歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・あらすじ・予想・多少ネタバレ・最終版

2021-02-05 | 麒麟がくる
私の考察は何のハンドブックにも基づいていませんし、最終話を描いたハンドブックは存在しません。でも「ネタバレ」に気を付けてください。
去年の12月12日段階での予想はここにあります。半分ぐらい当たっています。「麒麟がくる」・第44回・最終回・あらすじ・予想12月版

NHKは最終話の概要を発表しています。
最終回は、宿敵・武田家を打ち滅ぼした戦勝祝いの席で、光秀(長谷川さん)は信長(染谷将太さん)から理不尽な叱責を受け、饗応役(きょうおうやく)の任を解かれる。追い打ちをかけるように信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に相談もなしに乗り出すと告げる。
「殿は戦の度に変わってしまった」と、その行き過ぎた態度をいさめる光秀に、「己を変えたのは戦ではなく光秀自身だ」と信長は冷たく言い放つ。そしてついに、ある究極の命令を光秀に突き付けたのだった……

究極の命令とは、、、「家康暗殺か」となっているようですが「正親町帝譲位を急ぐからその担当になれ」ということでしょう。史実としては正親町帝は譲位を望んでいたと考えられますが、池端さんの解釈は違います。また学者さんでも「強要した」と考えている方は存在します。正親町帝譲位強要を「信長最大の非道」と解釈すると思います。

1,光秀は亡くなるのか。天海となるのか。

亡くなるでしょう。また「もろに天海となる」ことはないでしょう。ただし生死はあいまいにされ、「魂は生きている」となる可能性があります。

2,黒幕論は採用されるか。

直接的には採用されないでしょう。大河は原則黒幕論を描きません。ただし「全員が黒幕的」であることは、既に描かれています。その中でも大きく影響を与えるのは正親町帝・足利義昭・帰蝶の三人です。その三人以外はよく考えると「本能寺教唆」をしていません。近衛関白は「自分は信長のいいなりだ」と言っただけです。お駒は「将軍が喜んでいた」と言っただけ。細川藤孝は「いざとなれば信長様をお諫めする」と言っただけです。秀吉も教唆のようなことは言っていません。「譲位強要はさすがにやりすぎ、殿は焦っている」と言ったのみです。いろは太夫の信長への悪口は光秀には伝わっていません。ただし光秀は「民衆の思い」をくんでいるようなので「人々の恨みの声」は光秀の耳に入っているでしょう。「殺せ」とまで踏み込んだのは帰蝶のみです。帝は「信長を見届けよ」、足利義昭は「信長がいる京都には帰らない。十兵衛の京都なら帰る」と言っただけです。黒幕論は「光秀なぞ一人でことは起こせない」という考え方であり、主人公が最後の最後に誰かに操られるとは思えません。ただしみんなが「光秀を追い込んだ」ことはすでに描かれています。

3,帰蝶はどうなるのか。

二通りの考え方があります。十兵衛の遺志を継いで「キングメーカー」になり、秀吉から家康への天下の推移を操るという考え方。これが採用されたとしても「ナレーション扱い」でしょう。
次に本能寺にて亡くなるという考え方です。これは帰蝶の「責任の取り方」とされると思います。

4,誰が光秀の遺志を継ぐのか。

物語の流れからして秀吉ではなく家康でしょう。ただ十兵衛は「あとは家康に任せた」と「伝言するだけ」なのか。それではちょっと弱い気がします。少なくとも「家康伊賀越え」ぐらいは明智軍が助けないと。もう少し強く光秀が家康の天下への道を耕した、、、とするには家康の天下まで時間がかかりすぎます。20年以上、、、大阪の陣まではなんと33年あります。光秀天海説はありえないでしょう。せいぜい光秀の魂は生きていると宣言するぐらいか。もろに天海にしたのでは「いくらなんでもやりすぎ批判」が出ます。過去に天海説を採用した大河ドラマは一本もありません。

