ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ジェネラル・スローカム号の火災事故

2020-07-11 23:16:40 | 事故

“腸チフスのメアリー”についていろいろ読んでいて、彼女が隔離されていたノース・ブラザー島を巻き込んだ

大事故があったことを学んだので、今回はそれについて書きます。

事故があったのは1904年でしたから、メアリーさんが最初に隔離される3年前だったことになりますね。

 

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1904年6月15日は、好天に恵まれた水曜日だった。

マンハッタンのリトル・ジャーマニー(Little Germany: ドイツ系住民居住地区)にある聖マーク・ルター派教会のサンデー・スクールに通う子供たちは、親や教師に伴われ、ロング・アイランドのイートンズ・ネック(Eatons Neck)にあるピクニック・サイトで、昼食を取ったりゲームをしたりして楽しい一日を過ごす予定だった。

ニューヨーク湾を遊覧するスローカム号

 

 

 

1887年以来毎年恒例になっていたこのピクニックを計画したのは、ジョージ・ハース牧師。彼は1891年に進水した木造の外輪船ジェネラル・スローカム号(以下スローカム号)を、350ドルでチャーターしていた。日曜日用の一番良い服を着込んだ親子と付き添いの大人たちは、ロウアー・マンハッタンでスローカム号に乗船。乗客乗員合わせて1342名(異なる情報もあり)を乗せた全長80mのスローカム号は、午前9時半、ロング・アイランド湾に向けてイースト川の北上を開始した。ドイツとアメリカの明るく楽しげな音楽が流れ、三階建てになった甲板で子供たちは遊び、女性たちは日差しを楽しみながらおしゃべりに花を咲かせ、数少ない男性たちはバーの辺りでくつろいだ。船からは音楽と笑い声と楽しげな話し声が溢れ、岸の人々は過ぎ行く船に手を振った。

ハース牧師とヴァン・シャイック船長

        

ウィリアム・H・ヴァン・シャイック船長は、13年前の進水以来ずっとスローカム号の舵をとってきた。“ニューヨーク一大きく豪華な遊覧船”と謳われたスローカム号だったが、じつは過去13年間に6回座礁し、4回衝突事故を起こしていた。そのどれもが大きな事故ではなかったため調査が入ることはなく、船長のミスも表沙汰にはならなかったが、スローカム号のオーナーは船長のミスを認知しており、60代も半ばを過ぎた船長は隠退すべきときが近づいているというのが陰での噂だった。船の安全検査も手ぬるく、5週間ほど前に行われた検査では、スローカム号は『状態良好』とされた。検査官ヘンリー・ランドバーグは亀裂が入った救命ベルトをちらりとしか調べず、機能していないバルブは無視し、頭上より高い位置に収納されていた救命ボートと消火ホースは調査すらしなかった。なお悪いことに、甲板員のダン・オニールは前夜、火災予防規則に違反して緩衝材用の干し草が詰まった複数の樽を、可燃貨物(油脂を含む)と一緒に船体下部のランプ・ルーム(石油ランプなどの可燃物が収納されている)に積載していた。

 

出火の原因はおそらく、誰かが不用心に投げ捨てたマッチの燃えさしか煙草の吸殻と思われる。出航から30分ほどが過ぎ、スローカム号が左岸に東90番街を通過する頃、12歳のフランキー・ペディツキーが甲板員のジョン・コークリーに、「階段前にある扉の後ろから煙が出ている」と報告した。コークリーは少年を口止めして追い払ったが、念のため確認に行った。コークリーがランプ・ルームの扉を開けると、それがくすぶっていた干し草に酸素を供給してしまい、炎が上がった。コークリーは炎めがけて2袋の木炭を投げつけると、扉を開け放したまま助けを呼びに行ったが、そのため炎は拡大した。フランキー少年は「火事だ!火事だ!」と叫びながらトップ・デッキを走ったが、注意を払う大人はいなかった。その頃までには炎はエンジン・ルームにまで広がっていた。消火ホースが持ち出されたが、古くなり劣化していたホースは水圧で破裂しただけだった。

