横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

違和感

2011-04-15 | 日々
違和感である。
いろいろなことに、違和感を覚えるのである。

私の場合、震災が起きる前からそうだったから、今の状況のせいだというのではない。
震災後、ということでいえば、違和感やら憤りやら呆れることが山ほどある一方、いろんな人々の姿を伝え聞いて、日本人でよかったなとしみじみ思うことも度々だ。


今、違和感を覚えた事象それぞれに対して、いちいち発言すべきなんだろうか。
わからないのだ。

大きく、これからの世界のために、ということで考えれば、それぞれが最善の状況のために発言することが必要だと思う。

一方、
「人間の欲」を燃料にして我々が突き進んできたとするならば、その「欲」について見直すことは、避けられないだろう。


人間の欲が災厄を招いた、と言いたいのではない。
それを今までのまま放置することと、この国が立ち直ることが、両立するとは思えないのだ。


それで、私の違和感である。
私の違和感は、正しいのか?
仮に正しいとして、発言すべきなのか?
一体、何かを主張する根拠とか、基準というものは、何だろう?

私たちは、親から、また社会から、漠然としたモラルやルールや道徳というものを教えられ、大多数の善意、悪意を形にしない行動、目の前の大多数の他者は安全であるという安心、それらを前提として社会生活を営んできた。
それは、日本が世界に誇るべきものだと思っている。

私が今、漠然と思っているのは、新しい生活レベルの基準とか、新しい日本市民としてのモラルとか、そういうものだ。

今、たとえば演劇について考えるとき、そのことが頭によぎる。


最後に違和感をひとつ、あえて言うならば
「今、●●に何ができるか」という物言いだ。
根拠はない。ひょっとしたら、それは正しいことかもしれない。

「今、演劇に何ができるか」
と言いたくないだけかもしれない。
なぜ言いたくないかは、まだ整理できていない。




4月

2011-04-14 | 日々
昨年の11月24日に、私は中標津の牧草地帯を走るバスの中で尿意と闘っていたらしい。
だから、その前日は帯広にいて、その2日前には大船渡にいたことになる。

大船渡のリアスホールで仕事をした翌日、美しいリアス式海岸を眺める海沿いの道を走り、陸前高田や気仙沼を通り、仙台空港に向かった。

大船渡で劇場バラシ後の深夜、閉店直後に入ったのに快く蕎麦と天ぷらと熱燗を出してくれた、ホテルの近くのあのお蕎麦屋さんも、きっともうない。


いろんな人が、それぞれの状況で、いろいろなことを感じたり、考えたりしているのだろう。いろいろなことを。

自分のこと。他人のこと。社会のこと。絶望について。希望について。

渦巻く思い、想い、悲しみ、瓦礫と、絶望と、愛と、
そんなものを抱えて、いったい我々はこれからどこへ向かうというのだろう。


生きていかなくてはいけない。
生きている人間というのは、生きていかなくてはいけない人々のことだから。


問いかけること。
それが、今、我々に許されたことだと思っている。
同時に、それは、我々に課せられた使命でもある。


それで、今日からまた書き始めようと思います。