光秀の「遺志を継ぐ」者として考えられるのは8人です。まず正親町帝(ただし本能寺の4年後には退位)、足利義昭(史実として秀吉には協力)、反省した秀吉(惣無事令)、帰蝶、徳川家康、お駒の6人です。誠仁親王は天皇になりません。残りの二名は「たまと細川藤孝」です。
本能寺も「みんなで光秀を追い込んだ」感じがあるので、「みんなで麒麟を呼ぶ」可能性もあります。「ある」というか「そうなる」と予想します。

5,光秀自身は天下を取ろうとしないのか。

分かりません。本能寺の変を「私利私欲で起こさない」ことは既に発表されています。当面の目標は「譲位阻止、非道の信長を排除すること」でしょう。
天下を取ることは「私利私欲なのか」「天下国家のため」なのか。どっちとも言えます。
私は「山崎の戦い」が「実質的にはない」可能性も考えています。「戦うポーズ」だけで、光秀が「軍を解散する」可能性です。その交換条件として「秀吉と家康の共同統治による太平の世の招来」をもちかけるという可能性です。「光秀は負けたのではなく、天下のために身を引いた」という設定です。「やりすぎ」ですが、天海説よりは「やりすぎ感」が薄いと思います。

6,史実との整合性を合わせるか

合わせないと思います。今までもさほど史実にこだわってはいません。池端さん自身も「物語としての面白さ優先」と言っています。

7,つまるところ誰が光秀の遺志を継いで麒麟を呼ぶのか

家康でしょう。と言いたいところなんですが、光秀のようなのです。「どう設定すればそうなるのか」、面白いところだと思います。「たま」「帰蝶」「お駒」の存在が気になります。「麒麟をよんだ英雄は男性ではなく、女性である」となる気もしているからです。そこでもっとも気になるのが「たま・細川藤孝ライン」です。細川藤孝はなぜ「生き残る」のか。「義理の娘であるたま(ガラシャ)とともに十兵衛の遺志を継ぐため」、友を裏切ったのではなく「友の遺志を継ぐために裏切者の汚名をきた」という設定です。これはあり得るなと思っています。

最後に一つだけ、最後のシーンの予想です。光秀の死とともに、光秀の体から麒麟が飛び出す。その光が人々の心を打つという空想です。過去においては「義経」で、滝沢君の体から聖獣が飛び出した例があります。ただ松永久秀が「爆発しなかった」ことを考えると、「爆発はなしかな」とも思います。
秀吉の「惣無事令」については最近は否定的な学説が多いですが、それでもこう終わるかも知れません。

「十兵衛が咲かせた平和の花は、秀吉の惣無事令によって結実し、やがてそれを継いだ徳川家康は、260年にもわたる平和の世の礎をきずいた。十兵衛光秀は死なない。この世に平和を願う人々がいる限り、海に山に大地に、十兵衛光秀の魂は生き続けている」

この最後の部分は「風と雲と虹と」の終わりのシーンと同じです。「主人公は死なない」のです。

読み返してみると矛盾があり「Aの意見」と「Bの意見」では「つじつまが合わない」「叙述が変」な点がありますが、時間もないので訂正しません。どうすれば「十兵衛が麒麟を呼んだ」とすることが可能なのか。その大切な一点がわからないため、叙述に「ぶれ」が生じます。私の思考の「ゆれ」を表すものなので、そのままにしておきます。
以上。

誠仁親王と信長・「麒麟がくる」の加藤清史郎くんは「可哀そうなかごの鳥」なのか。

2021-02-04 | 麒麟がくる
誠仁親王(さねひと) 1552-1586   麒麟がくる、では加藤清史郎くんが演じています。

信長時代の天皇である正親町帝のただ一人の男子です。織田信長、明智光秀が亡くなった時、ちょうど30歳です。そして34歳で亡くなってしまいます。譲位の直前でした。正親町帝は食事も摂らないほど悲しみます。そして誠仁親王の第一王子である後陽成帝に天皇位を譲ります。譲位準備(仙洞御所の造営)は本能寺のわずか1年半後には始まっています。信長が死んだのに、すぐ譲位です。ここからも信長が譲位を強要したというのは、なかなかに成り立ちにくいのですが、むろん「強要した」という学者さんもおられます。

