1966年 石川健で病弱な43歳の女が
「私が死んでも後妻は貰わないで。」と
口走りながら42歳の夫を刺殺。
女も台所のコンロに顔を突っ込み
自殺を図ったのですが
女の自殺は、未遂に終わりました。
「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!」
by 聖帝サウザー
なんか健康の為なら死んでも良い!
に似た訳の分からん行動で
それだけ犯人の女が夫を愛していた
なんて言う理屈よりも
犯人の女が愛していたのは
自分の方がよりしっくりと来ます。
愛の形は人それぞれだとしても
本当に愛していたならば、
自分が亡くなった後の人生を
悲しく寂しい人生を送って欲しくないと
思うものなんじゃないのかなと。
この女が愛していたのは、
夫なのかを自分なのかは、
ここで一先ず置かせてもらって。
この犯人の女が一番怖かったことは、
自分の死後に後妻をもらうことで
夫から自分への気持ちが離れることであり、
夫に忘れ去られることのようにも思います。
気持ちが離れて忘れ去られる位なら
夫の中に自分への気持ちが有る状態で
夫の時間を凍結させてしまおう的な感じでしょうか。
現実には、夫を殺してしまうことは
夫が自分のことを思い出せなくなるので
忘れられることと同じ意味となるのですが
犯人の女からすると二つの意味は、
同じではなかったのでしょうね。
愛する女性のそのような気持ちを理解して
亡くなる寸前の夫が妻の凶行を許せたり、
納得して受け入れられていたら
まだ少しは救いがあるのですが………。
少し犯人の心理が似てはいますが
交際を断られた男性が
自分のものにならず誰かのものになる位なら
殺害してしまう事件は、
さらに自分勝手極まりない事件です。
どちらも犯人の精神が追い詰められて
普通の思考が働かずに大きく膨らんだ感情が
暴走行動を引き起こしたことは共通しています。
誰しもが誰かを愛し続けたい。
誰かに喜んでもらい続けたい。
それには自分の愛情を受け入れてくれる人がいて
初めて成り立ちます。
誰しもが誰かから愛され続けたい。
誰かに求められ続けたい。
それには自分を愛してくれる誰かの存在が
あってこそ成り立ちます。
そして、誰しもその誰かは、
地球上のどこかにいるようです。
メキシコの祝祭「死者の日」は、
1年に1度、死者達が家族の元へと帰ってくる日。
死者達は、煌びやかな死者の国で
楽しく暮らしているが、
生きている世界の誰からも忘れ去られた時、
彼らは死者の国からも消えてしまう。