歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

織田信長の上京焼き討ち。織田信長が足利義昭を追放するまで。

2020-12-20 | 織田信長

1572年・元亀3・12月22日  三方ヶ原の戦い
                  
1573年・元亀4、西暦8月から天正
1月     信玄、野田城を落とすも動きが鈍る→4月死去
       義昭、一回目の挙兵
       信長、義昭に和睦を申し出る・義昭拒否
2月24日  信長、足利義昭側の「砦」を攻撃
3月25日  信長岐阜から京へ出陣
3月29日  細川藤孝・荒木村重、信長側へ、吉田兼見に義昭の評判を聞く
4月3日   京都の郊外を焼く
4月4日   信長上洛して上京を焼く(義昭への脅し?)
       旧二条城を包囲 義昭和睦に応じず。 上京、内裏の近くまで火か。正親町帝調停に乗り出す。
4月7日   関白二条晴良が和睦の使者に。義昭和睦に応じる
4月8日   信長、六角勢を掃討しつつ岐阜に帰陣
       このころ武田信玄死去
5月15日  信長、佐和山に出向いて「大船造り」を命令 全長50m 岐阜から京に迅速に行くことが目的 7月5日に完成
7月3日   義昭二回目の挙兵 義昭は槙島城  三淵藤英は旧二条城
7月9日   信長京に入る
7月12日  三淵、旧二条城を明け渡す
7月18日  義昭、槙島城を開城 降伏の条件、義昭の子、義尋を差し出すこと 信長の兵力は5万から7万
       義昭追放 義昭は一旦、三好義継の若江城へ→義昭帰京の為、毛利、安国寺恵瓊と秀吉が交渉→義昭、信長へ人質を要求して決裂→毛利へ→鞆へ

1、織田信長は「それでも幕府を残そうとしていた」のか。

最終局面で、信長が義昭の子である義尋を手元においたことから、幕府再興説が存在します。義尋はのち僧となります。義尋を将軍にするという「動き」はなく、旧二条城は破却されます。

2、織田信長は何故上京を焼いたのか。

京の半分を焼き払うというのは、脅しにしては過剰です。義昭の威信を傷つけるためでしょうか。上京はもともと信長に反意があったとも言われます。下京は「焼かなかった」という理由で後、金をとられています。

帝の御所は焼きませんでしたが、帝のおひざ元である京を焼く。正親町帝にとってこれは「いつものこと」なのか「不快なこと」なのか。調べてみようと思っています。

織田信長の軍事作戦を「天下静謐」の為の戦いと言っていいのか。

2020-12-10 | 織田信長
織田信長はたしかに自分の戦いを「天下静謐のため」(てんかせいひつ)と書いています。でもそれを真に受ける必要はないでしょう。アメリカ軍が「世界平和のためのイラク戦争だ」と言うのを「そのままそっくり信じてはいけない」のと同じです。なお天下は畿内、京、日本、世界を指す言葉です。信長は自らの支配領域を天下としており、天下の意味は「柔軟に」捉えるべきものと考えています。

具体的に考えてみましょう。「越前の運命」です。

1570年ぐらい、つまり信長の上洛までは、越前朝倉氏は一向一揆と戦ってはいたものの、それなりに平和でした。「静謐」なわけです。なお「謐」とは「静」です。「静静」です。

さて越前。それなり静謐で「小京都」と言われる賑わいを見せた越前一乗谷の運命は、信長の出現によって変貌します。まず信長がいきなり侵攻してきます。別に悪いことしてないのに「京都に来なかった」と攻め込まれます。信長は若狭攻めの勅命や将軍上意をもっています。越前攻めの大義名分があったかは微妙です。ここは浅井氏の協力で乗り切りました。いわゆる「金ヶ崎の戦い」です。

こっからは信長との消耗戦となります。金ヶ崎の戦いの後には、浅井と組んで姉川の戦いを行います。善戦したが、負け、かなりの死者がでます。

そして志賀の陣、これは叡山にこもって持久戦です。ここまでは対等ぐらいに戦ってはいますが、消耗はひどかったでしょう。さらに越前朝倉滅亡直前に小谷城への援助出兵。このころになると朝倉内部は統一がとれず、ひどい状態で、前波義継などが信長側に寝返ったりします。越前本土は戦乱に巻き込まれませんでしたが、たえず出兵をしているわけです。一向一揆がおさまったわけでもない。そして一気に一乗谷に攻め込まれて朝倉は壊滅します。一乗谷は野原となって、やがて水田となり、二度と復興しませんでした。