強い根拠はないのですが、誠仁親王との方が「信長にとって誠仁親王のほうがやりやすかった」のは確かでしょう。信長は奉行の子で王子様育ちじゃありませんが、あまり人間に「ひれふす」習慣がないようです。本当かと思うのですが、信長は生涯にわたって一回も「正式な参内をしていない」ようです。正式な参内となると、圧倒的に帝に対して「ははー」とならないといけない。どうもそれを嫌ったのではないか。そういう学者さんもいます。ちなみに私は「朝廷と鋭く対立していた」という立場には否定的です。信長が朝廷を乗り越えようとしたということも、まあないかと。信長はそれほど朝廷に興味はないように「も」見えます。晩年になると、位は維持するものの、官は辞して左大臣も丁寧に断ります。(非常に難しい問題です)ただ学際的なレベルの話は置いておいて、ここで私が思っているのは「信長はあまり頭を下げる習慣がなかったのじゃないか」ぐらいの話です。誠仁親王なら20も年下です。「ひれふす」必要はなかったでしょう。そもそも「問題が起きた時」は、誠仁親王が対応していたようです。信長は時々朝廷に意見するのですが、そういうときの窓口は誠仁親王であったとのことです。「相論」に関する信長の意見はわりと「まとも」です。でも正親町帝にしても「怒られた」ことはあまりなく、怒られるのは苦手だったようで、誠仁親王に任せます。

安土城には、帝を迎えるための建物があったとされます。しかし正親町帝は行幸していません。これを正親町帝と信長の「戦い」ととらえる向きもありますが、この建物は、誠仁親王用なんでしょう。誠仁親王が天皇になったら迎えるつもりだったのでしょう。譲位には誠仁親王も含めて帝も誰も反対していません、、、と簡単に書くと怒られますが、、、たぶんそうです。ただある学者さんのように「安土遷都」まで考えていたとすると、遷都ですから抵抗はあったでしょう。果たしてそこまで考えられるのか、今の私の力では分かりません。

この誠仁さんを「かごの鳥」にして、二条新御所(二条御新造)に「閉じ込めた」「人質にした」「自由を束縛した」という考えが昔からあるようです。ところがある学者さんが調べたら、誠仁一家は「絶えず禁裏と二条御所を行き来」しているのです。誠仁一家レベルだと、天正8年、本能寺の二年前の10月でも月に10日、他の月もほぼ同じようです。誠仁さんだけでも平均3~4回ぐらいは行き来しています。かなり多いと言えます。これだと「かごの鳥」「自由の束縛」説はきつくなるかなと。

なにしろご一家が多いのです。15人ぐらい息子、娘がいます。34歳で亡くなったのに、15人ぐらい。

実はこれが二条新御所に移った理由ではないか。禁裏では「狭い」から。という指摘もあります。誠仁親王に聞いたら「あ、狭いからです。子だくさんなもんで」と答える可能性があるわけです。「深淵をのぞき見たい方」にとっては、こういう単純な答えはとうてい受け入れがたいだろうし、私にも「深淵」をのぞく趣味はありますから、もちょっと考えてみたいところです。なお、誠仁親王は本能寺の変の後は禁裏に戻ったようです。「ほらみろ」という意見もあるのでしょうが、二条新御所はまさに戦場となり、織田信忠が自決し、多数が亡くなった建物です。事故物件になってしまったわけですから、「けがれ」を嫌う皇族が、そこに住み続けることはできなかったとは思います。そもそも焼け落ちなかったのか。どうもそこがよく分かりません。

