歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・第二十八回・「新しき幕府」・感想・面白くなってきた

2020-10-25 | 麒麟がくる
「麒麟がくる」の演出が「良い加減」だということは、私は散々指摘してきました。「いい加減」ではなく「良い加減」です。前後の脈略とか結構大きく無視します。「光秀ともっと早うに会いたかった」、これは足利義輝の言葉です。12歳の時に初めて会って、10代でまた再会もしています。一体いつ会いたかったのでしょう。5歳か!

本当に「批判じゃない」のですよ。こういう所も楽しんでいるのです。
今回もそういう「楽しいつっこみ所」満載です。「今井宗久はどこに行った?この本圀寺の戦いで堺は三好三人衆と組み、2万貫の矢銭を課されるのに」
とか「あんなに京の火災を心配していたお駒ちゃん。結局戦になった。実はこの後も桂川の合戦というのがあるぞ。どうして十兵衛を責めない」とか。

それにしても本圀寺合戦、1秒でいいから義龍の子の龍興を出してほしかった。「寄せ手」の大将の一人です。
あと越前攻めの理由が「朝倉と三好が手を組んだから」、、、これは調べてみたいと思いました。

1、将軍足利義昭・上善は水のごとし

今までの大河の中でも際立って「へたれ」です。でも「へたれ」には強みもあります。

上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。

(最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)

明らかにこの老子の言葉を意識したような人物になっています。そうすると今回「義昭が水を運んでいた」ことも意味があるのかも知れません。
「水は斬れない」のです。この義昭はなかなか「斬れない」と思います。信長も「織田殿」なんて呼ばれたのでは手が出しにくい。「一番強い義昭」という言い方もできるかも、と思いました。

2、摂津晴門

政所の執事はずっと「伊勢氏」だったのですが、義輝の時代に摂津に変わりました。伊勢氏に代えて起用したのだから、史実としては骨のある改革派だったのかも知れません(これから調べます)。ウィキペディアを読む限りでは、一貫して義昭に従っており、義栄を拒んでいます。息子は13歳で義輝と共に死んでいる。実像は気骨ある老人なのかも知れません。とにかくこれから勉強します。

摂津さんはドラマでは伏魔殿の妖怪です。妖怪代表は彼と、比叡山の天台座主、覚恕親王です。正親町帝の弟です。兄に対してはコンプレックスを持っている設定みたいです。この設定、池端さん、大好物です。
さて、摂津さん。鶴ちゃん。
歌舞伎みたいな言葉遣いでした。「信長に一泡ふかせてみしょーぞ」。もう明らかに「半沢直樹」の「歌舞伎系悪役」、猿之助さんなんかを意識した演出です。
そして光秀と信長はやがて「反撃」を始めるようです。「倍返し」ですね。

どうして義昭はそのまま摂津を任命したのか。それはドラマ上では分かりません。史実としては当然という感じがします。ドラマ上は、どうやら三淵や一色が賛成したと、細川藤孝の言葉からは「うかがえ」ます。三淵や一色も「伏魔殿の一員になっていく」のかも知れません。いずれにせよ、これまでの大河で義昭が担っていた「信長包囲網」作りは、摂津晴門が担うようです。幕府本体と将軍を分離する。これは新しい描き方でしょう。
義昭がどうかかわり、またどう「かかわらない」のかも見どころです。(あくまでドラマの話)

3、今井宗久はどこにいった

今井宗久は信長おかかえ商人として、時にブレーン(参謀)として、信長の「天下布武」(ドラマでは天下静謐・せいひつ)を助けていきます。大河「黄金の日々」では、丹波哲郎さんが演じて「ほぼ前半の主役」です。
しかしこの時の宗久はまだ堺を主導していたわけではなく、堺の会合衆の一人です。そして今回の「本圀寺合戦」では、堺は三好三人衆の味方、どころではない、三好と組むのです。なお三好とは三好三人衆。覚えにくい三人です。三好本家は、三好義継で、松永久秀とともに「信長陣営」にいます。
堺はこれで「矢銭2万貫」を課されます。一回目は乗り切った?「黄金の日々」はこの場面の少しだけ前からスタートします。2万貫は計算にもよりますが、20億から24億でしょうか。もっととんでもない計算もあります。そして、この件から堺は信長を恐れ、今井宗久の地位は格段に上がっていくのです。その辺りの話はスルーでしょうが、ここから今井の活動にも目が離せなくなっていきます。

4、松永さんのお茶

つくも茄子を献上したのは有名です。大河「信長KING OF ZIPANGU」では、そのあと「つくも茄子も知らないのか。田舎大名め!」と毒舌を吐きます。今回は「なーんだ、十兵衛も知らないのか、わはははは」と豪快です。
松永さんの「見直し」が始まっていて「このままではいい人になってキャラ崩壊」しないかと心配です。松永新説はよく知りませんが、読んで判断したいと思います。
もっとも松永さんが大活躍するようになったのは「信長協奏曲」からで「最近の出来事」です。

松永をどうして許したのか。信長の思惑、義昭の考え。幕臣の考え、、、探っていくときっと面白いことに満ちています。今までは大河で活躍しないので、私は考えたことがないのです。あくまで「大河を楽しむ」ために史実を調べているのです。ちなみに史実では松永さんはこの時、すでに「たくさんのお土産」を持って、岐阜まで行って信長に会っています。信長は本圀寺を聞いて、松永さんを連れて京にきたのです。動きが早い。まさに梟雄です。