検死法廷で証言するジョン・コークリー

下甲板に広がった火災は積載されていた油脂、オイル・ランプやペンキの箱に燃え移って勢いを増し、上甲板へと広がっていった。コークリーが火を消そうと必死になっていた頃、別の少年がヴァン・シャイック船長に火事を急報。しかし船長は、いたずらと決め込んで少年を追い返した。船長自身が煙に気づいたときには、火災は止めようもないほど広がっていた。

 

ここで船長は、のちに非難を浴びることになる決断をする。その頃スローカム号は、狭いうえに海流が渦巻くことで知られる難所“ヘル・ゲイト”を通過中だったため、数百メートルしか離れていない川岸に接岸する代わりに、2マイル以上先にあるノース・ブラザー島まで全速で航行することにしたのだ。“ヘル・ゲイト”の舵取りは難しく接岸は困難なうえ、その辺りの川岸には材木置き場や石油タンクやガス・プラントや木造家屋が並んでいたため、引火を怖れたというのがその理由だった。ノース・ブラザー島まではものの数分しかかからなかったが、全速航行が火災を煽り拡大させたため、乗客たちの大多数に死をもたらす数分となった。驚きおののく人々が岸辺から見守る中、スローカム号は巨大な炎を上げながら航行を続けた。恐怖にパニックした乗客の多くが迫り来る炎から逃れようと我先に水中に飛び込んだが、当時の都市部住民には泳げる人間は少なく、衣服は厚く重かったため、その多くが溺死、あるいは回りつづける外輪に巻き込まれて死亡した。

乗員は火災に対処するための訓練を受けておらず、人命救助用具は古く、役に立たない状態にあった。救命ボートはワイヤーで船体にしっかりとくくりつけられており、外すことすらできなかった。後日「救命ボートは装備されているように見せかけるための、壁に描かれた絵にすぎなかった」と証言する生存者も複数いた。消火ホースは使おうとしたら破裂し、過去13年間日光と風雨にさらされていた救命浮き輪はボロボロで、水面に浮かぶ代わりに重石となって遭難者を水中に沈ませた。救命浮き輪や救命胴衣にはコルクの大きな塊が詰まっているはずだったが、製造者はコストを抑えるため、塊の代わりに粒状になったコルク(塊より安いが浮力で劣る)を詰めていたことがのちに判明した。さらには製品検査に合格するために必要とされる重さに達するよう、鉄くずまで入れられていた(当時は鉄よりコルクの方が高価だった)。救命胴衣を着けた我が子を水中に下ろした母親は、我が子が水面下に消えるという怖ろしい光景を目にした。

爆発的な火炎を上げてから4分後の午前10時10分、スローカム号はノース・ブラザー島に接岸したが、上部構造は崩落し、数百人の乗客が真下に迫っていた炎の中へと落下した。10時20分までにスローカム号は炎によって壊滅され、灼熱にくすぶる骨組だけになり、正午を過ぎてまもなく、まだ船体内に死亡した、あるいは瀕死の乗客を抱えたまま、沈没した。

  

スローカム号の残骸はのちに引き揚げられ、“メアリーランド”という名の荷船として使われたが、石炭を輸送中だった1911年12月4日、嵐の最中にニュージャージー州沖で大西洋に沈没した。4名の船員は全員救助され無事だった。

  

スローカム号火災の報が入るや否や消火艇が現場に急行したが、同号が全速力で航行を続けたため消火作業は困難を極めた。公有・私有にかかわらずあらゆる舟艇が、生存者の救助と遺体の収容作業にあたった。一人の警官は、自らが溺れる前に11人の乗客を川から救い出した。ノース・ブラザー島のリバーサイド病院からは、医者や看護師のみならず軽症の患者までもが岸辺に駆けつけ、ロープを結びつけた梯子を投げたり人間の鎖を作るなどして生存者の救出に尽力した。メアリー・マッカーンは患者のうちのひとりで、当時は猩紅(しょうこう)熱とはしかからほぼ回復し、病棟で助手を務めていた。泳ぐことができた彼女は4度川に飛び込み、その都度生存者を救助した。18歳の看護師ポーリーン・フーツも泳げたため、5人の子供を救助した。が、最後の救助の際は、パニックした女性に掴まれて危うく自らも溺れるところだった。「子供を助けようと必死でした。女性たちも助けたかったけれど、私の最優先は子供たちを岸へと連れ戻ることでした。パニックした女性に掴まれて、私も溺れそうになって・・・あれほど興奮していなかったら、彼女のことも救えたかもしれないのですが・・・。」