「天下静謐を乱している」のは、幕府、信長、朝廷です。

さらに越前の運命は悲惨です。越前を「難治の国」とみた信長は、先の前波吉継を「守護代」にします。「誰だよ」という人物です。滅ぼしてはみたものの、経営は深く考えていなかったようで、越前人の前波に「あとは任せた」となるわけです。朝倉の人間にとっても「あいつかよ」という人物だったようです。
予測に反してうまく治めた、ならいいのですが、案の定、越前を経営できず、前波は一向一揆と越前内部の抗争で殺されます。そして「一揆が持ちたる国」になります。

で、一時平和かというとそうでもない。今度は本願寺から派遣されたエリート僧、地元の僧、地元の民衆の間で「抗争」が始まるのです。

それを見た信長は(忙しくてしばらく放っておいた後)「殲滅作戦」を計画し、自ら出向いて一向一揆を「殲滅」します。先鋒は秀吉と光秀だったようです。1万以上の人間が死にます。2万という説もあります。それが1575年です。たった5年で越前は修羅の地となったわけです。そして柴田勝家による支配がはじまります。すると賤ケ岳の戦いとなってまた修羅場です。ただこの時点では信長は死んでいます。

これを「天下静謐ための戦い」などと名付けいいのかなと思います。呼び方の問題です。一般に使うのも変だと思いますが、特に学術用語として「適当」と言えるでしょうか。信長が「そう言っているだけ」のことです。戦国時代であり、日本統一の大義があったから、侵略戦争とまでは言わないものの、侵略的な平定戦であることは確かです。しかも信長の統治政策の失敗によって、最後は殲滅戦になります。

「天下布武」を使えとはいいません。同時に「天下静謐」も全く現実と合いません。ごく普通に「信長の軍事作戦」「信長の全国平定戦」「信長の越前平定戦」というべきで、「天下静謐」などという美称または政治的思想的な用語は使うべきではないと思われてなりません。

むろん私のこの考えに反対する方もいると思います。「結局天下布武が好きなんだろ」「旧権威の力を重く見る静謐論が嫌いなんだろ」などが考えられます。そうかも知れません。否定する気はありません。

織田信長は濃厚に室町人的性質を残しており、武力によってのみ活動したわけではない。そういう信長の古い中世的性質を考えた時、室町幕府と朝廷の伝統である「静謐の論理によって行動した」ことを表現するため「天下静謐」という用語を使うべきだ、、、とでもなるでしょうか。

信長の中世的な面は認めますが、それでは今度は「中世からはみ出した部分」、この越前攻めなどを十全に表現することができなくなります。

いやいや違う。信長はあくまで「幕府軍」として、義昭の委託を受けて行動していたのであり、やはり室町幕府の論理である「天下静謐」を使うべきだ。という反論もあるでしょう。

形式論としてはそうなのですが、そもそもその幕府の天下静謐行動そのものが、信長義昭期においては「主に直接の軍事行動」に「変質」していたのだから、幕府の「使用した用語」をそのまま踏襲することは間違いである。と私の見方ではそうなります。「軍事行動をしている集団の、自己正当化の論理、美辞麗句」を「そのまま」使っていいのか、ということです。

これは「天下静謐の信長」の言い出し人である学者さんへの疑義ではありません。そんな学問論争は私にはできないし、その方の本は素晴らしい。言い方が難しいのですが、純粋に用語の問題です。

ど素人の私の意見などどうでもいい。と当然私には分かっています。でも最近は「天下静謐」を使う人が増えていますから、私の意見など「蟷螂之斧」であっても、反対を表明する意味はあるな、ぐらいに思って書きました。

長篠の戦いの本当の凄さ

2020-12-10 | 織田信長
長篠の戦い、3段打ちについては、つまり3隊に分けた一斉射撃については「ほぼ否定」されています。

鉄砲の数は最低1000丁です。3000丁だった可能性もあります。

信長の本当の凄さは「それだけの鉄砲を調達した」「なまり玉を調達した」「火薬も調達した」点です。海外貿易を抑えたことによってそれが可能となりました。鉄砲は国産できましたが、「なまり」「火薬」は主に輸入であったからです。

