横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

ぐるぐる地獄

2009-02-16 | 観劇した
舞台塾の「ぐるぐる地獄」をみた。

今回のは”リーディング公演”だという。だから、本を手に持って芝居は進む。

リーディング公演というものが一体何であるか、ということはどうでもいいのだが、問題はなぜその形の上演を選んだのか、ということだ。その意図だ。
で、観ながら、面白くないからいろいろ考えた。

①本を読みながら動きもそれなりにつけて上演するというスタイルを新たに確立、模索する。
だとしたら、”人間が文字を声に出して人前で読む”、という行為についてもっと考えたほうがいい。
多分、台詞は既に覚えてしまってるんだろうけど、読む、という行為の見せ方がいかにも雑だ。顔を本に向けて声張り上げりゃいいってもんじゃない。あれは、朗読、というスタイルの下手な模倣でしかない。幼稚だ。他の動きや何やらの要素がいろいろある分、余計に”リーディングをしている人々”ってのを類型的に演じてる人々に見える。幼い。

②とりあえず、リーディングというところでとどめておいて、本の内容や可能性をアピールして次につなげる。
だとしたら、なおさらもっとちゃんと読まないと、本がかわいそうだ。
アニメのアテレコじゃねえんだからよう、冗談じゃねえや。
芝居が出来ると思ってる役者にリーディングなんかやらせると、ああなっちまうのは仕方ないのか。
それは、なんでしょう、芸ってやつかね。
芸じゃないと思うぞ、俺は。

客を馬鹿にするな、とは思わない。どんどん馬鹿にすればいいさ。だけど、人前で言葉を発するという行為の怖さくらいは知っていたいと思う。怖れをもって、やりたい。
あと、客は確かに馬鹿だけど自分と同程度にはかしこいかもしれないな、くらいのことは考えておいたほうがいい。俳優も。


リーディング公演がなんであるか、なんてことはどうでもいい。
”リーディング公演です”、そんなエクスキューズは不要だ。
”リーディング公演です”というアピールなら、すればいい。
で、なぜそのスタイルを選んだか、だ。
舞台上にそれを出現させたものの意図だ。その意図に興味がある。

興味は、それを出現させたものの意図にある。

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