生存者の中にも、救出作業に力を貸した者がいた。母親と祖母の遺体を岸に引きずり上げた18歳のチャールズ・シュヴァルツJr.の胸は、悲しみと絶望で張り裂けそうだった。が・・・「川に目をやったら、まだ助かりそうな男性、女性、子供たちがいるのが見えたんだ。」ボートを借りて川に戻ったチャールズは、22人の救出に成功した。「近寄れそうな位置に生存者が見えたら、水に飛び込んでボートに助け上げた。彼らの多くが僕につかみかかってきたけど、引きずり込まれるのを避ける程度に距離を置くことができた。時には水中深くから、足首を引っぱられた。あらゆる方向から手が伸びてきて僕をつかみ、頭上では火が燃え盛っていた。僕がもっと強くてもっと大勢を助けられていたら良かったのに・・・。」

ノース・ブラザー島近くで自分のタグボート上にいた当時41歳のジョン・L・ウェード船長は、スローカム号へと急行し、自分の乗員たちとともに水に飛び込み、溺れる人々を救助した。自らも火傷を負い、終いにはタグボートを延焼で失いつつも、彼のタグボートによって155人が岸へと搬送された。彼は遺体の引き上げ作業に協力し、遺族のための救済募金も立ち上げた。遺族たちは遺族たちで、ウェード船長のタグボートの修繕費をもつことを申し出たが、ウェードはそれを断り、遺族が差し出したお金も救済基金に加えた。彼はその英雄的行為を讃えられ、1906年に名誉勲章を授与された。1922年10月12日に心臓疾患のため死去した(享年59歳)。

 

  

生存者は少なかったが、驚いたことに、何人かの乳児が生き延びた。生後6ヶ月だったアデラ・リーベノヴ(のちのウォザースプーン)は、母親が海に飛び込んだため助かった。彼女の母親も助かったものの、生涯残る傷を負った。アデラの二人の姉(6歳と3歳)は死亡した。アデラの父親ポールも生き延びたが、二人の娘、二人の姉妹、二人の姪と一人の甥を失った精神的打撃は大きかった。健康を回復しないまま、ポールは5年半後の1910年1月30日に38歳で死亡した。

生後10ヶ月だったチャールズ・デビットは、奇跡的に負傷することなく浜辺に漂着し、病院で3日間手当てされたあと祖母に身元を確認された。

11歳のウィリー・ケップラーは、海に飛び込んだあとのことをこう語った。「一度に20人くらいが飛び込んで、その上にまた20人が飛び込んだ。誰もがお互いの頭や腕を掴み合おうとして、泳げる人は引きずり込まれ、浮かび上がるために必死で戦うようだった。」ウィリー少年は両親の許可を得ずにスローカム号に乗り込んだため、叱られることを怖れてその日は帰宅しなかった。翌日新聞に『行方不明者』として自分が挙げられているのを見た彼は、「母さんを悲しみにくれさせる代わりにハグしてもらおうと家に帰ることにしたんだ。家に戻ると母さんは僕にキスし、父さんは泳ぎ上手だったことのご褒美に半ドルをくれたよ」。

ピクニックを手配したハース牧師(50歳)自身は妹(30歳)とともに生き延びたものの、妻(46歳)と娘(13歳)を失った。妻の妹(31歳)とその息子(3歳)も死亡した。ヴァン・シャイック船長も助かり、30名(40名という情報もあり)いた乗員も4名(5名という情報もあり)以外は全員助かった。合計で321名(推定)がこの災厄を生き延びた。