終わり、、、、でもいいのですが、せっかくなので蛇足を書きます。

長篠の戦いの場合「3段打ち技法で、絶え間なく撃ったなんてことはない。そもそも防衛陣形であった。勝頼が突っ込んだのは偶然で、防御陣形をとっていたら、たまたま突撃してくれて、予想もしなかった成果が得られただけだ。信長の意図ではない。偶然だ。」

とこんな風に信長を捉える意見もあります。

「ちょっと待てください」です。

防御陣形は間違いありません。柵の中に閉じこもっていたわけです。しかし「たまたま突撃してくれた」にしても「多くの鉄砲と、なにより鉛玉、火薬がなければ」、この作戦は成功しないわけです。武田軍にも鉄砲はありましたが、玉と火薬を調達できないから、すぐ撃ち尽くしてしまったわけです。

「それだけの鉄砲を調達した」「なまり玉を調達した」「火薬も調達した」

堺を抑えることでそれは可能になりました。その点はきちんと評価すべきだと思うのです。信長を過大評価すべきではないけど、経済への着目はきちんと評価しないといけないと思います。

織田信長の「天下布武」の本当の意味

2020-06-23 | 織田信長
織田信長が美濃を攻略後1568年頃から使った「天下布武」の意味については、「従来は」こんな説明がなされてきました。

①「天下」は五畿内のことで日本全土ではない。
②「武」はほこをおさめる。つまり平和という意味である。
③または「武」は室町将軍の武威を表している。

織田信長については「その業績をなるべく小さい感じで表現しよう」というのが、最近の信長論の潮流です。

天下統一など狙っていなかった。五畿内を守ろうとしたら、その「外」と戦いになってしまい、それが全国統一戦争のように見えるというわけです。

これが「従来の説」です。

ぼちぼちこういう信長論にも、批判の声が出てきています。ちらほらという感じなのですが。

④まず「天下」は「地方との関係において天下」なのだ。
⑤信長の時代においても「天下」の意味は流動的に変化した。それを五畿内と限定していいのか。
⑥そもそも「室町将軍が支配すべき五畿内」という考え方でいいのか。実際は信長の時代、将軍は京都すらまともに支配していなかったではないか。

こんなところでしょうか。④がとても興味深いのですね。13代将軍、足利義輝のころ、つまり信長が生きた時代。義輝の畿内支配は空洞化していました。京から逃げ出すこともしばしばでした。

それを補うように、義輝は奥州や九州には積極的に「仲介の働きかけ」をしています。また九州の大友氏をはじめ、義輝に巨額の献金を行っている地方大名もいます。

「足利義輝の意識に照らして」考えれば、将軍の支配すべき領域、つまり天下とは「五畿内限定」ではないのです。上記のように日本全国を義輝は将軍が担当すべき領域と考えていました。

ですから天下は「将軍、室町幕府が担当すべき領域であった五畿内」という考え方は成立しないわけです。

天下の意味は秀吉時代になると日本全土を指すことが多くなっていきます。急にそうなったわけでなく、信長の行動に合わせて天下の意味は流動的に変化していったわけです。

なんだか「もっともらしい説明に見える」上記冒頭の①から③ですが、簡単に信じるのではなく、自分の頭で考えてみることが必要だと考えます。

足利義輝と朝廷・織田信長と朝廷・信長の画期的朝廷政策

2020-06-20 | 織田信長
最近は「戦国足利将軍はカイライではなかった」という学者さんの本が多くあります。別に「カイライであってほしい」とも思ってないし、足利義昭は傀儡じゃなかったから信長によって追放されるわけです。だからそれはいいというか、ここで反論する気はないのです。カイライか否か、それそのものは答えを出すほど重要な問題じゃないような気もします。

昨日、足利義輝さんに関する本を読んだのです。するとそこに義輝さんが、軍事的にも経済的にもそこそこ潤っていた。義輝の二条城なんてそりゃ立派なもんなんだという記述があったのです。

そこで「うん?」と思ったのですね。義輝さんがそういうご身分なら、どうして朝廷を援助しないのだろうと。そりゃ信長のように大金はたくのは無理としても、ちょっとは朝廷の権威回復に動いてもいい。

「嘘も多い」Wikipediaにこうあります。
諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。

これは事実なんでしょうか。こういうことになるとさっと訂正がはいるわけで、訂正されてないところを見ると、まんざら嘘でもないのでしょう。

信長は有名な「異見17条」の1条で「義輝は参内しなかったからあんな悲惨な最期を迎えたのだ。義昭さん、参内しなさい」と書いています。

☆義輝・義昭の二代に渡って、参内を怠っていたらしい。そこにどんな理由があるのだろう。信長が朝廷を尊重しても、肝心の義昭さんがそれをしなかったとすると、それは何故?という疑問が湧くわけです。

