歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・京伏魔殿編PR動画(2分)の感想・傲慢不遜編

2020-10-17 | 麒麟がくる

文章を書くことは私にとって「趣味」で、文体も変えています。これは「傲岸不遜編」(ごうがんふそん)です。「偉そうに上から」書くバージョンです。わざとやっているので、お許しくださいませませ。

なるほどそうくるか、という感じがしました。幕府と、将軍である義昭を「区別」するのです。幕府とは「腐った官僚や利権に群がる人間たちの総体、京都伏魔殿」、しかし将軍義昭は違う。と現時点ではするようです。むろん細川や三淵は改革派になるのでしょう。三淵はどうかな?義昭が変化するのか否かも見どころになります。

そうした「腐った幕府」を代表する人物が幕府の政所執事摂である摂津晴門・片岡鶴太郎さんです。これを「旧勢力」と呼ぶようです。旧勢力とは摂津と彼をとりまく腐った官僚、比叡山延暦寺天台座主の覚恕法親王・春風亭小朝さん、さらにそれに協力するユースケ朝倉義景らのようです。浅井長政はどう描かれるのだろう。伏魔殿の一員なのか?

信長包囲網を敷くのは、義昭ではなく、この旧勢力の妖怪どものようです。「妖怪ども」は私個人の意見ではなく、設定です。伏魔殿には妖怪たちがいるのです。本願寺はスルーかも知れません。今までならこの「妖怪ども」の頂点に旧勢力の象徴として義昭が君臨するのです。でも今のところ義昭は妖怪の存在にすら気が付かないほどピュアです。さてどう変わるのか、このままなのか。

さて、政所執事、鶴ちゃんが気に食わないなら更迭(くびに)すればいいのですが、それはそれ。ドラマです。更迭したところで「伊勢氏」が復活するだけで、「もっと悪い状況になる」とか十兵衛が判断するのでしょう。史実としてはいずれは更迭されるようです。

光秀と信長は「幕府を建て直そうとする」が、それを旧勢力=魑魅魍魎(ちみもうりょう)が邪魔をする。比叡山の覚恕座主などは相当「あざとい」ことをするのでしょう。そして「あざとくて何が悪いの、われは天皇の弟ぞ」とほくそ笑むのでしょう。小朝さん、カタキ役です。

そこでついに「光秀と信長の反撃が始まる」ようです。弱者を一方的に焼き討ちしたのではなく、いじめられて、耐えて、そして耐えて、ついに怒りを爆発させるという形の「延暦寺焼き討ち」となるようです。(最後に補足があります)

実は特に新しくはありません。「初期において信長が幕府を建て直そうとした」ことは今までも描かれてきましたし(信長KING OF ZIPANGU)、焼き討ちの段階において、信長が朝倉と浅井(その協力者である比叡山)に追い詰められていくさまも描かれてきました。今までもそう描かれてきたのです。つまり20世紀段階の大河の通りということです。ただし覚恕天台座主がいわば「悪役」として登場したことはありません。そもそも登場してないかも知れません。

そして「耐えて耐えての倍返し」とエンタメ性抜群に描かれたこともありません。いつも光秀が焼き討ちに反対して信長に足蹴にされる。でも今度は違うようです。最近では光秀が「積極的に参加した」ことになっています。そういう手紙もあります。あまり考えたことが実はないのですが「積極的」と言ってもいいのかな?なんにでも「噛みついて」申し訳ない。だって上司の命令です。軍令です。逆らえないでしょ。光秀は40になって信長に仕えたので譜代でなく新参者。積極的なふりをしないといけない立場です。(今度調べてみます)

それはともかく「ここまで覚恕親王の横暴に耐えてきた。しかし世の平和を乱す叡山にはもう国家鎮護の府としての誇りはない。我慢の限界だ。やられたらやり返す。比叡山に倍返しだ!」と十兵衛には叫んでもらいたいものです。(たぶん人はあまり殺さない設定だろうし)

それはそうと昨日読んだ渡邊大門さんの「戦国の貧乏天皇」によれば「信長は朝倉浅井より、この段階でも有利」だそうです。それはまた宿題としてあとで検討してみます。

とにかく「これは新しいな」と思うのは、「既得権益の総体である幕府」と「将軍の義昭」を「分離する」という点です。そういえば義輝も幕府と「分離」していました。「信長は幕府そのもの、また義昭を倒そうとはしなかったが、腐った幕府システム、既得権益は、破壊または改革しようとした」とするとしたら(PR2分では断定できませんが)、それは新しい描き方です。