正確な死者数は不明で、推定死者数は1021名(異なる情報もあり)とされている。その大多数が女性と子供だった。

  

救助作業は遺体の回収作業へと変わり、遺体はノース・ブラザー島やイースト川の岸辺に一時的に並べられた。鉄道会社から借りた強力なライトを使って夜を徹して作業が続けられた。回収された遺体は写真を撮られ、札をつけられ、貴重品は袋に入れられ、遺体安置所へと送られた。広大な遺体安置所が必要になることは明らかだったため、東26番街のチャリティーズ桟橋にあった大きな建物が仮の遺体安置所になった。生き延びた者たちやピクニックに家族を送り出した者たちは、愛する者の消息を求めて病院や遺体安置所を必死に訪ねまわった。

 

妻を、息子を、娘を失った男たちが残され、新聞には、『父親によって身元確認』 『兄(弟)によって身元確認』 『夫によって身元確認』された女性や子供の氏名が延々と続いた。全員が死亡した家族もあった。

  

毛布をまとう生残者(下左)

 

  

  

焦げた遺体は棺に収容され氷詰めにされ、棺の間を悲しみに打ちひしがれる父親たちが、休むことなくさまよい歩いた。遺体安置所を巡回する警官たちも涙を禁じ得なかったが、遺族の中には悲嘆のあまり隣接する桟橋から水中に飛び込もうとするものも絶えなかったため、常に警戒していなければならなかった。自分以外の家族全員を失った人々のうち数名が、絶望のあまりその後自ら命を絶った。

水深29mの海底に沈没したスローカム号の残骸には160以上の遺体が囚われたままになっていると考えられたため、ダイナマイトを使ってリリースすることまで試みられたようですね。

 

事故の犠牲者はその人口の1%にも満たなかったものの、事故前にすでに衰退の兆しを見せていたリトル・ジャーマニーは、この悲劇に打ちのめされた。遺族の中には、ニューヨーク市の別の地域に引越すものがあった。あるいはアメリカを離れ、ドイツに戻ったものもあった。二度の世界大戦に起因する反ドイツ感情によってリトル・ジャーマニーは消滅し、ロシア人とポーランド人、やがてはユダヤ系の移民たちが、リトル・ジャーマニーがあった地域を徐々に埋めていった。聖マーク・ルター派教会は改装され、1940年からユダヤ人のためのシナゴーグ(住所: 325 East 6th Street)となっている。

   

 

下にスローカム号の悲劇についての詳しいサイトを貼っておきます。私もまだざっとしか読めていないので。

THE GENERAL SLOCUM - Gare Maritime

GENERAL SLOCUM DISASTER - maggieblanck.com

こちらは、リトル・ジャーマニーについての詳しいサイト。画像も多く、興味深いです。

Kleindeutschland and the Lower East Side, Manhattan - Streets - maggieblanck.com

 

昔のことでしたから写真が残っている犠牲者は少ないですが、その少ない写真からも、家族が生と死に引き裂かれたのがわかります。

      

犠牲者の一部の葬儀

 

スローカム号の悲劇的な火災事故後、同船を所有し運行させていたニッカーボッカー汽船会社の重役たち、スローカム号を調査し合格させていたランドバーグ検査官、ヴァン・シャイック船長などが逮捕された。しかし驚いたことに、最終的には船長のみが、この悲劇において唯一罪に問われた。彼は『火事避難訓練を怠り、乗員を適切に訓練することを怠り、火災に対処するに必要な装置を装備することを怠った』かどで起訴された。安全管理関連の記録を改ざんしていたと思われる汽船会社は少額の罰金を支払っただけで済み、救命浮き輪や胴衣に鉄棒を挿入していた業者は罪にすら問われなかった。10年の刑を宣告された船長に、同情を寄せる人々も少なくなかった。その多くは、安全管理に無関心だった船舶会社や公務員であるにもかかわらずきちんと調査をしなかった船舶調査官も責められるべきであり、船長はスケープゴートにされたと感じた。そのおかげで船長の妻は20万を超える減刑嘆願の署名を集めることができたが、ルーズベルト大統領が減刑に同意しなかったため、当時70歳の船長は1908年2月8日、悪名高いシンシン刑務所に収監された。

