ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“Just one more thing.”

2011-07-18 11:30:06 | トピック
タイトルのセリフが口癖だった『刑事コロンボ』。
コロンボ警部を演じたピーター・フォークさん、先月83歳で亡くなられましたね。
近年、コロンボ警部の口癖を題名にした回想録を出版されていたようです。



私は昔から探偵もの、犯罪もの、推理ものが大好きだったので、土曜の夜にNHKで放映されていた『刑事コロンボ』ももちろん夢中で見ていました。
小池朝雄さんの吹き替えがイメージにぴったりだったなぁ。
昨夏は、最初のシリーズの DVD Box Set も買っちゃいました。惜しんでゆっくり見ているので、まだ見終わっていません。

      

フォークさんを偲んで、経歴をネットで調べてみました。(私めのゆる~い意訳なので、ゆる~く信じるにとどめてくださいますよう 


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ピーター・フォークは、1927年9月16日、ロシア系ユダヤ人の父とポーランド系ユダヤ人の母の間にニューヨークで生まれる。
父親は衣料品と乾物の店のオーナー、母親は会計係兼バイヤーだった。
3歳のとき悪性腫瘍のため右目を摘出、以降は義眼をつけるようになる。
片目のハンデにもめげず、少年時代は野球やバスケットに打ち込み、学業成績も優秀だった。
「片目だって皆と同じようにやれるんだって証明したかったんだ」
高校時代、野球の試合中、審判に3塁でアウトにされた。絶対にセーフだったと信じていたので、頭にきたフォークは義眼を取り出して審判に“Try this.”と突きつけ、喝采をうけた。
両親は一人っ子のフォークが店を継ぐものと思っていた。フォークも「片目を失っていなかったら、多分そうしていただろう」

学校で劇『ペンザンスの海賊』を上演したとき、初めてステージに立った。12歳だった。
高校時代は花形の陸上選手で、クラス委員長も勤めた。
高校卒業後、第二次大戦が終わりつつあった当時の海兵隊に入隊を志願したが、義眼を理由に拒否されたため、コック兼伝言係として商船に乗り、ヨーロッパや南米を1年半航海した。(3年という説もあり。)
船での生活に飽きたので船を降り、何をしたいのかわからないままカレッジや大学に通い学位も取った。
その後ヨーロッパに渡り、ユーゴスラビアの鉄道で半年働いたりもした。
ニューヨークに戻ったが、取得した学位を活かせる仕事には興味が持てず、CIAに求職したが、商船時代に組合に加入していたためあっさり拒否された。
その後コネチカット州都ハートフォードの州予算局で経営アナリストとしての仕事を得る。
フォークによると、仕事の内容は『効率のエキスパート』であること。
「あまりに効率のエキスパートだったものだから、仕事に行くべき建物を見つけられなかったんだ」とフォーク。
「当然遅れてしまってね。この悪癖は今でも直らないが、皮肉なことにこの悪癖のおかげだったんだ。プロの俳優になれたのは」

覚えてますか? コロンボの愛犬の“Dog”。
 

たまにしか出てこないけど、いい味出してましたよね~ 名コンビでした。
 

ハートフォードでフォークは演じることに興味を持ち、地元の演劇グループに入会し、ステージに立つようになる。
著名なエヴァ・ル・ガリエン(Eva Le Gallienne, 1899-1991)がコネチカット州ウエストポートで開いていたクラスで演技も学んだ。
これはプロのためのクラスだったので、フォークはプロだと嘘をついてクラスに入ったという。
クラスに出席するため、毎週水曜日、フォークはハートフォードからウエストポートまで通わなければならず、いつも遅れていた。
(ネットで調べたら、2つの町の間の距離は102km、所要時間は1時間27分。)

「ある晩遅れて到着したら、エヴァが私に『あなた、なぜいつも遅れるの?』と訊くんだ。
『ハートフォードから運転してこなければならないからです』と答えたら、エヴァは『ハートフォードで何をしているの?あそこに劇場はないじゃないの』と」。
フォークがじつはプロではないことを告白すると、エヴァは厳しい表情でフォークを見つめて言った。
「あなたはプロになるべきよ」。
フォークはハートフォードに戻って、辞職を願い出た。

*別の情報源ではこのあたりのいきさつがやや異なるので、そちらも紹介しておきます*
演じることに興味を持ち、地元の演劇グループに入ってステージに立つようになったフォーク。
ある日フォークは、仕事でエヴァが所有していた劇場を訪れる。エヴァはフォークを、俳優になるよう説得する。
「もちろんプロの役者になってみたかったさ。でもこわかったんだ。俳優は皆、天才に見えたから。
だがカフェテリアで彼らが話しているのを聞いたとき、(なんだ、彼らだって自分とまったく同じじゃないか。だったら自分にもできるぞ)と思えたんだ」

エヴァから推薦状をもらったフォークはニューヨークに出、1956年、29歳になる年にブロードウェーにデビュー。徐々に名声を高めていく。
が、フォークは劇場のエージェントに「片目が義眼だから映画やテレビ出演は期待しないほうがいい」と言われる。
実際コロンビア映画のスクリーン・テストに落ち、その際スタジオ責任者に「同じ出演料を払うなら、両目をもってる役者をとるさ」と言われた。
2、3の映画に端役で出演したのち、1930年代の実話を基にした『殺人会社』(1960年)で殺し屋を演じて高く評価され、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。
この映画はフォークにとって大きな転機となった。
フォーク自身、「オフ・ブロードウェイにいる何千の俳優の中からあの役をもらえたのは奇跡だった」と回想している。