一方で織田信長は内裏の修理に「一万貫文」、約十億円を使ったと言われています。全部自腹ではないでしょうが。

信長以前には「最初の天下人とも言われることのある三好長慶」「その家臣である松永久秀」「そして将軍足利義輝」が京都にいたわけです。にもかかわらず、リフォームに十億もかかる状態になっても、内裏はいわば打ち捨てられた状態にあったことになる可能性があります。

信長の「中世的側面」を強調する場合「将軍家と天皇家を尊重した」とよく言われます。実際信長は尊重しています。しかし肝心の「中世的権威の親玉」である「将軍家」はさほど朝廷を尊重しているようには見えないわけです。義輝・義昭と。

これはどういうことなんだろう?信長は中世的だが、将軍家は中世を突き抜けていたということだろうか。

そして信長にしてからが、官位には興味がないようで上洛期の1568年から1574(または1575)年まで「ずっと弾正忠」のままです。その後右大臣になりますが、すぐ辞任で、本能寺段階では「さきの右大臣」のままです。

将軍家は朝廷に利用価値があるとは思っていなかったのかも知れません。しかし信長は朝廷には十分な利用価値があると考えた。そこでまず朝廷を復興した。しかし朝廷システムの中に入っていくことには非常に慎重であった。この朝廷の利用の仕方は、信長の画期的政策と言えるのかも知れません。


黒嶋敏 著「秀吉の武威、信長の武威」のおもしろさ① 「一次史料」の嘘

2020-06-17 | 織田信長
武威とは「武力を行使して人をつき従わせること、またその圧倒的な力」のことです。

黒嶋敏さんの「秀吉の武威、信長の武威」の副題は「天下人はいかに服属を迫るのか」という題です。

冒頭から秀吉や信長の「嘘ばっかりついて自分を大きく見せている手紙」が紹介されます。そういう種類の手紙等の分析を通して、「曖昧な惣無事令の再考」と「信長はどこまで達成したのか」を考えていくというのが筆者の狙いのようです。

内容自体も実に興味深いものです。

しかし私が感じたのは、ちょっと違うことです。あるいは「著者の狙い通りのこと」かも知れません。

ズラーと「嘘ばかりの文章」が並ぶのです。中には「嘘は少ない文章」も含まれます。ほとんどが「一次史料」です。

ここまで嘘ばかりの資料が並ぶと、自然に「当時の手紙は信じてはいけない」ということに気が付きます。と同時に「裏を読むことの大切さ」に気が付くのです。

筆者自身も「一次史料を裏読みをせず読むこと」や「一次史料のある部分をとりだして並べ、そこから史実なるものを作り出そうとする態度」について「その危うさ」を指摘しています。(あくまで私がそう感じたということです、これに近い叙述は存在します。筆者は一次史料のプロであり、史料から史実を再現することの大切さは強調しています。)

大変おもしろいと思いました。

織田信長の目指したもの・天下布武と天下静謐

2020-06-16 | 織田信長
織田信長は美濃を攻略すると「天下布武」の印章を用いるようになります。これについてはよくこう解説されます。
・天下とは五畿内のことで、日本全土ではない
・武とは「七徳の武」のことで、平和にするという意味(他の大名にそんなこと分かったのかな?という疑問はありますが)
・「天下布武」とは「五畿内を平和にするという意味」、これは室町将軍の当時のあり方を反映している。(室町将軍の支配地域は五畿内で、そこの安定を目指していた)

五畿内とは山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国のことです。ほぼ京都、大阪、奈良、兵庫の一部、、に相当します。

現代語の天下統一とは「日本全土の統一」でしょう。すると信長は天下統一なんて目指していなかったということになります。最後は目指したかも知れないが、少なくとも1568年段階では目指していなかった、これが最近の考え方です。信長の最期は1582年です。

では何を目指していたのか。それが「天下静謐」とされます。「せいしつ」と読む方がいるけど、おそらく「せいひつ」が正解でしょう。
天皇の代行者である将軍と信長が協力して五畿内の平和を守ること?なのかな。

谷口克広さんは「天下静謐意識」は徐々に変化して、1575年頃からは天下統一という意識を持ったと書いています。「信長の心中には明らかに全国統一のプランが芽生えていた」(織田信長の外交、211頁、2015年)