天正2年ごろと、9年ごろには譲位の話が進みます。しかし両方とも流れました。これも「信長と天皇対立説」が生じる原因です。

天正9年というと、本能寺の前年です。なんで「流れたか」というと、占いです。陰陽道ですね。この年は珍しく六方向にたたり神がいるのです。「金神」です。「かねがみ」じゃなくて「こんじん」のようです。誠仁親王が二条新御所から禁裏に移ろうとする。その方向に「金神」がいてふさいでいるわけです。強行すればたたりです。方違えという方法はあります。しかし譲位は費用の都合で長く行われおらず、方違えで回避できる保証はなかったのかも知れません。陰陽師さんが書いた漢文も読みましたが、方違えについては触れていないように思います。書き下しも訳もない漢文なので、読解にまったく自信はありません。そもそも陰陽道については理解が私には不足しています。

誠仁親王の行動というか、二条新御所に移ったことに、過剰な政治性を見ようという立場は、「もしかすると」否定されつつあるのかも知れません。

なお私は生涯に一度だけ「方違え」をしたことがあります。高校受験の時、陰陽道(新書)の本を読んだら、直接その高校に行くと方向が悪いのです。友達と二人で、わざわざ別の駅で乗り換えて、方違えをしました。二人とも合格して、さすが陰陽道の力、、、とは思いませんでした。合格したら、俺の力だと思いました。(笑)

麒麟がくる・スピンオフ・「天海光秀、信長と再会す」・「明日を捜せ!」

2021-02-02 | 麒麟がくる
十兵衛と信長と帰蝶を救いたいなと思って書きました。史実的にはむろん成り立ちません。(と書く必要もないのかな)

