横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

intro「蒸発」  続・続き

2011-11-15 | 観劇した
全く軽率だった。
前々回のことだ。

劇中の「身体を掻くような行為」を「無意識の行為」と書いた。
間違いでした。


舞台上で身体を掻く行為は無意識の行為ではない。
「かゆい」
「掻いたらキモチイイだろうな」
「掻きたい」
「掻いているが話は聞いてるふりをしよう」
「掻いてキモチイイな」
「掻きすぎて血が出るかな」



舞台上で「身体を掻く」という行為は、これら無数の意識の積み重ねの上に出現している。

ここで、「身体が痒い人の気持ちになって」とやると、まあ間違いなわけだが、ここではそれはおいておく。ほんとは、けっこうな年数やってる札幌の俳優でもこういう「気持ち」に立脚した芝居したりするからそのことを糾弾したい気持ちはあるが、やめておく。


無数の意識と言ったが、それらの意識のレベルは均一ではない。ここでいうレベルとは、深さ・強さ・長さなどのことだが、
たとえば、
「さっきから左腕がちりちりと痒いけどそれほどでもないくらい」
という意識と
「突然大きな音でドアが空いた」
という意識では、そのレベルが異なることがわかるでしょうか。
で、これらの積み重なった意識は同時に進行している。

青井さんによると、戯曲に描かれた人の意識の最深部にあるのは、ほとんど無意識と言ってもいいレベルだけど「死にたくない」という意識だという。なるほど、ですな。
で、「死にたくない」という意識が最深部から最前線に現れたりするわけですな、芝居では。その意識を揺り動かすためにドラマツルギーが有効に作用していると、ああ優れた戯曲ダナと思うんだが、まあそれはいい。

俳優訓練の経験を持つ人なら、やったことがある人も多いと思うが、
例えば「フライパンを振りながらせりふを言う」(もちろん、掃除機をかけながらでも、落花生の皮を剥きながらでもいい)という、あの訓練。
おそらく現場では、「何か作業をしながら会話すると自然にせりふ言えるのです」なんて説明がなされていると思うのだ、
あれはつまり、演技者の意識を、適正でまっとうなレベルに補正する為の作業だ。無能な指導者や俳優が「自然な演技を」というのとは全く異なる次元で、フライパンを振る行為、相手と話す行為、この二つを実行している(正確には、これらの行為をしながら舞台上に存在している)人間の意識を、レベル分けして整理しているのです。

ここで、きっと誤解されるからあらかじめ言うが、私は、これらの作業を俗に言う「自然な演技」へのアプローチとは考えていない。大体、なんだよ「自然な演技」って。芝居とかやってる人間が、自然とかナチュラルとか口にするなよ。

まあいい。

そろそろ、intro「蒸発」 の話にしよう。


全編を通じて行われる、体を掻く行為、そこに貫かれている意識と、
コトバを話す行為を支える意識、これが乖離しているように見えた。

コトバとカラダと意識を解体したまでは良いと思う。
で、そこから再構築してどうやって舞台に提示するか。

と、ごちゃごちゃ書いたが、
分かりやすく言えば、

あとコトバと行為を一緒に出現させるんだったら、笑わせないといけないよな。
ってことです。

客のことなど気にするなといっておいてなんだが、
客が喜ぶから笑わせてあげるのではない、当然笑うべきだから、そうさせるのだ。








intro「蒸発」  続き

2011-11-13 | 観劇した
intro「蒸発」 の続き


結局は、なにをもって「おもしろい」とするか、になるんだろうけどね。


例えばですね、
ほんとに例えばなんだけど、
ケラさんの芝居である瞬間「オモシロイ」とするでしょう。
で、それって、絶対にケラさん本人なんだよね。
うーん、なんて言ったらいいんだろう。
そのことを舞台に置いて笑ってるケラさんが、そこにいるっていうか。
その、「置く」ことが才能なんでしょうけどね。

また、例えばなんだけど、
北村想さんの本とか、別役さんの本とか、ふざけてるじゃないか。
(一応お断りしておくがお二人とも私が最も敬愛する劇作家である)北村さんとか別役さん自身が、ふざけてる。
そのふざけ具合が、私は面白いと感じる。魅力を感じる。


演劇の、戯曲の「オモシロイ」ところを挙げたらきりが無いからやめるが、
じゃあ、今回のイトウワカナ/introで、何が「オモシロイ」かを考えなくてはいけない。

結論から言うと、イトウワカナが方法論と演出論を試行錯誤の中で生み出そうとし、劇の言葉を捻り出し、舞台として成立させようとした、そのことが、面白かった。
そしてこうして書いてみるとはっきりするんだが、このことは演劇を作るうえでの、ごくまっとうなプロセスであると言える。