永禄12年の正月(上洛から間もなく)に、信長は「室町幕府殿中御掟」で、「義昭を縛る、またシバく」わけですが、新説派つまり信長義昭相互補完派の方々は、これは義昭を縛ろうとしたものではなく「単にそれまでの幕府のルールを整理したもの」とします。ウィキの「織田信長」にも「対立が決定的になったわけでなく」と「黒太字」で書いてあります(笑)。一体だれが「黒太字強調」なんかにしたのでしょう。必死過ぎます。ともかく義昭を縛ろうとしたものではなく、信長義昭が自らを縛った、または「幕府の役人にルールを示したもの」と「新説」は捉えるわけです。しかもそう読めないこともないのです。義昭向けというより「役人向けの条文」がはるかに多いのです。

「役人を縛ろうとした」という考えは「義昭と幕府に分離、または一定の距離がある」という前提があって成り立ちます。小和田さんは新説派ではないですが、懐の大きな方みたいなので、この考えを受け入れたのでしょう。池端さんのお考えは分かりません。でもたぶん義昭と十兵衛(信長)が「腐った役人を正す」ため、協力して作ったことになると思います(ドラマの話です、なお今までの信長ものでは、押し付けられた義昭が、信長めー、あの下克上が、と激怒します。)

なお別に「説」で脚本家が動いているとも私は思っていません。池端さんは一流の脚本家だから「説」さえも「物語創造」に利用している、私にはそう見えますし、たぶんそれは当然のことなんでしょう。芸術家は歴史研究家ではないのです。

さて天下という言葉を絶対使わなかった「麒麟がくる」ですが、PR冒頭で光秀が叫びます「天下静謐という大任を果たすため、織田信長は死んではならんのです」。天下は「てんか」ではなく「てんが」です。

うん、やっぱり「天下静謐」(てんかせいひつ、てんがせいひつ)でしょうね。まあ色々大人の事情もあるので今は「天下布武」も「天下一統」(天下統一)も使えません。今後しばらくは「天下静謐」が織田信長の目標となるのでしょう。10年ぐらいは。ただこの天下静謐ブームもいつまで続くのか。出版業界は「絶えず新説を要求」してきます。新説が本を売る一番手っ取り早いやり方だからです。だから天下静謐論もいずれは旧説として打破の対象となります。天下静謐論は「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」と予言しておきます。一定の正確さはあるので根絶はされないでしょう。でも少なくとも修正は行われるはずだし、すでにその萌芽も見えています。

天下静謐論の根源は「天下とは畿内だ」という考えです。そうすると天下布武は「あくまで畿内の平和」を目指した言葉、信長はもともと天下統一など考えていなかった、と「読み替える」ことができるのです。この「天下布武」こそが天下静謐論にとっては「当面の最大の敵」で、それをつぶすことから初めて、信長の義昭への「要求状」を次々に「解釈変更」していくのです。(あと、信長の権力の土台が他の大名と変わらず、荘園制や座を容認したというのも新説が強調する部分です。容認は間違っていませんが、容認しないこともある、とだけ言っておきます。別に新説批判がこの文章の目的ではありません。しかも新説は学者さんの世界では新説でも一時のブームでもなく、1960年代末から言われてきた考え方なのです。今は多数派です。ただし反対する少数派の学者さんも多少います。)

さて「天下の用法」。信長の朱印状とか黒印状、判物を奥野高廣「織田信長文書の研究」(信長文章集で買うと6万ぐらいします。私は図書館で借りています)で見てみると、「天下の使い方」は随分いい(良い)加減で、その時その時に応じて意味を信長が使い分けているように、私には見えます。年によっても違います。変化します。一部の学者さんの言う通り、「実に流動的に」、天下という言葉を使っています。畿内とも見えるけど、畿内じゃないと解釈できる部分もあります。言葉だから解釈次第なんです。禅宗は基本経典を持ちませんが、その理由がこの「言葉は解釈次第だ」という点です。