関ケ原の戦いが終わった慶長5年(1600)、11月のことである。駿府城の門前に、一人の僧が現れた。従者らしき女性を伴っている。老女らしいが肌の色に艶があり、身に着けた装束もどこかあでやかである。門番が誰何した。
「ご坊、なにか用でござるかな」
僧形の男は、懐から文を取り出し「天海僧正に呼ばれました」と短く言った。70にも見える老体だが、声に張りがある。文には確かに今日、この日に駿府城にてと書いてある。
「お名は」
「美濃、浄法寺の空信と申す。これにおるは妻の妙鴦」
「はあ、くうしん様とみょうおう様」
門番たちはいぶかった。天海僧正の客がこのように「ふらり」となんの先ぶれもなく現れるのは妙である。しかも妻女を連れている。
「調べまするゆえ、しばし番所で待たれよ」。僧と従者の女性は丁寧に頭を下げた。
しばし待っていると、城から背の低い男がやってきた。急ぎ駆けつけたのか、息を切らしている。
「上様お側衆の者でございます。天海僧正がお待ちです。こちらへ」
長い道を通って、本丸に至り、「樹の間」に通された。30畳ほどの広間で、襖には一面、天に伸びるごとき生命力にあふれた樹が描かれている。狩野派の筆であろうか。
すでに天海らしき高僧は茶を立てている。少し離れたところに空信と妙鴦は着座した。言葉はない。
やがて案内の小男が茶を運び、二人は黙って茶を服した。小男は黙って、天海の後ろに着座した。
天海が二人に向かって深く頭を下げた。
「無用のこと」と空信が言った。言葉にとげはない。
天海が口を開いた。
「信長殿、あの日、本能寺の炎の中で貴方を見つけた時、貴方はすでに虫の息でありました」
信長と呼ばれた僧が応じる。
「そして、私は京の古寺に運ばれ、お駒殿の介抱を受けました。後ろにおられる菊丸殿にもお世話になりました。一月後、やっとなんとか起き上がれるようになりましたが、その時、すでに明智十兵衛殿はこの世のお人ではなかった」
「そう、私は秀吉殿に敗れ、小栗栖の里で重傷を負った。死んでも良かった。死にたかった。しかし菊丸殿に助けられ、やがて家康様に庇護されました。その折にはすでに故太閤は信長殿の存在に気が付いていた」
「太閤は私のもとに現れました。ところが私は、何か憑き物が落ちたような心持で、、、もはや天下や政に興味がないと言った。太閤は疑っていましたが、半年もすると信じるようになりました。私は美濃の浄法寺に入って出家しました。帰蝶は俗体のまま、ついてきてくれました」
「信長殿のお子らは」
「信雄にとっても、信孝にとっても、私はただ怖いだけの男で、とても父親としての愛着を感じることはできなかったようです。それより織田の当主に自らがなりたかったらしい。死んだことにしておいてくれ、という私の願いを、拍子抜けするほどあっさりと受け入れてくれました。一人の男として自分を試してみたかったのでしょう。信孝は太閤に敗れ、死んだ。それも男の在り方でしょう。」
天海、十兵衛はここで深く頭を下げた。
「帰蝶様、信忠殿のこと、まことに申しわけない仕儀となりました」
ここで妙鴦、帰蝶が初めて口を開いた。
「何度も降伏をうながし、命は助けると十兵衛殿が申し送ったのに、信忠はそれを拒否して戦って死にました。残念ですが、見事な死でありました」
(それよりも、たま殿のこと)と思ったが帰蝶は何も言わなかった。十兵衛は言う。
「信忠殿は父と母を慕っておりましたな」
十兵衛がそう言うと、信長と帰蝶は遠くを見つめ、悲しげな顔になった。信長が言う。
「すべては20年も前の出来事、愛もまた執着、執着が人を不幸にするのです。どうです。あの信長も少しは悟りが開けたと思われますか」
十兵衛はくすりと笑った。
廊下にせわしない足音が響いた。やがて家康が入ってきた。天下人であるはずのこの男が、十兵衛の後ろ、菊丸の傍に座り、座るや頭を下げた。信長も帰蝶も頭を下げる。
口を開いたのは信長のほうであった。
「家康殿、秀信(三法師、信長の孫、関ケ原にて西軍に属し高野山に追放)のことならご挨拶は無用です。あれも男です。自ら選んだ道です」
「秀信殿はいずれ高野山から呼び戻すことでしょう。それにしても信長殿、帰蝶殿、お久しゅうございますな。」
「浄法寺にて、修行を始めたころ、京から妙鏡和尚が美濃に下り、わが師となってくれました。あれは太閤からの指図かと思いましたが、妙鏡和尚は死ぬ間際、家康殿の指示だと明かされました」
膳が運ばれてきた。侍女に交じって膳を運んできたのは、身なり涼しき、身分高くみえる女性である。帰蝶の横にちょこんと座って微笑んだ。
「お駒殿、久方ぶりです」これは帰蝶である。
「そうでもありません。この前美濃を訪れたのは一月ほど前でありましょう。帰蝶様、お薬は処方通りに飲んでいますか」
「ええ、夜になって目がかすむということなく、なんとか暮らしております」
「あれは食べ物のせいなのです。緑濃きお野菜をとれば、栄養が目に回って、自然とよくなりまする」
帰蝶は言う。
「お駒殿は半年に一度ほど、来るたびに、いろいろ話をしてくれますが、十兵衛殿のことは、何を聞いてもこの二十年、何も言ってくれませんでした」
駒は目を伏せた。
「明智十兵衛様のことは、すでに亡くなられた方ですから、その方の心を推し量って、私が口を開くのは」
十兵衛が口を開く。
「あの時、私は織田信長という男が憎くて仕方がなかった。帝も信長殿を疎んじておられた。戦っても戦っても敵が増えた。その後ろには義昭様がいた。義昭様と信長殿が和解する道はなかった。夢を見た。いやな夢を。命の樹を切る夢を。信長殿の命かと思うたら、今になれば自分の命であった。誠仁親王はかごの鳥だと思った。信長殿は朝廷をもないがしろにする非道の男だと思った。ところが、帝も親王も譲位を望んでおられた。本能寺の後、帝はすぐに譲位された。みんなが信長殿を恨んでいると思っていたが、そうではなかった。ただ一点、今でもわからぬのは徳川様接待の時、なぜ信長殿が私を足蹴にされたのか」
帰蝶はくすりと笑った。
「十兵衛殿、あれは嫉妬でありますよ」
「はあ、嫉妬。でも私は帰蝶様に懸想したことなぞ。若き日こそお慕いしておりましたが。」
「そうではありません。信長殿は光秀殿が大好きだったのです。ところが光秀殿の気の合う友は家康殿だった。仲良さげに話しておられた。信長殿はそれに嫉妬なさったのです」
これには光秀と家康は目を見張った。信長が言う。
「十兵衛殿、だから愛とは執着であり、人を不幸にすると言ったのです。私はあなたが大好きだった。自分にないすべての物を持っていた。誰にも慕われていた。私は何をしても嫌われた。もがけばもがくほど人は私を恐れ、そして嫌った。なぜだ、私が信長で、あなたが十兵衛光秀だからなのか。信長は何をやっても信長なのか。私はあなたにだけは認められたかった。あなたに褒めてほしかった。でもあなたは会うたびに苦言ばかり言った。次第にあなたが憎くなった。憎くて仕方なくなった。愛とは妄執です。」
十兵衛の目に初めて涙が浮かんだ。
「そうで、ありましたか。私もあなたが大好きだった。いや、自分とあなたは一心同体であると思っていた。本能寺を起こした折、己が天下なぞ取れぬことは九割がたわかっていた。左馬助も反対した。自殺行為だと言った。しかし私は消え去ってしまいたかった。あなたを殺すことで、自分を殺そうと思った。私も信長殿もお互いにお互いを誤解して。私は貴方を認めることができず、、、そんなことであったのですね。私が愚かだったために、あたら多くの命を死なせました」
信長の目に涙が浮かんだ。

