歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・足利義輝はなぜ剣豪でなければならないか。

2020-10-01 | 麒麟がくる
足利義輝の最期の奮戦について

1、フロイス日本史は「(剣の腕に)一同が驚嘆した」としている。
2、信長公記は「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ」としている。
3、日本外史は刀を畳に刺し、取り替えながら奮闘したとしている。

1については偏見がある史料とされます。さほど私は感じませんが。
2については一級資料だけれども、一次史料ではないとされます。
3については江戸後期の資料です。

日本外史の記述から作家が、例えば司馬さんが、剣豪将軍に仕立てました。それ以前もそういう「再生産」は行われています。だから「史実に過剰なこだわり」を持つ方は、「あれは嘘だ。剣豪ではない」というわけです。1と2についても、その価値を疑います。

でわざわざツイッターで拡散希望と書いて「剣豪じゃないよ」としています。その情熱はなぜ?

少なくとも1と2には相当の史料価値があります。特に信長公記は。だから「剣豪じゃないかも知れないけど、将軍自らが剣で奮闘した」ことは認めるべきだと思います。

大河はフィクションですから、それにちょっと盛って、剣豪としても、何一つ問題はありません。そもそも史実を描く必要なんかないのです。駒なんていない、嘘だ。と言っても意味ないことです。

だから「大河のフィクション性を守る為には」、剣豪じゃなくてはいけないと考えます。大河は史実の再現フィルムではないからです。

まあ「何描いてもいい」わけではなくて、そこに「常識の範囲内」という条件はつくでしょう。特に近代史においては。しかし義輝を「剣豪じゃない。日本外史の嘘だ」と声高に言うことが、何の意味を持つのかなと思います。大河はフィクションだから面白い。その「面白さ」を守るためには、義輝は「剣豪でなければ」ならないと考えます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