これは私なんかにはすんなりと納得できる意見なんですね。受け入れやすい意見です。ちなみに谷口さんは信長研究の大家です。

ところが「ずっと天下静謐だった」という方もいます。「あくまで五畿内の平和を目指していたが、結果的に周囲と抗争になってしまい、後から見るとそれが天下統一戦のように見える」という意見です。

金子拓さんなどが「史料をもとに」述べている意見で、それなりの根拠もあるのです。

ところが私なんかにはどうも納得できないのですね。私は素人なので学問的な問題ではなく、違和感という感じの意識です。「なんで天下静謐を目指しているのに、周囲と抗争が起きるのだ?」という根本的な部分がよく分からないのです。武田は好戦的ですから、向こうから攻撃してくるかも知れない。しかし毛利のように非好戦的な家は向こうから攻撃してこないし、実際、毛利輝元なんかは「戦になるかならないか、なったらどうすればいい」と考えたりしています。あと、五畿内ではない越前朝倉を真っ先に攻撃する信長をどう考えているのだろうとも思います。まあこれについては「天下静謐のために越前を攻撃した」と言われたりします。そういう風に、五畿内に属さない地域も、「積極的防衛によって攻撃する」なら、とても「天下静謐を目指していたとはいえない」ような気もするのです。つまりは違和感がどうにも大きいのです。金子拓さんの本では「信長が天下静謐のさまたげになるとみなした勢力を攻撃した」とかありますが、それなら「なんでもあり」ということになる。

信長が「天下静謐」という言葉を使っていたことは間違いありません。しかしどんな意味で使っていたのか。当事者の意識(表現)をそのまま用いて、それをあれこれと「過剰に深読み解釈」しすぎていないか。信長が使っていた言葉にしても、イデオロギー色が強い言葉をなんでわざわざ使うのか。そんな疑問が浮かぶのです。

これは素人の私の意見です。で、玄人はどう考えているのだろうと思うと、どうも「そうだそうだの大合唱状態」なんですね。体制翼賛会?谷口さんは除きます。学説は「批判があってこそ健全」だと思うのですが、それがなかった。金子さんの同僚である本郷和人さんは「本郷節」で疑問を呈しています(金子さん向けではなく)が、「本郷節」は面白いけど、苦言には意味があるけど、厳密な批判にはなっていません。

ところが、今日はじめて(素人の私がはじめてという意味)、「やや批判的」な本を見つけたのです。「やや」です。黒嶋敏さんの「秀吉の武威、信長の武威」という本です。金子さん、本郷さんと同じ東大の学者さんです。

批判ではないかな。ある意味信長を「買いかぶり過ぎだ」という意見のような気もします。「静謐」なんてそんな立派なこと考えてなかったというわけです。

引用226頁「静謐とは争いのない静かに落ち着いた状態だけではなく、そこから波及して守るべき秩序が遵守されることを意味する。けれど信長にとっては前者だけで「静謐」と表現した可能性が高く、平和な状態にしたあとの、社会の秩序や規範は現状維持とするだけで、その再建にはさほど興味をしめさなかったのではないだろうか。だとすると「天下静謐」もまた、彼にとっては戦争状態の対義語に過ぎず、自分の軍事的優位性を誇るだけのフレーズだったということになろう」引用終わり

黒嶋さんの見解では、信長の「像」を確定することはほとんど無理という状態であり、信長の自己規定を追うことはできない。非常に自由というか「空虚=フリー」な存在であって、だから人々が同時代においても「わたしが考える信長」を自由に規定できた部分があるのだとなります。(このまとめが合っているのか、後で訂正するかも知れません)

先の引用部分は「天下静謐といっても信長の場合は、(特に何も言ってはいないので)その具体的構想を史料分析から探ることは難しく、つまりは武威を誇るだけの言葉だよ」という意見でしょうか。こういう「批判」があるのはいいことだと思います。「天下静謐」について玄人の学者さんが、健全な批判を行ってくれることを期待しています。ただしその後、金子拓さんの説を読み返して、私が読み間違いをしていることに気がつきました。批判は天下静謐を「天皇の平和」と言い換えるような、政治色に満ちた歴史学者に向けられるべきで、金子さんは立派な学者だと思うようになっています。

