NHKは公式には言いませんが、「麒麟がくる」は「国盗り物語」のリメイクです。国盗り物語は前半が道三編、後半が信長光秀編。ちなみに再来年の「鎌倉殿の13人」はおそらく「草燃える」のリメイクです。三谷幸喜さんも「草燃える」は大好きだと思います。なお麒麟がくるの人物像は「信長協奏曲」の影響も大です。
道三は、近頃、親父と道三の二代で美濃をとったことになっています。だから「とっても面白い道三の油売り時代」は「麒麟がくる」にはありません。
さてこの二つの似通った作品の道三、似通っていてもやはり違う。それを「つらつら」と書いてみます。麒麟がくるの道三は「麒麟道三」、国盗り物語の道三は「国盗り道三」と表記します。
麒麟道三は、油売りという出自に「いささかのコンプレックス」を持っています。高政になるともっと持っています。しかし国盗り道三にはそれが全くない。むしろ逆なんです。
「商売をして、この世の倒すべき悪が分かった」と「国盗り道三」は言います。それは何か。「座」です。大きくは既得特権。そしてその大本は何か。「室町幕府」です。特権的な「座」にその地位を与えているのは本所ですが、その象徴として幕府があると国盗り道三は考えるのです。
で、美濃を奪って百万の軍勢で上洛し幕府を倒す。これが「油売り道三の野望」です。京の大きな油屋の「入り婿」になった道三は、妻であるお万阿を説得し、美濃に向かいます。この「入り婿」になる過程、油屋を乗っ取る過程、お万阿との愛情、油の売り方「とーとーたーらり」(分かる人には分かります)なんかが、実に面白いのです。麒麟がくるも二話ぐらい使って「親父道三」を描いても良かったのではと思います。
さてさて、話戻って、国盗り道三は「一流の文化人」なんですね。だから格調が高い。麒麟道三は「へへへ」というような笑い方をする時がありますが、国盗り道三は「悪なりにお上品」ですからそういう笑い方はしません。
しかし人間味という点では麒麟道三が上です。悩んだり間違ったりする。国盗り道三は超人ですから、その分、人間味はありません。なんでもできるのです、スーパーマンですね。しかしその彼をしても「老い」には勝てなかった。義龍との運命にも勝てなかった。国盗り道三は言います。「生き残った我が子二人は僧にしろ。乱世はむごい。おれほどの才覚があってもこの結果だ。」と。
演じているのは若い日の平幹次郎さんで、実にかっこいい。総集編しか見られませんけれども。ちなみに私の道三の知識はドラマより主に「小説国盗り物語」のものです。本木さんもさらにカッコいいけれど、まあ好みの問題ですね。どっちもかっこいい。
麒麟道三は「幕府を倒す」などという野望は全くありません。この作品は全体に「旧権威に敬意を払う」という傾向があります。将軍様勢力もイケメンばっかりです。国盗り道三は「天下を視野に入れて」いますが、麒麟道三は微妙です。「天下」という言葉を巡って、日本史学者さんが色々異論を唱えるので、今「天下」は使用自粛ワードになっています。だから十兵衛に「天下を狙え」なんて言わないのです。あくまで「大きな国」を狙え、です。
国盗り道三は「室町幕府を倒して、既得権益をなくし、世を立て直そうとした。道半ばで倒れた。その思いをついだ二人の弟子が、信長と光秀だ」という構図を持っています。
そういう意味では本木さんの道三と平幹次郎さんの道三は違っていますが「どちらもカッコよく魅力的」という点では同じです。道三というと最近は「頭のてっぺんがはげた爺さん」で、演じるのも西田敏行さんとか松平健さんといった「大御所」でした。かっこよくはないのですね。史実としての道三はかなり残酷な面もあったようですが、ドラマの中で道三の地位を一変させたという点で、本木さんには感謝したい気持ちでいっぱいです。
かつて私は別のブログで「国盗り物語がリメイクされたら明智光秀のイメージは一変する」と書いたことがあります。一変するのは光秀だけでなく、どうやら斎藤道三でもあったようです。
道三は、近頃、親父と道三の二代で美濃をとったことになっています。だから「とっても面白い道三の油売り時代」は「麒麟がくる」にはありません。
さてこの二つの似通った作品の道三、似通っていてもやはり違う。それを「つらつら」と書いてみます。麒麟がくるの道三は「麒麟道三」、国盗り物語の道三は「国盗り道三」と表記します。
麒麟道三は、油売りという出自に「いささかのコンプレックス」を持っています。高政になるともっと持っています。しかし国盗り道三にはそれが全くない。むしろ逆なんです。
「商売をして、この世の倒すべき悪が分かった」と「国盗り道三」は言います。それは何か。「座」です。大きくは既得特権。そしてその大本は何か。「室町幕府」です。特権的な「座」にその地位を与えているのは本所ですが、その象徴として幕府があると国盗り道三は考えるのです。
で、美濃を奪って百万の軍勢で上洛し幕府を倒す。これが「油売り道三の野望」です。京の大きな油屋の「入り婿」になった道三は、妻であるお万阿を説得し、美濃に向かいます。この「入り婿」になる過程、油屋を乗っ取る過程、お万阿との愛情、油の売り方「とーとーたーらり」(分かる人には分かります)なんかが、実に面白いのです。麒麟がくるも二話ぐらい使って「親父道三」を描いても良かったのではと思います。
さてさて、話戻って、国盗り道三は「一流の文化人」なんですね。だから格調が高い。麒麟道三は「へへへ」というような笑い方をする時がありますが、国盗り道三は「悪なりにお上品」ですからそういう笑い方はしません。
しかし人間味という点では麒麟道三が上です。悩んだり間違ったりする。国盗り道三は超人ですから、その分、人間味はありません。なんでもできるのです、スーパーマンですね。しかしその彼をしても「老い」には勝てなかった。義龍との運命にも勝てなかった。国盗り道三は言います。「生き残った我が子二人は僧にしろ。乱世はむごい。おれほどの才覚があってもこの結果だ。」と。
演じているのは若い日の平幹次郎さんで、実にかっこいい。総集編しか見られませんけれども。ちなみに私の道三の知識はドラマより主に「小説国盗り物語」のものです。本木さんもさらにカッコいいけれど、まあ好みの問題ですね。どっちもかっこいい。
麒麟道三は「幕府を倒す」などという野望は全くありません。この作品は全体に「旧権威に敬意を払う」という傾向があります。将軍様勢力もイケメンばっかりです。国盗り道三は「天下を視野に入れて」いますが、麒麟道三は微妙です。「天下」という言葉を巡って、日本史学者さんが色々異論を唱えるので、今「天下」は使用自粛ワードになっています。だから十兵衛に「天下を狙え」なんて言わないのです。あくまで「大きな国」を狙え、です。
国盗り道三は「室町幕府を倒して、既得権益をなくし、世を立て直そうとした。道半ばで倒れた。その思いをついだ二人の弟子が、信長と光秀だ」という構図を持っています。
そういう意味では本木さんの道三と平幹次郎さんの道三は違っていますが「どちらもカッコよく魅力的」という点では同じです。道三というと最近は「頭のてっぺんがはげた爺さん」で、演じるのも西田敏行さんとか松平健さんといった「大御所」でした。かっこよくはないのですね。史実としての道三はかなり残酷な面もあったようですが、ドラマの中で道三の地位を一変させたという点で、本木さんには感謝したい気持ちでいっぱいです。
かつて私は別のブログで「国盗り物語がリメイクされたら明智光秀のイメージは一変する」と書いたことがあります。一変するのは光秀だけでなく、どうやら斎藤道三でもあったようです。
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