1572年・元亀3・12月22日 三方ヶ原の戦い
1573年・元亀4、西暦8月から天正
1月 信玄、野田城を落とすも動きが鈍る→4月死去
義昭、一回目の挙兵
信長、義昭に和睦を申し出る・義昭拒否
2月24日 信長、足利義昭側の「砦」を攻撃
3月25日 信長岐阜から京へ出陣
3月29日 細川藤孝・荒木村重、信長側へ、吉田兼見に義昭の評判を聞く
4月3日 京都の郊外を焼く
4月4日 信長上洛して上京を焼く(義昭への脅し?)
旧二条城を包囲 義昭和睦に応じず。 上京、内裏の近くまで火か。正親町帝調停に乗り出す。
4月7日 関白二条晴良が和睦の使者に。義昭和睦に応じる
4月8日 信長、六角勢を掃討しつつ岐阜に帰陣
このころ武田信玄死去
5月15日 信長、佐和山に出向いて「大船造り」を命令 全長50m 岐阜から京に迅速に行くことが目的 7月5日に完成
7月3日 義昭二回目の挙兵 義昭は槙島城 三淵藤英は旧二条城
7月9日 信長京に入る
7月12日 三淵、旧二条城を明け渡す
7月18日 義昭、槙島城を開城 降伏の条件、義昭の子、義尋を差し出すこと 信長の兵力は5万から7万
義昭追放 義昭は一旦、三好義継の若江城へ→義昭帰京の為、毛利、安国寺恵瓊と秀吉が交渉→義昭、信長へ人質を要求して決裂→毛利へ→鞆へ
1、織田信長は「それでも幕府を残そうとしていた」のか。
最終局面で、信長が義昭の子である義尋を手元においたことから、幕府再興説が存在します。義尋はのち僧となります。義尋を将軍にするという「動き」はなく、旧二条城は破却されます。
2、織田信長は何故上京を焼いたのか。
京の半分を焼き払うというのは、脅しにしては過剰です。義昭の威信を傷つけるためでしょうか。上京はもともと信長に反意があったとも言われます。下京は「焼かなかった」という理由で後、金をとられています。
帝の御所は焼きませんでしたが、帝のおひざ元である京を焼く。正親町帝にとってこれは「いつものこと」なのか「不快なこと」なのか。調べてみようと思っています。
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