7月10日にTOKYO MXで放送された残響のテロルの録画を視聴した。視聴した感想として最も言えるのは面白くなさそうであるという漫画やアニメとしては致命的な印象だった。温かさがないとか笑いがないとか、仲良くするシーンがないとか体感的に思い出される色々良かろうと思われる描写が不足していてそれがわかる人物には見せるつもりが少し薄いらしい事が感じ取れた。テロリストというものがどちらかと言うと製作者の都合の悪い人物像というものになってしまっていて、本物のテロリストのように言動一つ一つがテロの動機と密接にリンクするような執拗さが感じられず人物像が一番残念だったという感じがする。
テロリストというのは本当に考えることに熱心であって、考えている内容が科学的でない事であったら、脇にそれて自らの考えを否定するような科学に基づいて考えて武器を作成するなどということは皆無に近く、何らかの事例や経験、二次情報の模倣を行うということを行う可能性が非常に高い存在である。このアニメでそれを考えながら見てみると製作者は明らかに詳しく社会や科学的なことを正確に知っているにも関わらず、模倣された場合にいずれも物理法則的には失敗に終わるようにシーンが作られており作者は確実に意図的にやっていると考えられた。また、番組の後にあるクイズもほぼ解答不可能であり解かせるのに時間を食わせるという古典的なタイムロス作戦という感じがしないでもなかった。
製作者についてそのことを踏まえて想像すると、製作者が視聴者と接触することを好まないだろうという予想がなんとなく思い浮かび、これを見ると、どのアニメも以前より面白くは見られなくなりそうな気配を何か感じさせている。見てよいのだろうか?ただ、現実よりは人が会話し、何がしかの感情を通わせている密度が高い分やっぱり面白くは感じる筈ではあろうと思う。
時々、私は何かの集団に注目しているが、本能的な注目とそれを補強する集団が強いという実際上の理由があるためだ。
人間は集団に注目する性質があり、グループ分けを意識できる範囲の内外で常に行っていて、私の行っているグループ分けは同様に他の人も行っている可能性は高く、共通に行っているならばそれに基づいて行動すれば同じである事を示す事になるはずで私もいつの間にかそんな行動をしている。
そして、その行動が実際に集団となって動いたときに人間は多くの場合強い力を発揮するという運動会や選挙、買い物などで日常茶飯事に確認される事実と結びついてみるとその行動はより補強されていく感じが私にはするのだ。
情報共有を行い、役割分担をした人間集団とそのような事を行わなかった孤立した人間の群れが混じった時に明らかに強いのは前者であり、もし、前者が少数派であってオカルトじみた不合理なものや宗教を根拠にして活動して居て、後者が多数派であっても後者には勝算がある可能性は非常に低いと考えられるわけで小規模集団でも集団があれば注目するのは適当だと私は考えている。その理屈はへぼ将棋を指すような人でも相手の駒を動かす人がいなかったり、駒の動かし方を知らない人を相手にするよりは強い理由と同じである。
先週、コンピュータ大手のF社のセキュリティマニュアルに『暴力団などの反社会的集団に所属していることが就職内定後に発覚しても内定は取り消しにならず、解職の正当な理由にはならない』という公務員や一般会社員の常識に反する一文があるのに驚愕して、ネットを調べてみたら会長が暴力団との関係を株主などに指摘されて解任させられる事件があったようだった。株主の言っていた事は本当で間違いないと思われる。暴力団側でないとF社では正しくないということは覚えておこうと思う。