腕力か技術か知恵、それとビジョンが必要だと思う。

昨年清水のWATERのを見たときに思ったのは、ムーブのときの俳優のありかたと言葉を発するときの俳優のそれの差異というか、意識レベルの開き。「ああ、やっぱりこのひと(俳優)は、台詞をしゃべりたいんだなあ、パリっとしゃべりたいんだなあ」って思ってしまった。
今回のエビで思ったのは、それとは違う。
本のレベルで、言葉と動きが乖離している。


・・・・人のを観てあれこれ考えるのは、ためになるなあ。




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