3月11日
裏声になるでも皮肉を滲ませるでもない祝福だからせつない 五十嵐きよみ たらちねのははが生まれて死んだことを真昼の日射しに祝福される やすまる 祝祭のしずかなおわり ひとはみな脆いうつわであるということ 笹井宏之 五十嵐きよみさんの作品。皮肉を滲ませない祝福ってのはわかるけれど、裏声にならない祝福ってどういうことなんでしょう。裏声で歌ってしまうような明るい気持ちにならない祝福ということでしょうか。いずれにせよ、祝福は明るくてしあわせなものだと否応なく迫ってくるその存在感。せつなく感じるしかない作中主体が浮き彫りになります。 やすまるさんの作品。読んだ瞬間は「死んだこと」も「祝福」?という違和感を感じました。その違和感を紐解こうとすると、「はは」の死に関する複雑な感情がうずまいているような気もするし、いやもっと単純に生き死にを繰り返すこの世界にそれでも存在したという祝福である気もするし。「たらちねの」という枕詞が、「はは」を個人的な「はは」から、万物の「はは」まで、そして個人的な生死から、昔から続く万物の生死にまで、想起させるような気がします。そして、「日射し」「祝福」という明るい言葉で締めることにより、幸いあれというような明るさを残す、そんな作品の広がりを感じさせました。 笹井宏之さんの作品。「ひとはみな脆いうつわ」というのが心に残ります。脆くもあるけれど、いや、脆いくせに、そこになにかを入れるために存在するうつわ。 |
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