歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
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小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
第一回はここにあります。クリックしてください。

第一回からの続き。
天正14年(1586)10月、徳川家康は上洛して一旦豊臣秀吉に臣従の姿勢を見せた。秀吉はこの年「明智と称するもの」が丹波の奥で潜んでいたとして処刑した。それと同時に、天下に対して次のような布告を行った。秀吉は瑞海と名乗り、明智十兵衛が生きていること、家康が匿っていることを知っている。知っていて世間に対して箝口令をひいた。

「この度、明智と称するものが丹波で逆意をあおっていたので処刑した。関白が直々に検分したが明智ではなかった。近頃、明智が生きていると風聞を流すものがいる。許せない所業である。中国大返しの速きをいぶかり、関白が明智と組んで信長公を殺したというものがいる。とんでもない話である。そのような風聞を流すものは誰であろうと、吟味の上、極刑に処す。さらに徳川が明智をかくまっていると噂するものがいる。徳川殿が死を覚悟して伊賀の山中を抜け、帰国したことを知らないのであろうか。朝廷や帝が明智と組んでいたという話に至ってはあきれてものも言えない。本日を持って、明智の「あ」の字も噂することを禁止する。また明智の旧臣や子女についても今後一切罪は問わない。明智が生きているがごとき風聞を流し、関白の偉業を卑しめるものは、きつく処断する。日記や文に書くことも、同罪である。誰であろうと、大臣であろうと、大名であろうと、きつく処分する。」

この後、明智生存の噂は消えた。そもそも十兵衛の顔を見知っている大名は多くはない。この年、秀吉はまだ全国を支配下には置いていないが、秀吉が北条征伐をした時点で考えるなら、上杉も伊達も、北条も、真田も、長曾我部も、毛利も、宇喜多も、島津など九州の大名も、十兵衛の顔は知らない。
むろんかつての織田家臣は十兵衛の顔を知っている。そのうちの大なる者は、細川藤孝、筒井順慶などがいる。しかし細川に十兵衛の名を蒸し返そうなどという気は毛頭ない。この時点、天正14年には順慶は既に死んでいる。柴田勝家も死に、滝川一益も丹羽長秀も病死した。前田利家ら信長近習だった者は豪の者を気取っているが、政治の機微を知っている。太閤に従うことで身を立てた者たちである。関白の意向にあえて逆らう必要がない。一番厄介なのは、織田信雄であったが、本心は分からぬものの、太閤の権威に逆らうことはなかった。やがて淀君となる茶々も、十兵衛と直接会ったことはない。素直に信じた。というより、謀反人の十兵衛が生きている理由を何も思いつかなかった。茶々の妹である「お江」はやがて徳川秀忠の正室となる。本能寺の変が起きた時、彼女はわずか9歳で、織田信長の顔もろくに見たことはなかった。まして十兵衛の顔なぞ知らなかった。本能寺で父や兄、弟が死んだ家族たちには十兵衛への遺恨があった。しかし彼らとても「徳川家の瑞海」に会う手立てはなく、十兵衛が明智だと断定するすべはなかった。それがあったとしても、関白に逆らうほどの力はない。関白としては、この段階において、家康をつなぎとめておくことが最大の政治課題であり、その為には、母親さえ人質に差し出した。十兵衛を「生かしておくこと」など、徳川つなぎとめという政治効果を考えた場合、何の苦にもならない。自分が「麒麟をよぶ」と伝えておく限り、あの律儀な十兵衛は、家康を説得してくれるであろう。秀吉はそう考えていた。自分の晩年、そして死後「明智十兵衛が最後の戦いを仕掛けてくる」ことなぞ、想像もできない。

十兵衛は晴れて「死んだ」ことになった。そうなるともう瑞海と名乗り、僧形でいる必要もない。すぐに俗体に戻り、武士となった。名乗りは長井十兵衛光春とした。この稿では、十兵衛で通すことにする。顔も特に変えない。ただひげだけは少しばかり長く伸ばした。それだけでも面相はずいぶんと変わった。禄高は少ない。しかし家康の参謀であった。
瑞海の弟子たちも武士に戻った。明智左馬助は長井左馬助となった。藤田伝五は斎藤伝五である。斎藤利三は山崎の戦いで戦死した。彼の娘は、やがて徳川家光の乳母となり、「春日局」と呼ばれた。

十兵衛には思想家の体質がある。お駒のいう「麒麟のくる世は」、儒学的立場から書くなら「尭舜(ぎょうしゅん)の世」であった。徳川家内には「殿さんがやること」をいぶかる声もあった。しかしその度に、本多正信、また本多忠勝などの「四天王」が出向いては、説得を行った。「殿さん」は「尭舜(ぎょうしゅん)の世」を目指していると言った。多少本を読むことが好きな家臣は、それでなんとなく納得した。もっと「現実的」な家臣には「秀吉と戦うためには、十兵衛が必要」と説いた。家内の不満は次第に収まった。上記の秀吉の禁令がでてからは、徳川家内でも明智の名を出すものはなくなった。