織田信長と武田信玄が直接対決していたら。三方ヶ原の戦いのことなど。

2020-06-15 | 織田信長
昨日、織田信長の大家である谷口克広さんの「信長と家康の軍事同盟」という本を読んでいたのです。当然、三方ヶ原の戦いが出てきます。良質な資料というのは皆無らしいですね。

「武田信玄が生きていたら、織田信長などつぶされていた」と言われることがあります。谷口さんの見解だと「そんなことはない」そうです。

三方ヶ原の戦いは新暦だと1573年の1月です。この時信長の敵というと

・浅井朝倉、しかし信長軍は小谷城を囲む勢いで優勢
・本願寺、一向一揆、長島など
・松永久秀など

そこに武田信玄が2万以上の兵力で西上してくるわけです。西上って日本語、あるのでしょうか。とにかく西上です。

で、まず三方ヶ原の戦いで徳川軍+少しの織田軍がぶつかります。ここで徳川織田軍がコテンパンにやられるので、その後、信玄が生きていたら、ずっとコテンパンだったという推測が成立することになります。

「そんなことはない」と谷口さんは書いています。正直、そんなに詳しく分析はしていないのですが「当時織田には5万の動員力」があった。とした上で。

・上洛しようとすれば武田の兵站は伸び切って破綻してしまう。上洛は翌年という史料もあり、ここでは美濃岐阜において信長と対決しようとしたのだろうと推論します。

・しかし、頼りにしていた朝倉軍が冬を口実にというか、まあ冬になったので帰ってしまった。信玄は怒りの書状を朝倉義景に送ります。

さっき私が書いた「5万」という数字が、他の敵への備えを「差し引いた数字」なのかは、谷口さんの著書では分かりません。でも当然「差し引いた数字」なのでしょう。

その後、槙島城の戦いで織田は7万を動員しています。朝倉が引いた以上、浅井には抑えの軍勢だけでいい。本願寺に1万、松永等に1万。そう考えると、4万ほどを武田信玄との決戦に回せることになります。ちなみに三方ヶ原の戦いの戦いにおける織田軍の「あまりに少ない3千」については「監視」のための人数だろうと、谷口さんは書いています。

私が谷口さんの考えをちゃんとまとめているかは分かりません。私の能力の限界があるからです。だから「引用」の形で、そのままを書きます。

「織田軍は当時五万余の動員が可能である。数か月の遠征を経てきた二万余の武田軍では勝負になるまい。信玄もそれを承知していたから、朝倉・浅井軍に近江で牽制させようとした。また美濃の国衆安藤・遠藤にも働きかけた」123頁

とのことです。

なるほどな、信玄は「とても勝てない」という考えも成立するのだな、となんというか「面白いな」と思いました。過去の大河ドラマ等においても「信玄がそのまま西上したら織田はつぶれる」は常識になっていました。私自身は恥ずかしながらあまり深く考えたこともなく、「そうなんだろうな」と思っていました。「信玄はとても勝てない」と思ったことは一度もありませんでした。

織田信長は大きなデフォルメを持って描かれてきました。それは「神君家康」も同じです。また「神君家康がコテンパンにされたのだから武田信玄はものすごい武将だ」というデフォルメは、江戸時代から始まっています。それをよく知っている私でも三方ヶ原の戦いの様子を知れば「その後信長も苦戦しただろう」と考えるわけです。でも専門家である谷口さんの意見は「信玄は勝負にならない形で負け」ということです。生きていたとしても、朝倉が引いた時点で、甲斐へ引き上げを考えた、ということになるのでしょう。

むろん違う専門家は違う意見を出しているのでしょう。「兵力をどう計算するか」「裏切りを考慮するか」が問題となるでしょうね。ただし朝倉が引き上げた以上、鎧袖一触で「織田が敗ける」なんてことにはなりそうもありません。美濃なら信長は何年も戦えますが、遠征軍である武田はそうは行きません。そもそも谷口さんの考えでは、勝負にならない、織田の勝ち、ということです。

ここで「武田信玄がもし生きていたら」で検索をしてみたのです。なんと「別に変らない」「織田が勝つ」「信長が岐阜城に籠城して信玄は引き上げ」がかなり多数派という状況でした。

私がずっと間違っていたようです。「思い込み」というのは怖いもんだなと思います。私にとって日本史は趣味なので、間違っていてもそんなに恥ずかしくはありません。むしろ間違っていたことに気が付いて「おもしろいな」と感じています。趣味でやっていない本物の学者さんとか研究者さんは「きつい作業をしているな」と感じます。