義昭の書状なんぞも上記の本に載っています。永禄12年の「義昭の」謙信宛書状をみると、謙信と信玄が仲良くして、謙信が上洛することが天下静謐の馳走になるとか言っています。これなんぞは微妙です。上洛が天下静謐なら天下は畿内かも知れません。しかし「仲良くすること自体」が「天下静謐」と読むこともできます。甲斐と越後の静謐が天下静謐の一部。すると天下の範囲は義昭の中では、この永禄12年段階で越後甲斐まで広がります。つまりは「解釈次第」というわけです。「言葉なんだから多層な意味と多層な解釈が生じるのは当然」です。多層的なものを単層的な意味に限定しようとすると、どうしてもそこに無理が生じます。

さて、このように(どのようにだ?)、麒麟がくるは、新説派にも配慮し、従来の安定した説にも配慮した作品です。秀吉はちゃんと一夜城を「三か月で」作ったようです。こういう具合に安定説にも十分配慮しているわけです。一夜城は数日で作ったとするなら99%虚構ですが、「ない」を証明することは困難です。だから1%の可能性があれば小和田さんは許すでしょう。小和田さんはキャリアが長いのでわかっています。史実を描け、史実を描けではフィクションとしての大河は死んでしまうと。しかも新説が定説化しているかどうか判断するのはまだ早いと。

ともかく信長は幕府(腐った方の幕府)を倒さなくてはならない、しかし同時に幕府(義昭)を倒す気がないことにしないとならない。その唯一の解決策が「幕府と義昭を分離する」という設定です。

しかしいずれは義昭も追放しないといけない。これは史実がそうで動かし難いからです。これを信長側の変化の結果にするのか、義昭側の変化の結果にするのか?そこは分かりません。私は「このままいい人のままで追放となっても」、面白いと思います。義昭を変化させずに、今のままの義昭を追放するとしたら「どういう理由をつけるのか」、そこが見どころになります。

補足、比叡山焼き討ちで信長が「我慢した」ことは、彼の古い側面、史実の信長が神仏を大事にしたことの証明とされる場合があります。そうはならないと思いますが、あまりに長くなるので、そうはないないと思うとだけ述べておきます。といって無神論者だなんてくだらないことを言うつもりもありません。私は当時の一般的な信仰の「実態」、それから信長の師匠である沢彦の禅宗(あまりあの世の話はしない宗派)を考えるべきだと思っています。

素人が、いろいろ傲岸不遜に書きましたが、最後に。

社会の変化があって、それにつれて信長像は変化します。今までもそうでしたが、最近は特にその変化の幅が大きい。「私の信長」を、これを書いている「私」も含めてみんなが持っている。しかもそれを誰もがネットで表明できる。実際私なぞその「意見表明」をこの文章でしているわけです。そういう難しい状況下にあって、万人をそれなりに納得させる信長像を提示するのは、大変な作業だろうなと思います。「麒麟がくる」は大変面白い作品です。

麒麟がくる・足利義輝はなぜ剣豪でなければならないか。

2020-10-01 | 麒麟がくる
足利義輝の最期の奮戦について

1、フロイス日本史は「(剣の腕に)一同が驚嘆した」としている。
2、信長公記は「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ」としている。
3、日本外史は刀を畳に刺し、取り替えながら奮闘したとしている。

1については偏見がある史料とされます。さほど私は感じませんが。
2については一級資料だけれども、一次史料ではないとされます。
3については江戸後期の資料です。

日本外史の記述から作家が、例えば司馬さんが、剣豪将軍に仕立てました。それ以前もそういう「再生産」は行われています。だから「史実に過剰なこだわり」を持つ方は、「あれは嘘だ。剣豪ではない」というわけです。1と2についても、その価値を疑います。

でわざわざツイッターで拡散希望と書いて「剣豪じゃないよ」としています。その情熱はなぜ?

少なくとも1と2には相当の史料価値があります。特に信長公記は。だから「剣豪じゃないかも知れないけど、将軍自らが剣で奮闘した」ことは認めるべきだと思います。

大河はフィクションですから、それにちょっと盛って、剣豪としても、何一つ問題はありません。そもそも史実を描く必要なんかないのです。駒なんていない、嘘だ。と言っても意味ないことです。

だから「大河のフィクション性を守る為には」、剣豪じゃなくてはいけないと考えます。大河は史実の再現フィルムではないからです。

まあ「何描いてもいい」わけではなくて、そこに「常識の範囲内」という条件はつくでしょう。特に近代史においては。しかし義輝を「剣豪じゃない。日本外史の嘘だ」と声高に言うことが、何の意味を持つのかなと思います。大河はフィクションだから面白い。その「面白さ」を守るためには、義輝は「剣豪でなければ」ならないと考えます。