性急な気もするが更に結論を言えば、イトウワカナは「何が自分にとっての演劇か」を追求したのだと思う。
だから、見ていて面白かったし、嬉しかった。ワカナがね。



余計なことだが言ってしまえば、あの芝居観て観客がどう思ったかなんて、知らないよ俺は。


ワカナには、どうか観客のことなど気にしないで突き進んでいただきたいと思う。
ま、客来ないと、困るけどね。



次回は、惜しかったとこを書きたいと思うが、どうでしょう。
つまり、「蒸発」 の何が「オモシロク」なかったか、だ。











intro「蒸発」

2011-11-09 | 観劇した
琴似のパトスで観た。


ああいう、志の高い舞台を俺もやりたいもんだと思う。
ワカナはえらいなあと思った。


すごく、難しいと思いましたけどね。
やろうとしていることが。

俳優の意識と身体のことを創作体として追及しないときっと成立しない、そういうことをやろうとしていた。

もちろん、観ながら岡田さんのチェルフィッチュとの比較は、した。
比較するのはイヤだから、初めはしないようにしてみていたんだが、途中から、した。


俳優が言葉を話す。
言葉を話す人間を、話す行為をデフォルメして表現として置くことと、
全編を通じて行われる、体を掻くような行為(つまりこれは、その場の環境に反応した、無意識の行為として提示されているんだが)、それが繋がって劇的なものとして効果的に現れているようには残念ながら見えなかったんだが、


イトウワカナには、試行錯誤しながら言葉を紡いで「劇」にしていく力がある。
本がイイよね。
うーん、がんばったなー。ワカナ。って、帰りに南参と話した。

ああいう、志の高い舞台を作ろうとする人がいるから、俺も札幌でもちっとがんばろうかなって思いました。

千年王國「きみしかいない」

2011-10-12 | 観劇した
千年王國「きみしかいない」

コンカリーニョで観た。

俺はどうも、昔話というか、橋口が扱う神話みたいなもんがよく分からないもんで、それに関してはなんともいえないんだ。昔(2000年前ということですな)の話と、今の(震災後の札幌、ということですな)話と、橋口の頭ん中ではつながっているのですな。俺にはわからん。

例えばなんだが、
南参が、自分のおばあちゃんのことがあって、「忘れたいのに思い出せない」を書いたでしょう。どっちかというと、そっちにシンパシーを感じたりする。
うん、シンパシーとは違うな。「あ、南参、書いたなこいつ」っていうか。

ただ、私がそういうふうにして作者と本を見ることと、舞台作品として面白いかってことは全く別だ、とは分かっている。
有体に言えば、今、私は芝居を観て、それが作品としてオモシロイかどうかにほとんど興味がない。
誤解があるから言い方を替えると、作品が面白いかより、俳優がイイとか、そっちに興味がある。

これ、橋口に言ってしまって、公演期間中にまったくつまらないこと言ったと反省したんだが、俳優の声の高さがあと半分低かったら(すごくいい加減な表現で恥ずかしい限りだ)いいのになとか、根拠もなく感じるだけだ。
で、何故そう感じたのかを考えながら見る。
ついでに書いてしまえば、声が高いなと感じたのは、俳優の重心が高いと感じたんだと思う。この前千年を見たとき俺は足を見てたし、自分でも嫌になるんだが、でも、きっとそこに俺が俳優に対しての視線があるんだと思う。

で、思う。「橋口、書いたな」って。
そしてまた思う。それは、俺は、橋口のを観て毎回思ってることだと。
別に、震災とか関係ない。


以上、もちろん劇評はないし、感想ですらない。
自分の整理の為に書いてみた。

ドライバナナン

2011-07-12 | 観劇した
ZOOで、かとうしゅうやと重堂くんとヒコソくん。
面白かった。EDの話。

彦素とかさ。TPSのキムラとかサトウとかさ。
ああいうふうに芝居ができたらいいのになと思うんだが。
ああいうふうに舞台に立てたらいいなと思うんだが。

かとうくんと重堂くんは、ほんとはすごくへんな2人なのに、芝居うまくできちゃうから、すごくもったいない。
破綻してほしいのに。破綻してる男を見たいのに。
破綻した芝居、というわけじゃないよ。
ヒコソは、スリリングだ。ハラハラする。

