横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

ウエダくんとカマウチくんに

2011-10-15 | 日々
9月、ウエダくんとカマウチくんと仕事で旅したとき、札幌帰ったら男だけいっぱい集めてみんなで飲みましょうってことになった。まあ、芝居関係の男、ということになりましょうが。
夜中の車の中で話してたことだからね。だいたいが思い付きでしかないんだけど。

女子は禁止ということになった。何かが損なわれるからだ。飲み会が持つべき純粋性が損なわれるような事柄に、我々は敏感でなければならない。

「どうしても参加したい女はノーパンで来るべし」カマウチが言った。本当は俺が言ったんだが、俺の名誉のためにカマウチが言ったことにさせてもらう。

不純物としての異性がノーパンで参加することと純粋性を維持することの関連性について論じられた事例を私は知らないが、予感はある。これは、その場の男子が全員ノーパンであることを想像すれば、明確な分析を待つまでも無くノーパンと純粋性に関連性・因果関係が存在することが想像される。そしてこの手の想像力は、我々演劇人がもつべき、備えるべき皮膚感覚や社会感覚と直結するものであると私は常々喧伝しているのである。つまりは、非ノーパンの異性(異物)が混入することにより、その「場」が本来持つべき純粋性が損なわれることに対して、若き演劇人の危機感があまりに希薄であることに、私は警鐘を乱打するものである。

話がそれた。ノーパンのことはいいんだよ、別に。

早く帰って実現しようって意気込んでたんだが、戻ったら予想通り面倒臭くなってる。
二人に連絡するのも億劫だ。
そんなわけだからどなたかカマウチかウエダに会ったらヨコオが例のアレ進めてねって言ってたよって言っといて下さい。

千年王國「きみしかいない」

2011-10-12 | 観劇した
千年王國「きみしかいない」

コンカリーニョで観た。

俺はどうも、昔話というか、橋口が扱う神話みたいなもんがよく分からないもんで、それに関してはなんともいえないんだ。昔(2000年前ということですな)の話と、今の(震災後の札幌、ということですな)話と、橋口の頭ん中ではつながっているのですな。俺にはわからん。

例えばなんだが、
南参が、自分のおばあちゃんのことがあって、「忘れたいのに思い出せない」を書いたでしょう。どっちかというと、そっちにシンパシーを感じたりする。
うん、シンパシーとは違うな。「あ、南参、書いたなこいつ」っていうか。

ただ、私がそういうふうにして作者と本を見ることと、舞台作品として面白いかってことは全く別だ、とは分かっている。
有体に言えば、今、私は芝居を観て、それが作品としてオモシロイかどうかにほとんど興味がない。
誤解があるから言い方を替えると、作品が面白いかより、俳優がイイとか、そっちに興味がある。

これ、橋口に言ってしまって、公演期間中にまったくつまらないこと言ったと反省したんだが、俳優の声の高さがあと半分低かったら(すごくいい加減な表現で恥ずかしい限りだ)いいのになとか、根拠もなく感じるだけだ。
で、何故そう感じたのかを考えながら見る。
ついでに書いてしまえば、声が高いなと感じたのは、俳優の重心が高いと感じたんだと思う。この前千年を見たとき俺は足を見てたし、自分でも嫌になるんだが、でも、きっとそこに俺が俳優に対しての視線があるんだと思う。

で、思う。「橋口、書いたな」って。
そしてまた思う。それは、俺は、橋口のを観て毎回思ってることだと。
別に、震災とか関係ない。


以上、もちろん劇評はないし、感想ですらない。
自分の整理の為に書いてみた。