昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

凄いやつ

2021年04月28日 20時08分19秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 わしら、チョンコウ や 」
それが、
脅し文句であった。

昭和45年 ( 1970年 ) 3月 赤軍派による
日航機よど号ハイジャック事件
当時の私は、
朝鮮についての認識はこれを知っている程度でしか無かった

「 チョンコウ 」
・・・朝鮮高校のワル・・と、
電車通学する同級生から、その存在を聞かされていた。
「 今、一番ワルイ奴ら 」
・・・と、それが吾々の共通の認識だった。
しかし、自宅から徒歩で通学していた私
それは 「 噂話 」 程度でしかなかったのである。
自分には、「 縁遠いもの 」 と、そう想っていた。

昭和47年 ( 1972年 ) の秋頃
私は、右手にカバンを持ち、
左手には製図した図面を丸めて、
それをビニール包に納めたものを持って
下校中であった。
家で図面の残りを製図しようと、
まだ
西日が横から射す頃校門を出たのである。

善源寺町一丁目に差しかかった時、
前方左側の木造アパートから、大柄の3人組が出て来た。
そして、こっちの方に向かって来る。
夕暮前で、人通りも多い
まして、毎日往復している路でもある。
慣れ故の、安堵感からか、危険など微塵も感じなかった。
だから私は、普通にすれ違うもの と、たかをくくっていた。
ところが3人組、
私の意に反し、正面に立ち塞がったではないか。
昨年の11月12日
親友水阪 共々、
ヤンキーにカツアゲされた直ぐ手前の、同じ道路上である。
・・・リンク→パトカー に乗って帰宅する

ちょうど 交差点の中央であった。

「 わしら、チョンコウ や 」

と、脅しをかけてきた。
私は、「 またか 」 と、想ったが
前回と同じく、恐怖感は起きない
私の右前方 ・彼等の左後方 5、6メートルに金物工場があった。
そして其処に、複数の作業員を認めたのである。
私は その作業員に向かって、
「 カツアゲされている、助けて下さい 」
・・・そう、言った。
大柄の3人組
何も言わずに、私の後方へ歩いて行ったのである。

「 友達同志で喋っとるんや ・・想うとった 」 ・・・と、作業員。
「 わしら、チョンコウ や 」 の脅し
3人組が便乗して使った、 「 脅し文句 」 に過ぎなかったのかも知れない。
いずれにしても
帰り路での、チョットしたドラマは、事無きに終わったのである。

通学路 家 ・・・学校  徒歩で 20分程だったか? 

凄いやつ

同級生
 松井
柔道三段、
高校柔道では大阪市に於いて 五本の指に入る程・剛の者である。
彼も通学途中、「 チョンコウ 」 に絡まれたと謂う。
そして、殴られた と謂う。

「 お前みたいな、強い奴が、なんで殴られたんや?」
「 相手、そんなに強かったんか?」
「 そやない、殴らせてやったんや 」
「 なんでまた?」
「 あいつらに、俺は絶対負けへん 」
「 けど、俺があいつらをやっつけてみい、あいつら絶対 誰かに仕返しをする 」
「 他の都工生が、もっとひどい目に遭うやろ、だから我慢したんや 」
「 フーン・・・」

「 凄いやつ やなあ 」

真に強い者 は、幼稚な喧嘩などしない
彼の 堂々たる余裕に
感心し、感動した 私であった。

因果応報
普通の人生をおくっている者が
事故や事件に遭遇する機会、ざらにあるものでは無い。
「 パトカーに乗って帰宅する 」 ・・・の、体験も、
「 わしらチョンコウや 」 ・・・も、
私の生涯に於いて、稀有な体験である。
しかし、遭遇するは、自分にそれなりの原因がある様で
是を 因果 と、謂うの哉
上手く表現できないが
生き方 に於ける ひずみ や ズレ
普段、意識すらしない、これらが蓄積された時
事故や事件に遭遇するタイミングを造りだすのであらう。
それは
起こるべくして、起こったのである。
・・・そう想う。


昭和47年 ( 1972年 ) 5月13日 
千日デパートの大火災  ( 午後 10時半頃出火 )

深夜に放映されし大惨事の此のニュースを私は見逃した。
「 凄かった 」
・・・と、翌朝、親父に聞かされた。
学校でも この話題で持ちきりで、
吉田五郎も
「 おーっ、見とった 見とった  」
・・・と、興奮の面持ちで語った。


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