 

ヴァン・シャイック船長は事故で片目を失明し両脚に火傷を負ったそうです。下の記事には、船長は『ストレッチャーに載せられて検死法廷に出廷したが、体がまだ弱すぎて証言できず病院に戻された』、『100通以上の脅迫状を受け取った』、とのこと。『乗員によると、彼は自分にしか救命胴衣を装着しなかった』ともありますが、この【彼】が船長を指すのか、それとも乗員自身を指すのかがちょっとはっきりしないような???もし船長を指すのだとしたら、呆れて物が言えません!

ルーズベルトの後継者であるタフト大統領は、ルーズベルトとは考えを異にしていた。彼は、責められるべきは他にもおり、ヴァン・シャイックひとりを罪に問うのは不公平だと感じていた。1912年12月19日、4年10ヶ月(3年半という情報も)を獄中で過ごしたあと、恩赦によりヴァン・シャイックは釈放された。彼は1927年12月8日に、90歳でこの世を去った。

犠牲者のうち900人以上が、ロング・アイランドのミドル・ヴィレッジ墓地に埋葬された。そのうち61人は、身元不明のまま合同で埋葬された。事故の翌年、同墓地に慰霊碑が建立された。1903年11月28日に生まれ、事故当時に生後6ヶ月で最年少生残者となったアデラ・リーベノヴは、そのときようやく1歳半。約一万人が瞳を潤ませて見守る中、腕にお人形を抱えたアデラが、慰霊碑を除幕した。彼女はスローカム号の火災事故で6歳と3歳の姉を失ったが、6歳の姉の遺体は確認されることなく(損壊が激しすぎた?)身元不明者の一人として葬られたと思われる。アデラは教師になり、結婚し、夫とともにニュージャージーに住み、未亡人になり、2004年1月26日に100歳でこの世を去った。ここでは毎年、犠牲者のためのメモリアル・サービスが行われる。

     

  

1906年にもスローカム号犠牲者慰霊のための噴水が、かつて“リトル・ジャーマニー”の一部であったトンプキンズ・スクエア公園の北寄りに建立された。

 

1021名(推定)が死亡したこの事故は、9/11が起きるまでの100年近くの間、ニューヨーク最悪の災厄(疫病・自然災害を除く)だった。海難事故としては現在もニューヨーク最悪、米国全体でもサルタナにつづいて2番目に最悪の惨事である。しかしながら、10年後に第一次世界大戦が勃発すると、犠牲者の大多数がドイツ系住民だったこの事故が言及されることは少なくなった。スローカム号の8年後に沈没したタイタニック号が世界的に有名であるのとは対照的に、現在でもこの事故について知る人は少ない。

 

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ということで、私も知りませんでした。ニューヨークでこんなにひどい船舶火災事故があったなんて。犠牲者の大半が女性と子供だったというのも、悲しすぎます・・・。私はニューヨークは全然知らないので、位置を確認。(は私が敬愛するサリー機長が1549便を着水させた地点です。)

下は、ヴァン・シャイック船長が取ったとされる航路。

 

ランドールズ島とワーズ島は、現在は埋め立てられて陸続きになっているんですね。ヘルゲイト橋からノース・ブラザー島まで、せいぜい2.5kmしかなかったようです。が、その2.5kmを航行するための数分が、多くの人々にとって命取りになりました。

 

腸チフスのメアリーさんのおかげで、それまで聞いたこともなかったスローカム号の悲惨な事故についても知ることができました。

学科としての社会科は苦手でしたが、個々の事故や事件について知ることは好きなので、興味深かったです。

スローカム号の大きな犠牲がその後教訓として活かされたことを願いつつ、

犠牲者のご冥福をお祈りします。

 

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