菊丸が口を開いた。
「上様、今日は信長殿にお話があると聞いておりましたが」
「ああ、そうじゃな。どうであろうか。信長殿、もういいのではありませんか。織田秀信殿の領地、10万石程度であるが、岐阜城とともに差し上げたいと思うのだが」
信長は黙った。しばしして。
「あのお城は、道三殿が作ったお城は、この度の戦いでほぼ焼け落ちました。このまま廃城にしていただければ幸いです。あのお城は道三殿そのものでした。思えば、道三殿の妄念が、私と十兵衛殿を縛り、そして帰蝶を不幸にしました。もう道三殿も許してくださるでしょう。十兵衛、帰蝶、信長、よくやったと申してくれるはずです」
「道三殿、お会いしたことはありませんが、乱世そのもののお人であったのですな。分かりました。道三殿の妄念とともに岐阜城は必ず廃しましょう。しかし領地は、あっても困りますまい」
「無下に断るのも煩悩でありましょう。なら美濃の浄法寺の傍に、3000石ほどの領地をいただければ。帰蝶によいものでも食べさせてやりたい。死んだ者の供養もまだ足りないと思っています」
「わかりました。あとよろしければ、私のお側衆になってはいただけぬか。まだ天下は盤石ではない。今のあなたなら、心を合わせてやっていけそうな気がするのです」
「いやいや、政にかかわれば、私の中から、また昔の信長が現れ、みんなを食い尽くし、不幸にすると思いますな」
十兵衛が言う。
「いや、信長殿、今のあなたなら大丈夫です。今のあなたとなら、やれるかも知れません」
「やれるかも、、、でしょうか」
「いや必ずやれます。乱世は終わり、乱世の子であった織田信長も明智十兵衛も死にました。次の世を建設する時がきました。それは極めて難しい。でも昨日できなければ今日、今日できなければ明日、そうだ、明日を捜せばいいのです」
信長は言う。
「織田信長とは何だったのか。私もふと考える時があります。しかし信長は死に、もはや彼のような人間は必要ない時代となりました。ならば私も十兵衛殿を信じて、明日を捜してみることにいたしましょう。ところであなたは若い頃には帰蝶を慕っていたと、先ほどおっしゃったが本当ですか」
十兵衛は照れた。帰蝶のほほが桃色に染まった。そして信長は幸福そうに微笑んだ。