十兵衛が直接出向いた大名がいる。美濃金山7万石の大名。森忠政である。この天正14年(1586)においては、まだ16歳の少年であった。彼の兄が、森蘭丸であり、そして坊丸、力丸であった。いずれも本能寺の変で戦死した。本能寺の変が起きたころ、森蘭丸は17歳であった。そして森忠政は12歳であった。忠政は後、美作18万石の藩祖となる。森家は100年、美作を統治したが、18世紀の初頭に改易された。十兵衛は家康の使者として森蘭丸の弟と対面した。むろん明智十兵衛とは名乗らない。が、家老から言われたのだろう。うすうす十兵衛の正体を知っている。憎しみを込めた目で十兵衛に接した。十兵衛は目撃者と言って、蘭丸らの最期を語った。十兵衛も直接見たわけでない。兵士に聞いた話である。森の末弟はうっすらと涙を浮かべた。十兵衛は去った。憎しみの目は最後まで変わらなかったが、十兵衛は森一族だけには筋を通しておきたかった。どうした心持であろう。

続く。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第一回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
本能寺の変(天正10年・1582)の後、山崎の戦いで明智十兵衛を破った羽柴藤吉郎は、翌天正11年(1583)4月には賤ケ岳の戦いに勝利して、織田家筆頭家老、柴田勝家を自害に追い込みんだ。が、その後、行動を共にしていた織田家次男、織田信雄は、秀吉の意図に気が付き、袂を分かつ。秀吉と信雄・徳川家康連合軍の間で天正12年(1584)「小牧長久手の戦い」が行われた。家康は戦術レベルの勝利をしたものの、決定的な決着はつかぬまま、講和という形でこの戦いは終了した。織田家の覇権は実質的に消滅し、信雄は秀吉のもと、一大名として織田家の家名を存続させた。北条攻めの後、織田信雄は秀吉によって改易されるが、その後家康に臣従する。結局「織田の血筋」は織田信雄と信長の弟である織田有楽が残すこととなる。

本能寺の変のあと、伊賀を超えて浜松に戻った家康は、兵を起こして尾張まで進出したが、そこで光秀が敗れたことを知り、兵を返した。その後、旧武田領をめぐる戦いに忙殺され、中央の政治を顧みる余裕はなかった。その状況は「小牧長久手の戦い」で、秀吉と講和した後も変わらない。家康が、関東の雄、北条氏政や信濃の国衆、真田昌幸、また上杉景勝などと「対峙」している間に、秀吉は織田家の旧領を瞬く間に支配下においた。そして家康に臣従を求めてきた。秀吉の母、大政所が人質として家康のもとに下ってきた。この状況にあって家康は秀吉に一旦臣従することを決意し、京に上った。