筒井順慶と戦うようです。「セリフありの筒井順慶」は大河初だと思います。「敵か味方か」と「おなじみのフレーズ」で紹介されていました。古いから新しいのでしょうね。松本人志さんも書いています。「敵か味方か、カウボーイ」。昔のドラマ予告ではこの「敵か味方か」が繰り返し使われたのです。敵かな?味方かな?史実も面白いのです。

5、信長は不信心者なのか。

なんかいつの間にか信長が「いつもの信長」のようになっています。さらに摂津への怒りなど見ると、いつもより格段に感情的です。まあ「子供みたい」な点では一貫しています。「自分を認めないものに怒り狂う」点でも一貫しています。そう考えると「いつもの信長ではない」か。ないですね。

さて「石仏」の件。
いかにも信長が不信心という演出でした。ただ、石仏を石垣にするのは「転用石」という専門用語があるほどで、一般に行われていました。松永もやってますし、十兵衛の福知山城なんかには沢山の「転用石」(主に墓石?)があるようです。ただし二条城の石仏の転用は異常だという都市考古学の学者さんの説を見ました。十兵衛の城では石仏は極少で、松永さんの城では「ない」そうです。全部墓石か石塔?すると二条城は異常となります。

私は「石垣と宗教に弱い」ので、あまり「ウンチクめいた」ことは書けません。ただバチは怖くなかったのでしょうね。石仏を運んでいた男も別にバチなど恐れていない様子でした。それはドラマの話としても「この上に実際に住んでいた」のです。多くの人が。
「かえって魔除けになるのでいいのだ」という説明も当時からなされていたようです。あっ、するとバチはやっぱり怖かったのか。宗教と風俗は難しくて「こうだ」とはなかなか断定的には書けません。

土田御前が「仏のバチが当たると言った。バチを待ったが何も起きなかった」、、また「母親の育て方が悪かった」みたいな感じですが、土田御前は当然のことを言ったまででしょう。ただし「バチが当たればいい」と「何の愛情もない言い方」をしたことは十分に予想できます。ともかく「バチが当たるのを待った信長が異常」なのです。ただし「バチが当たって土田御前が優しくしてくれることを待った。が、何も起きなかった。何も」となるなら、、、ちょっと悲し過ぎます。

バチ問題はともかくとして、信長の表情はまたいつもの「サイコパス」になってました。今までの大河では、というより、一般的な理解では「信長は合理主義者だから、敵対してない寺社には寛容だったが、敵対する寺社にはバチなど恐れずに攻撃した」とされます。「合理主義者ではなくサイコパス的だから」というのが「新しいと言えば新しい」点です。単に変なだけとも思いますが(笑)

寺社、特に比叡山や本願寺は、寺社というより戦国大名に近い武装集団でした。「バチも武器」なのでしょう。「バチなど恐れる余裕はなかった」というのが真相かも知れません。寺社と戦うなら、そんなもの恐れていたら命がないのです。石仏の件は「信長は意外と信心深かった」という説にも、一石を投げかけそうです。しかも紀行で「実際に使われた石仏」が紹介されました。「どうだ」という感じです。ただし反論はできます。私にだってできるのだから学者さんなら簡単です。私は織田信長の特殊性を示していると思いますが、、、。人並みに神仏を大事にすることもあったが、敵になると、つまり本願寺や比叡山や高野山には、厳しかった。特に一向宗には相当厳しかった、でいいような気がします。

「バチが当たるかどうか自らの体で人体実験をした」となると、さらにそれに併せて「池の水を抜いて化け物を確かめようとした」という描写もあったことを考えると、脚本家と時代考証家はふんわりと「合理主義者として」描きたいのかも知れません。ただ露骨にそれをやると「新しい信長じゃない」と言われる。だから「ふんわりと遠回しに、信長の合理的側面を描いている」、そんな解釈もできそうです。

さて義昭二条城の建築現場ですね。信長も先頭に立って建築に加わりました。「祭り」のようなもんだったと思います。「大石を運んでその上に乗った」(大石は描かれるようです)とか「女性にちょっかいを出した織田兵を見つけて即座に首を自ら斬った」(織田軍の軍律の厳しさを物語る逸話、フロイス)とか、エピソード満載の「建築現場」です。

6、十兵衛と鉄砲
私は、この本圀寺の合戦で「十兵衛が初めて鉄砲を実践で使用する」と思っていたのです。なにしろ前はずっと背に鉄砲を背負って歩いていた。分解もできる。産地だって当てられる。次は連射の工夫です。例えば3人が十兵衛について、3丁の鉄砲を装填する。すると実質3段撃ちのようなことになります。そんなことを十兵衛が工夫するのではないか、と思っていました。
ところが十兵衛は蔵に籠もって、義昭と昔話です。あれっと思いました。十兵衛が一番活躍したわけではありませんが、それでも信長公記に名前が残っている。それなりの軍事的活躍をしたと思われます。しかし十兵衛は鉄砲を持たない。結局今に至るまで、十兵衛は一回も鉄砲を実践で使用したことがありません。ちょっと不思議な演出でした。

さて石仏。史実としては転用石程度に十兵衛が驚くわけはないのですが(墓石はよくあっても石仏はないから驚く?)、ドラマとしては驚き不安を感じていたようです。あれ、十兵衛も「いつもの光秀」なのか?考えてみると思考回路は「ずっと、古いものを大切にするいつもの光秀だったのか?」まあこれからの展開が見ものというところでしょう。ますます面白くなってきました。