続く、、、かも。


麒麟がくる・光秀チョップは水平空手チョップなのか。

2021-02-01 | 麒麟がくる

昨日の「光秀チョップ」は実に素晴らしい演出でした。ハセヒロさんの発案だそうです。もっと早くに「怒りの鉄拳」を繰り出していれば、喧嘩の末に分かりあえていたかも知れません。悲しい話です。

ついでに「経絡秘孔」もあの「手刀」で突いてやればいいとも思いました。「大人になる秘孔」「承認欲求を除去する秘孔」「重たい愛を取り去る秘孔」などです。私は信長ファンですが、この信長は大人にならないといけません(笑)。

考えてみると、この光秀チョップを期待して、これを見るために、延々と42話まで見てきたのかも知れません。それも録画して繰り返し何度も。史実と違うとかギャーギャー文句を言いながら。

以下はどうでもいい話です。読んでも時間の無駄だとご注意はしておきます。普段はもうちょっと「真面目」に書いています。他の記事をご覧ください。ほぼ麒麟がくるのことだけです。

信長に足蹴にされた光秀が「光秀チョップ」を空に向かって繰り出します。無論これは「樹を切る=斬る」動作です。夢でみた信長の「命の樹」を斬るポーズです。

「水平空手チョップだ」と思いました。で、寝て起きて、今日が次の日。「あれ水平じゃないな」と思ったのです。そもそも水平空手チョップってなんだ?と思ったのです。

ビデオで確認すると、動作はわずか一回です。夢のシーンがあるので、何度も繰り出した印象が残るだけです。そして方向はほぼ「水平」です。やはり「水平空手チョップ」でした。

空手チョップの正式名称は「手刀打ち」です。空手用語としては「手刀打ち」、プロレス用語としては「空手チョップ」です。

チョップは切る、斬るという意味の英語です。英語用法としては「ジュウドーチョップ」のようです。空手と柔道の違いなぞ気にしていないのです。

ここまでも相当「どうでもいい話」ですが、以下は「もっとどうでもいい話」です。

プロレスを見たのは子供の頃の「一瞬」で、猪木と馬場の時代でした。両名とも力道山の弟子ですが、猪木は非エリート、馬場は可愛がられたエリートでした。空手チョップは力道山の代名詞ですが、猪木はほとんど使わないと思います。力道山を継承したのは馬場で、馬場はよく「空手チョップ」を使いました。斜めに振り下ろすチョップは「空手チョップ」、水平に手を動かす「光秀チョップ」は「水平空手チョップ」、そして頭の上に向かって垂直に手をおろすと「脳天唐竹割り」になります。手のひらが「下」で水平だと「逆水平」という情報もありました。

いずれもグーに比べて威力は劣るようですが、プロレスではグーは禁止なのかな?グーで殴ると相手が死ぬ場合があるし、殴った方の拳が砕ける場合もあるようです。

それにしても「脳天唐竹割り」、ネーミングも強烈ですが、威力も強烈です。小学校の時、プロレスごっごで一回だけ食らったことがありますが、痛いし首にきます。子供同士の遊びでも禁止技だった気がします。「唐竹割とエルボーはなしな」と言った記憶があります。アメリカのある州ではプロレスでも唐竹割りは禁止のようです。ちなみにエルボーは肘打ちで、私の得意技でした。筋力が発達していた私のエルボーは強烈だったようで、先生にひどく怒られ「禁止技」にされました。むろん遊びです。子供だってバカじゃないし遊びなんだから「手加減」はみんなします。私だってしてました。相手のふともも以外は狙いませんでした。それでも泣かれてしまい、先生にこっぴどく怒られました。「喧嘩じゃなければ何やってもいいというわけじゃないぞ」、、、その通りです。

脳天唐竹割りは誰が名付けたのか。ざっとした「検索」では分かりませんでした。さらに凄い技に「真空飛びひざ蹴り」があります。膝で相手の顔を打つのです。下手にやれば本当に死にます。「真空」には特に意味はないようです。こっちの方はネーミングの過程が比較的明らかになっています。以上、どうでもいい話でした。