翌年、3回アカデミー賞を獲得した名監督フランク・キャプラに起用され、コメディー映画『ポケット一杯の幸福』に出演。
キャプラ監督の最後の長編映画となったこの映画は商業的には成功しなかったものの、フォークは監督に絶賛され、2年連続で助演男優賞にノミネートもされた。
1960年代の残りをフォークは、映画の端役やテレビ出演をして費やす。
1962年には『トマトの値段』のトラック運転手役でエミー賞主演男優賞を受賞。
1965年から66年にかけて、最初のテレビシリーズ『オブライエンの裁判』で法律家を演じたが、これは22回で打ち切りとなった。
このシリーズで演じた、髪はぼさぼさだが優秀な法廷弁護士ダニエル・オブライエンの演技が、その後の『コロンボ』出演に繋がることになる。

コロンボのキャラクターは、脚本家ウィリアム・リンクによって生み出された。
ドストエフスキーの『罪と罰』に登場する予審判事ペトローヴィチと、チェスタートンが創造した探偵ブラウン神父がモデルだそうだ。
コロンボは1960年、TVシリーズ The Chevy Mystery Show の“Enough Rope”というエピソードに初めて登場する。コロンボを演じたのはバート・フリード。
このエピソードが1962年に“Prescription: Murder”(殺人処方箋)というブロードウェイの舞台劇になり、トーマス・ミッチェル(1892-1962)がコロンボを演じた。
『殺人処方箋』は1968年にTV映画として製作されることになったが、トーマス・ミッチェルが既に亡くなっていたためコロンボ役に別の俳優を探さなければならなかった。
第一候補だったビング・クロスビーは、コロンボ役を断ってきた。
監督のリチャード・アーヴィングは脚本家でありプロデューサーでもあったウィリアム・リンクとリチャード・レヴィンソンを説得してフォークを起用。
フォークは、弁護士や刑事といった決まった役柄にイメージが定着するのを恐れ、初めはコロンボを演じることに乗り気でなかったという。
TV映画『殺人処方箋』の成功により、NBCテレビはTVシリーズのパイロット版としてもう一作をリクエスト。
1971年に“Ransom For a Dead Man”(死者の身代金)が製作された。
2作目も大成功を収めたため、1971年秋から『刑事コロンボ』はシリーズ化され、第1作“Murder by the Book”(構想の死角)は若き日のスティーブン・スピルバーグによって監督された。

『刑事コロンボ』はまたたく間に人気シリーズとなり、世界中で放映されるようになり、フォークはテレビ界のアカデミー賞と言われるエミー賞を4回受賞した。
トレードマークとなったレインコートを含むコロンボの衣装は、すべてフォーク自身によって用意されたもの。
メモ帳を探してポケットを探ったり、ペンがなくて鉛筆を借りたり、何の関連もないことに気を取られたり、全然関係ない方向に会話を脱線させたりなどのコロンボの習癖は、フォークがアドリブで加えたそうである。共演者が緊張から落ち着かない反応をすることにより、場面がよりリアルになると信じたため。
旧シリーズ(NBCテレビ)は1968年から1978年まで、新シリーズ(ABCテレビ)は1989年から2003年まで放映された。
コロンボを演じ続けるかたわら、フォークは映画とテレビで活躍を続けた。

私生活では、大学で知り合ったアリス・メイヨーと1960年に結婚、キャサリンとジャッキーを養女に迎えた。
メイヨーと1976年に離婚したフォークは、翌年『コロンボ』での共演で知り合った22歳年下の女優シーラ・ダニーズと再婚。
フォークとシーラの結婚生活はけんかと和解の繰り返しで、ビバリーヒルズでは“Fighting Falks”として知られていたという。

フォークとシーラ(下左)と、フォークとキャサリン(下右)。
 

2009年6月に、フォークの妻シーラと長女キャサリンの間でフォークの後見人係争の審問があり、主治医によってフォークは認知症を患っていると報告される。
2007年にフォークはいくつかの歯科手術を受けたが、その頃から目に見えて認知症が悪化したという。が、麻酔や手術の過程が影響したものかは明らかになっていない。
主治医は、フォークは認知症のためコロンボというキャラクターを演じたことももう覚えていないと証言。

「継母が父に会わせてすらくれない」と主張するキャサリン。一方シーラによると、「キャサリンは近年ピーターと疎遠になっていて、会うといつも言い争いになっていた」。
審問の結果、妻のシーラが後見人に任命された。
キャサリンは「近所の友人宅で」、「隔月」、「第三者の立ち合いのもと」、「シーラ抜きで」、「一回につき30分」の面会を許されることになった。

フォークは2011年6月23日に、24時間介護のため改装されたビバリー・ヒルズの自宅で、肺炎を伴った心臓麻痺により83歳で亡くなった。

ロサンゼルス市警殺人課の警部だったコロンボ。
ロス市警は、「フォークさんの悲報を聞き、同僚を亡くしたような気分です。コロンボ警部が我々と関係があったことを誇りに思います。フォークさんのご家族に心からお悔やみを申し上げます。彼はテレビで演じられた最も偉大な警官のうちの一人でした。彼のような警官は二度と現れないでしょう」というコメントを発表した。


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『コロンボ』を夢中で見ていたのは、中学生の頃。
今やその私が、コロンボを演じていたピーター・フォークさんの年齢に追いつき、追い越してしまいました。
(おじさんだなぁ~)と思っていたのに 

フォークさんは絵を描くことにも興味があったそうです。そういえば映画『ベルリン・天使の詩』の中にも、スケッチをする場面がありました。
フォークさんが描いた絵は、こちらのARTのページで見ることができます。

『コロンボ』で世界中を楽しませてくれてありがとう。

ピーター・フォークさんのご冥福をお祈りします。・・・


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