観客なんて、勝手なもんだ。残酷なもんだ。
破綻しそうなものをみて喜んでるんだから。
美しいものが、見たいんだ。


あと、6月はケイゴとトモカの結婚式に出たりした。

今から大人の事情で教文に行く。

yhs『忘れたいのに思い出せない』

2010-07-14 | 観劇した
ZOOで観た。

南参、よく書いたなあと思った。そのように思いながら観てた。

ラスト、警報のベルがずっと鳴ってて、そこでおばあさんが赤ちゃんを抱いてるんだけど、あ、このまま終わればかっこいいのになあと思う。結局、終わらないんだけど。
で、俺がそのように思ったのはなんでだろう、と考える。

きっと、この本に、もう少し強さを求めてしまったんだと思う。

たとえば三戸部とエレキさんのエピソードの部分とか、もうすこし強くなるんじゃないか。
今言ってる強さ、ってのは、暗さ、なのかもしれないんだが。人間の暗さ、暗さの可能性、みたいな。

このまえ観たのは死刑のやつで、今回が認知症の話で、南参はよく書くなあ。
あー、こいつ、険しい所に進んでる、とか思って、うれしくなる。別に、扱う題材が重いとか軽いとかそういうことではなくて、書きたいと思うことを書き、それでもやっぱりエンターテイメントを書こうとするこの人が、うれしい。その道は、険しいと思うけどね、すごく。
だから、もっと、骨太なモノを求めてしまうんだと思う。彼の書く本に。


おばあさんの福地さん、よくやったと思う。きっと、たいへんだったのではないでしょうか。あれは。ストイックな芝居してた。


ロビーで売ってた上演台本買ったり、テシロギとか南参とかに「ラストは俺なら絶対こーするね」とかわーわー喋って、また余計なことを言ってしまったと思いながら帰る。

東京で、いろいろ

2010-06-30 | 観劇した
■劇団東京乾電池『海辺のバカ』
加藤さんの本、言葉がいいもんで、そうなるともう芝居は俳優だなあと思う。

すごくストイックな芝居だったんだけど、柄本さんにいわせると「でも、あれで笑わせられないってのは、ダメなんだよね」だそうだ。

困難なことをやろうとしているひとたちだなあと思う。全く、困難だ。



■ナイロン100℃『2番目、或いは3番目』
冒頭、地図を見ながら場所を確認するシーンが、別役さんの「壊れた風景」で、で、人々の出入りとか、言葉とか、やっぱりチェーホフで、ああ、ケラさんは別役さんとチェーホフが好きなんだなあと思う。本当に好きかどうかは知らないけど。
で、その、別役とチェーホフを消化して自分のものにしてしまうケラさんは、あーやっぱりものすげえ作家だなあと思う。
だいぶ、長かった。


■ラヴ・レターズ
パルコでずーっとやってる企画。青井陽治さん演出の男女の二人芝居。

数年前の演劇大学で、青井さんに「ラヴ・レターズ」のワークショップをやってもらった。
そんなことお思い出しながら、観る。
後半、男性がぐんぐんよくなる。最後までぐいぐいよくなる。
で、よかった。
女性、ちょっと難しい。


終わってから、青井さんと夜中のセンター街でお茶飲みながらいろいろ話す。

劇団ひまわり『天才バカボンのパパなのだ』

2010-06-20 | 観劇した
何年か前から清水がやってる、劇団ひまわりの公演。

別役実・作の『天才バカボンのパパなのだ』は、平和の鳩を始めたときからいつかやりたいと思っていた戯曲なんだけど、まあ、そんなわけで、観た。

個々にはいろいろあるんだけど、
そうだな、それを先に言ってしまえ。

署長と巡査のやりとりが、やっぱり難しい。
書いてあることを誠実にやるしかないんじゃないだろうか。
彼らの生理とか、俳優としての希望に引き寄せると、だめだ。

あと、バカボンのしょーくんとか(ゴドーで少年をやった)、いわゆる「吹く」のが、気になる。
あんまり、よくないと思う。そこはまだ、こらえたほうが、ストイックでいい芝居になるんじゃないだろうか。
「吹く」ことに慣れちゃうとね。ゆるくなるよ。笑うとこ探しちゃったりするからね。

バカボンのママがすごくよかった。

で、思ったのは、
はっきりいってみんな下手なんだけど、魅力的に見えてしまう、これはなんなんだろうって、ちょっと嫉妬する。

で、思う。
俺が今、俳優集めて、それなり稽古もして、この本やって、これ以上に魅力的な芝居が作れるんだろうか。
ほとんど自信はないし絶望的な戦いのような気もするが、でもやらなくっちゃいけないよなあとか思って、あーやだやだ芝居は難しくっていやだなあと絶望的な思いで家に帰る。
















