小島地区は、本庄市役所の西北西約3kmのところ
本庄市役所西側の駅前通りを北へ出ます、約500mの「本庄警察署入口」信号を左(西北西)へ国道17号線です
約2.5kmの「万年寺」信号を右(北北東)へ入ります
約200mを左(西北西)へ、また約100mの農業ビニールハウスの間を右へ入ります
間も無く左手に鳥居が見えました、智方神社が東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
智方神社境内です、鳥居の後ろ側に大きな幹が見えました
智方神社の社號標です
東側から注連縄の巻かれた御神木です
中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためか「ガチャベルト」で締められています
西側から、洞も金網で覆われています、目通り幹囲6.5mの巨木です
南側から、上部の太い枝も伐り払われていました
拝殿前から見ました
拝殿です
本殿覆い屋です
説明版です
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
智方神社 御由緒
本庄市小島179
▢御縁起(歴史)
聖護院門跡道興が、「廻国雑記」に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ爰に おしまか原を きてとへは わか松しまは 程そ遥けき」と詠んだのは、文明18年(1486)のことであった。
この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。
それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江戸時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白弊の弊串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
「風土記稿」小島村の項ない、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。
字の名称の起こりにもなっている万年寺については、「風土記稿」にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。
▢御祭神と御神徳
・天児屋根命・・・・・家内安全・巣村繁栄
▢御祭日
・春祭り(4月2、3日) ・天王様(7月15日) ・大祓式(7月20日) ・秋の大祭(11月2,3日) ・奉告祭(12月5日)
新築記念碑です
当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である、千方修理太夫を祀った社と考えられる。
また藤原の租、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢7・8百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。
此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年10月に斎行された伊勢神宮第61回式年遷宮を奉祝記念とし建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。
平成6年5月吉日
智方神社宮司 梅林 肇 謹文
境内には石祠が並びます
境内北西端に御嶽神社です
御嶽神社遷座記念碑です
六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年3月27日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林139の1番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。
平成2年9月吉日 智方神社宮司 梅林 肇
では、次へ行きましょう
本庄市役所西側の駅前通りを北へ出ます、約500mの「本庄警察署入口」信号を左(西北西)へ国道17号線です
約2.5kmの「万年寺」信号を右(北北東)へ入ります
約200mを左(西北西)へ、また約100mの農業ビニールハウスの間を右へ入ります
間も無く左手に鳥居が見えました、智方神社が東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
智方神社境内です、鳥居の後ろ側に大きな幹が見えました
智方神社の社號標です
東側から注連縄の巻かれた御神木です
中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためか「ガチャベルト」で締められています
西側から、洞も金網で覆われています、目通り幹囲6.5mの巨木です
南側から、上部の太い枝も伐り払われていました
拝殿前から見ました
拝殿です
本殿覆い屋です
説明版です
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
智方神社 御由緒
本庄市小島179
▢御縁起(歴史)
聖護院門跡道興が、「廻国雑記」に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ爰に おしまか原を きてとへは わか松しまは 程そ遥けき」と詠んだのは、文明18年(1486)のことであった。
この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。
それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江戸時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白弊の弊串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
「風土記稿」小島村の項ない、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。
字の名称の起こりにもなっている万年寺については、「風土記稿」にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。
▢御祭神と御神徳
・天児屋根命・・・・・家内安全・巣村繁栄
▢御祭日
・春祭り(4月2、3日) ・天王様(7月15日) ・大祓式(7月20日) ・秋の大祭(11月2,3日) ・奉告祭(12月5日)
新築記念碑です
当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である、千方修理太夫を祀った社と考えられる。
また藤原の租、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢7・8百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。
此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年10月に斎行された伊勢神宮第61回式年遷宮を奉祝記念とし建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。
平成6年5月吉日
智方神社宮司 梅林 肇 謹文
境内には石祠が並びます
境内北西端に御嶽神社です
御嶽神社遷座記念碑です
六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年3月27日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林139の1番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。
平成2年9月吉日 智方神社宮司 梅林 肇
では、次へ行きましょう