それが天正14年(1586)年10月のことである。家康は秀吉の弟、豊臣秀長の屋敷で歓待を受けた。その夜、わずかな供回りとともに秀吉が家康のもとにやってきた。

「ふっ、秀吉らしい。いかにも秀吉がやりそうなことだ」と家康は思った。明日の対面で何か頼みがあってきたのだろう。が、秀吉は座につくなり、意外なことを言った。
秀吉は言う。
「家康殿、此度の上洛、まことに大儀です。ところでな、近習のうちに、瑞海なる僧がおると聞いた。なにやら徳の高い僧であると聞く。ぜひお会いしてみたいが、いかが」
家康の傍に控える菊丸は、驚いた。しかし表情は変えない。
「はあ、瑞海でござるか」と家康は言った。
「いや聞くところによると、その瑞海なる僧は、興福寺で修業を積んだ後、諸国に遊学。それがの、本能寺の変の1年後には、武蔵の国で亡くなったというのじゃ。その亡くなった僧が、どうやら今でも生きておる。しかもな、なにやら誰ぞに瓜二つという話も聞いた。わしにとっても懐かしい知り合いに似ていると。となれば、ぜひ会ってみたいものですな。」
家康はしばし考えてから口を開いた。
「私は、天下のためを思い、関白様を助けるべく上洛しました。かつて信長公に仕えていた頃の私は、まことに力ない存在であった。もし信長公に家臣を殺せと言われれば、従ったかも知れません。しかし今はいささか多くの領地も有し、北条とも縁組をしておりまする。昔の家康ではない。話は変わりますが、母上様は浜松にておくつろぎいただいております。お忘れなきように。」
「これはこれは、何の話でござろうか。私が家康殿に家臣の成敗を命じる。そんなことがあっては、天下の静謐はたちどころに崩れましょう。」
ここで秀吉はにこりと笑った。そして胡坐をかいた。柔和な口調になって言う。
「家康殿、十兵衛殿のことはよーく知っておるのじゃ。京には草の者が沢山おりましてな。あなたが十兵衛殿と組んで本能寺を起こしたわけでないことも分かっておる。いや、会ってみたいのよ。十兵衛殿に。聞いてみたいこともありますでな。」
家康は心を決した。瑞海、、、十兵衛が殺されることはあるまい。少なくとも今は。そして菊丸に目配せした。菊丸が部屋を出、やがて一人の背の高い男が現れた。
秀吉は、軽く会釈をしたその男を眺めた。眺めているうちに、目からぼうぼうと涙を流し始めた。これには家康、菊丸も驚いた。
「いやいや、十兵衛殿じゃ。明智様じゃ。本当に生きておられたのですね。いや懐かしい。懐かしい」
そう言って泣いている。十兵衛も多少面食らったようである。
「関白様、5年ぶりになりますかな。いや、山崎での采配、見事でござった。この明智十兵衛、大敗でござった」
「そうでござろう。私もよくやったと思うのですよ。中国大返しと名付けて、今でも毎日のように語っておりますわ。思えば、十兵衛殿とは長き付き合い。もっとも十兵衛殿の気持ちが分かっていたのは、帰蝶様と信長様と、そしてこの秀吉かも知れません。そうは思われませんか」
十兵衛はまだ少し戸惑っている。
「さて、関白様に私の心が分かりましょうや」
「分かっておりますとも。お駒殿と私は古い付き合いでしてな。そう、麒麟。十兵衛殿は麒麟を捜しておられるのでしょう」
十兵衛は秀吉ほど軽い口をきく習慣がない。勢い、ここは秀吉の一人語りとなった。
「いや、公方の足利義昭殿にも、細川や駒殿を通じて、帰京をお願いしておるのだが、秀吉には麒麟は呼べぬ。そちには大志がないの一点張りでしてな。わしと瑞海殿が和睦したと聞けば、義昭公の気持ちも少しは和らぎましょう」
「ほう、公方様の帰京を。それは正しい道ですな。しかし関白殿には、幕府を再興するお気持ちも、自らが将軍となるお気持ちもありますまい。いかにして麒麟を呼ぶのです」
「はあ、それですな。いやなかなか苦労が多いのでござるよ。徳川殿さえ協力してくれれば、たちどころに他の諸侯もなびきましょう。しかし家康殿はなかなかに難しい。妹を妻にやっても、母を人質に送っても、なかなかになびいてくださらぬ。聞けば瑞海殿、つまり十兵衛殿が傍に控えていると言う。それで納得したわけです。十兵衛殿がいるのなら分かる。わしは十兵衛殿に嫌われておりましたからな。まあいずれ昔語りでもして、心を開きあいましょうぞ。」
ここで秀吉は家康のほうを向いた。
「家康殿。これはついでの話なんじゃがな。明日の対面、わしは思い切り尊大にふるまいます。家康殿は適当に話を合わせてくだされ。いや天下のためでござる。私の下にいる大名たちは、もとは言えばほとんどが同僚。家康殿が頭を下げてくだされば、すこしはわしを見直すことでしょう。これで失礼いたします。くれぐれも、お願いいたします」
家康は苦笑してうなづいた。秀吉は笑いながら帰っていった。
「相変わらず食えぬお方でありますな」家康は言った。
「関白の言うこと。いささかの理はあります。果たして本心かどうか。本気で麒麟をよぶつもりはあるのか。家康様とともに、しばし関白の政を助け、また関白を叱りつけ、見守っていく必要がありますな」十兵衛はつぶやいた。油断はならぬが、自分を殺すつもりは今はないようだ。
秀吉は屋敷に帰り、「ことの顛末」をいつものように、妻のねねに言ってきかせた。「麒麟がくる世、お前様、それは本心でしょうかな」ねねは首をひねった。
「何、狂言よ。しかし嘘ではないぞ。狂言も本気になって演じれば、やがて真になるものよ」こういう詩心がこの男にはある。
「十兵衛殿は大逆人でありましょう。殺さなければ、お前様まで十兵衛殿と同心と思われるのでは」
「いや、あの頃、多かれ少なかれ、誰もが信長公の死を願っていた。かわいそうなお方じゃった。十兵衛が天下をグルリと回してくれたのよ。あの前田利家さえ、それは分かっておるだろう。十兵衛には使い道がある。あの男の大望は分かっておる。わしが麒麟を呼ぼうとする限り、十兵衛は家康を説得してくれるであろう。あの一本気な性格が変わってなければな。」
「きりん?そういえば麒麟とは何です」
「分からんで話しておったのか。徳のある王が仁政を行うとき、現れるとかいう聖獣じゃ」
「お前様が、徳、仁」ねねは声をあげて笑った。秀吉も笑った。笑いながら、
「何がおかしい。散々逆らった佐々成政も許した。織田家も存続しておる。わしの仁と徳は世に鳴り響いておるわい」と言った。
この年、秀吉は丹波の奥で明智光秀と「称する男」が人々を扇動し、逆意をあおったとして、その男を処刑した。男は人を殺めた罪人であった。秀吉はしばし十兵衛を生かしておこうと決めたらしい。

続く。小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」