「麒麟がくる」は果たして相互補完をしているか。

2020-10-01 | 麒麟がくる
かなり散らかった文章ですが、あえて残します。

室町将軍などを研究している方が、というか関西系の方かな、まあともかくよく出す言葉が「相互補完」です。

「大名あっての将軍」「将軍あっての大名」とかそんな感じです。室町将軍が本当に無力なら、なぜ長く続いたのか。それは相互補完していたからだ、という感じになっていきます。

どうなんでしょうね。本当にそうでしょうか。どうもそうは思えない。少なくとも私はそんな風には考えない。もっとも「私の意見」なんて私すら「どうでもいい」と思うので、ここで学者さんに助けてもらいます。最近よく読む黒嶋敏さん「天下人と二人の将軍」。

12ページ
「信長と義昭が協調関係にあったとする場合、なぜその関係は崩れてしまったのだろうか。信長が義昭と連携し、室町幕府という体制に理解を示していたという前提にたつとするならば、それを崩壊に導いた原因は、一人義昭のみに帰することになってしまうだろう。
しかし、史料をめくっていくと、幕府崩壊の理由はそんな単純な話でもないようだ。もっと根の深い構造的な問題が、義昭の幕府には内在していたと考えられるのである。」

しごく当然の指摘です。信長が幕府というものにずっと理解を示していたなら、義昭追放という「結果」は、「一方的に義昭の方に問題があった」ことになる。

その「結果」を認めたくない論者は、ここからは私の意見ですが「何とか義昭の子を将軍にしようとしていたのだ」という論法を立てるわけですが、苦しいというか、無茶苦茶な話です。追放したのだから「追放する、そして京都においては幕府を認めない」という気持ちは存在する、これは間違いない。しかし「本当は幕府を存続させたいのだけど、泣く泣く追放した」という意識が存在するかどうかは分からない、論者の考えようでどうにでもできる問題です。

黒嶋さんの引用の「協調関係」というのが「相互補完」で、そのものずばり「相互補完」と書いていないのは、「無用な軋轢を避ける」ためかなと私は思っています。

黒嶋さんの論をここで紹介すべきなんでしょうが、まだ考えていることがあるので、それは宿題とさせてください。

さて、話は「麒麟がくる」に戻ります。

信長は義輝に会いにいきます。そして仲介を頼むと「官位をあげる。相伴衆にする」と言われ、首をひねり、断ります。官位は将軍を通してもらうものです。もらえば天皇や将軍の「お墨付き」がもらえます。いわゆる「正統性」です。しかし信長は断るというか、どうでもいいという態度を見せます。将軍がくれる権威付けなど現実の前では無効だという態度です。それを十兵衛に確かめます。十兵衛もまた無効だと判断します。

「将軍あっての大名」という関係はここにはありません。相互補完は成立していないと考えてよいでしょう。ドラマの話ですから史実とは関係ありません。しかしこれだって強引に「幕府に会いに行ったのは信長がその権威を認めているからだ、、、とドラマで描きたいのだ」ということもできます。この強引な論理を、認めたら、なんでもあり、となります。どんな場合でも相互補完が成立する。殺しあっていても「愛と憎しみは裏表だ」とすれば「相互補完で殺しあう」ことになります。

一方義龍は官位をもらっています。相互補完の中に入っていきます。しかし結局、義龍の子の代で、斎藤氏は美濃衆に見捨てられ、美濃は信長のものとなります。

やはりドラマ内においては相互補完は成立していません。

私が黒嶋さんの論は素晴らしいと思うのは、自分の頭で考えている感じを強く受けるからです。それに比して相互補完という言葉が好きな学者は、初めからその結論を持っているわけです。一種の思考停止です。だから「つまらない文章」になるのです。

つまり結論としては「相互補完と書いて、それで良しとしている学者」が好みじゃないという個人的感情を書いたのだということになります。私がそう感じる。ただそれだけです。史料を読むことにかけては秀でているし、私などできない行為です。しかしそれを歴史論として構築していく段階で、相互補完論という「大きな、仲間が沢山いる物語」に頼ってしまう。だから「お仲間たち」の文章は、私には金太郎飴のように、どれもこれも同じに見えるのです。私には。