歯並びのきれいな女の子

2010-05-24 | 観劇した
5月21日(金) 19:30 コンカリーニョ

冒頭、古くさい新劇を見てるような気になり、戸惑う。設定を全力で説明しようとする芝居に疲れる。その時点での心情とか人となりが、全て説明されている気がして、疲れる。

あの不条理な出来事に対処する人々が、ひどく薄っぺらに見える。

そして思う。イトウワカナが描こうとしたのは、そうではないはずだと。いや、本としてまだちゃんと描けてはいないんだけど。俳優として、もう少しあるんじゃないだろか。もうちょっと、人のいろいろなすがた(心情も含めて)が現れるべきだと。観ながら、もったいないなあと思う。思うだけじゃくてほとんど呟いていたりする。

だから、途中で“歯並びのきれいな女の子”が自分と父のことをわーわーわーと話す瞬間、芝居として上手いとか下手とかじゃなくて、それぞれの思いを飲込んで、ばらばらの思いでそこにいる人々が舞台上に出現して、唯一救われる。

イナダさんが、「いまどき、死んだ父親に隠し子がいたからって、そんなに反応するかね?」ってなことを言っていた。私もそうは思うが、父の隠し子事件に対してああいう反応をとることが、劇として悪いとは決して思わない。どういう反応を取ろうが、自由だ。どういう人物を描こうが作家の自由なのだ。そのことが問題なのではなく、不条理な事象に対する人々が一面的な存在にしか見えてこないことが問題なのだ。

ああいう芝居は、人物造形のリアリティが命だ。それは、作家としてはそごく険しい作業だと想像する。
あと、俳優は、そういう作家がすべきリアリティ造形作業は引き受けることは出来ないのではないか。とか、思う。

飲みながら、以上のような話をした。とても有意義で楽しかったです。

WATER33-39「もくもくのいとま」

2010-05-24 | 観劇した
5月20日(木) 19:30 ZOO

ばかばかしくていいんだが、清水の、そぎ落とした台詞が、あるリズムを生んで、そのリズムに、良くも悪くも、舞台が支配される。
きっと、残り5回とかやると、いろいろあるんだろう。
穴があって、台詞があって、そこに俳優7人を配置した、というかんじ。作業としてはそうではないはずなんだけど、言葉によって生まれたリズムのほうが強くて、配置されてるように見える、かんじ。敢えて言えば、ですが。
だから、そのリズムが崩れた瞬間に、どうしても魅力を感じてしまう。

あと、ボレロが流れ出した時点で、15分後に破局なのか大団円なのか、劇がそこで終わることが予想される。そのことは全然、いいんだけど、その中でボレロの15分を過ごすことは、これはたいへんにたいへんだ。
赤坂さんのハムレットの長台詞が大変おかしかった。
高橋さんはあいかわらずすごくへんだ。
自分のやりたいことしかやらない清水はやっぱりらんぼうな人だと改めて思う。

WATER、マキニウム

2009-10-19 | 観劇した
10月に入って観たやつ、いろいろ。

◆演劇集合体マキニウムの『わが町』。作:ソーントン・ワイルダー。演出:槙文彦。レッドベリースタジオ、狭い所で、俳優5人であの劇をやる(登場人物は20人くらいいる)。だから、ひとりで何役も、という作り方。
結局、何が、この劇を特別なものにすることができるんだろうと考える。

1幕は、街の情景を浮かび上がらせるために、相当に巧みな演出が必要だと思う。シンプルな設えの中で、そういうことを求めて書かれた本だ。

「結果として、何があぶりだされてくるか」ということを蘭越の渡辺さんが言ってた。そうだなあと思う。『わが町』は、あぶりだされる、という言い方がぴったりくる。


◆WATER33-39の”水の戯れ”、岸田國士『紙風船』『驟雨』『隣の花』。
ATTIC。
いったい岸田國士というひとはいったいどういうつもりでこんなものを書いたんだと、読んだり観たりするたびに思う。女の人ってものをどういうふうに見ていたんだと。

どれも面白く、また、どれも大変難しい。『紙風船』なんかは、日曜の午後の情景を舞台美術として表せばきっとすごく面白いと思うし、どこからか先はそれが必要になる戯曲かなとも思う。いつか、そんなバージョンでも観てみたい。
『隣の花』なんて、コントのお手本みたいな本だ。こういうの、ちゃんとやれたらいいだろうなあ。設定としては、そのままエロ小説あるいはポルノ映画です。

終わって、その場所でコーヒー焼酎なんかを飲みながら話す。
赤坂さんが「アラバールのあれ、面白いね」なんて言うもんだから、また盛り上がってしまい、家に帰って急いで読み直す。


『わが町』は1930年代、岸田國士の代表作は1920~30年代。
『ゴドー』が書かれる、もっと前。
新しい、とか、進歩的とか前衛であることとか、考えさせられる。

skc「サンタのはし」

2009-08-18 | 観劇した
skc「サンタのはし」、大原慧×すがの公 の回を観た。

面白かった。美術が相変わらずいいなあ。

孫が難しいなあ。
老人に対するツッコミ役に見えてしまうと、それは芝居としては15分くらいしかもたないと思うし。大原さんの孫がそうだったというのではない。
よく稽古してあると思った。他の二人のも観たかった。

やっぱり、すがのの本は、たくさん書いてある。
台詞に、いっぱい書いてある。埋まっている。
だから、俳優は、どうすればいいんだろう。
俳優の作業は何だろう。

「絡む」とかそういうことじゃないんだろう。
「居る」ということになるのではないか。
で、どう「見る」か。
結局、芝居見てもそんなことばかり考えてしまう。

終わってからskの人たちと話したんだけど、「舞台に二人いるんけど、結局すがののほうだけが見えてしまう」というようなことを言っていた。
まあ、しょうがないよな。すがのだし。
でも、そうなんだよな。
じゃあ、「その俳優を、見えなくしてしまうもの」は、なんだろう。

で、「相手を拾う」とか「うまく絡む」とかつっこむとか、話を進めるとか、そういうことを考えるほど、舞台上の存在としては消えていくのではないか、と仮説を立てたんだけど。

ラストはこうなると思った俺なら絶対こうするね、とかベラベラしゃべってしまって、余計なことを言ったと反省しながら家に帰る。

全国の旅後にまた札幌でやるそうなので、楽しみです。





yhsを観たり 本屋へ行ったり

2009-07-21 | 観劇した
週末。yhs『しんじゃうおへや』を観た。イナダさんが観にきてて、終わってから飲みに行った。コムロとオザキ氏も一緒。
イナダさんがわーわー言うもんだから俺も負けじとわーわー言って、楽しいんだか楽しくないんだかよくわからない時間をすごす。また誘ってください。

以前yhsのコントを見たときも思ったんだけど、隙間がないんだよな。台詞言い終わった後にもれる息(軽率な無声音ってやつだ)まで、みんな一緒だしね。あそこまで決め打ちで類型的にやられると、その役者を観続ける興味というのはなくなってくる。覗き見する興味っていうか。
呼吸の規則までみんな一緒だから、そいつら個々の身体とか、生理とか、見えない。結局は身体性のことになってくると思うんだけど。

”痛みとは肉体のことだ”。なんのこっちゃだが、唐十郎の特権的肉体論だ。まあ、死刑の話だしな。身体のことを抜きに観れる芝居じゃない。コントは難しいなあ。コントは身体だ。言葉を発するのはその身体だ。
いいじゃん、死刑の芝居。どんどんやればいいじゃないか。


駅前の紀伊國屋で、ある劇作家に関する本をたくさん買う。
最近はアマゾンで買ってばかりだったが、やっぱり本屋で買うと盛り上がるなあ。
週末はそれらを乱読した。

また雨が降ってきた。



「瀕死の王さま」と「椅子」

2009-07-14 | 観劇した
TPSの「瀕死の王さま」は、結局、4回見た。
昨日は王様=歩さん、王妃=清水と宮田さん。
面白かった。

その30分後、「椅子」
老人=歩さん、老婆がサイトウユイ
老人は瀕死だった。


「椅子」とか、TPSでずっとやればいいのにな。
こういうのは、とりあえず100回くらいやったほうがいい。
俺も、100回くらいやるような芝居、やりたいな。

TPS「瀕死の王さま」「椅子」

2009-07-09 | 観劇した
どちらもイヨネスコ。

「瀕死の王さま」
木村の王様はよかった。なにより清水の王妃マルグリットがよかった。
マルグリットだなあ、この芝居は。難しいねえ。
いやあ、たいへんだこれは。

「椅子」
老人が鎌内、老婆が林さん。
前半がなあ。なんだろう。
会話の内容が、もう少し聞こえてくるはずだ。聞かせるのではなくて、聞こえてくるはずだ、聞こえてくるべき台詞だと思う。
後半の鎌内はよかった。だから、次回の前半もいいのではないか。

それにしてもなあ。イヨネスコだよ。ひどい本ですよこれは。
俳優とかやるんなら、こういうのはさっさとやっておいたほうがいい。

で、客が見て楽しいかって、知らねえよそんなことは。