どこへ行っても外国人を見る。電車に乗っても、買い物に行っても、日常も生活において、外国人を見る機会が圧倒的に増えた。
先日、新幹線で岡山に行ったが、京都でたくさんの外国人が降り、姫路にも下車し、帰途はその逆であった。
私の近所にもブラジル人が住んでいる。働いているのだが仕事の時間はまったく不定である。いったいどんな仕事をしているのか。ウラのアパートにもいるが、中学生の双子の子どもをもった夫婦は、夫は夜、妻は昼間の勤務をしているという。アパートは6世帯だが、そのうち外国人が3世帯である。
労働力の、低賃金で働く日本人の労働者よりも、さらに低賃金の労働力を得んがために、門戸を拡げてきた日本政府。
ヘイトスピーチを叫び、暴力的な言動をくり返した在特会、今やその在特会が地方選に立候補者を立てて公然とヘイトスピーチをしている。しかし、警察官はじめ自治体も、それらを規制することなく、逆に守っている。ヘイトスピーチを行う集団とアベ政権は、おそらく価値観を共有しているから、そうした政権の下では、警察も政権の意向通りに動くのだろう。相模原市や川崎市で、彼らは公然と排外主義・民族差別を主張している。それも聞くに堪えないことばをつかって。日本語がかくも卑しめられてることに、私は心を痛める。
さて今日の『朝日新聞』に「寛容の風よ、新時代に吹け」というコラムがあった。フランスの文人グールモンのことば、「女を悪く云(い)う男の大部分は或(あ)る一人の女の悪口を云って居るのである」(堀口大学訳)をもとに、排外主義的な風潮を戒めるものだ。この文の「女」のところを「外国人」としてみよ、というのだ。
「外国人を悪く言う人の大部分はある一人の外国人の悪口を言っているのである」となる。
まあ「一人」ではないかも知れない。集団としての外国人。
今日本にはたくさんの外国人観光客が押し寄せている。成田空港など混雑を極めているという。キャパシティをオーバーしているのではないか。
日本の労働者を低賃金にする、という1995年に開始された政策が功を奏して、今や日本の労働者の賃金は下がり続けている(最近、その逆の統計結果が公表されたりしているが、隠蔽や捏造など朝飯前の安倍政権下の官僚たちによる統計操作により、日本の統計はまったく信用できなくなっているから、その統計はおそらく噓だろう)。したがって、経済成長しない日本の物価は相対的に安く、日本に来た外国人は「安い、安い」といってたくさんの買い物をしていくのだという。
観光客として、低賃金労働者として、たくさんの外国人が日本に住んでいる。外国人との共生は、今や待ったなしである。
そういうなかで、在特会とそれにつながる日本第一党が、外国人に対する、とりわけ中国人やコリアン達に対する憎悪をかき立てている。
そのコラムは、イチローの「アメリカに来て、外国人になったことで、人の痛みを想像し、今までなかった自分が現れた」ということばをもとに、「・・・誰もが多様な人間同士だ。平成に続く新しい時代に寛容の風を吹き込みたい。憎悪の軍門に降(くだ)ることなく、イチローさんの言葉のように。」を末尾にしている。
憎悪は憎悪を生み、人びとの精神に深刻なキズを残す。憎悪の奔出をおさえなければならない。しかしアベ政権は、それを利用している。そのキズを深くしないためにも、アベ政権は倒されなければならない。日本の未来のために、日本人の未来のために。
先日、新幹線で岡山に行ったが、京都でたくさんの外国人が降り、姫路にも下車し、帰途はその逆であった。
私の近所にもブラジル人が住んでいる。働いているのだが仕事の時間はまったく不定である。いったいどんな仕事をしているのか。ウラのアパートにもいるが、中学生の双子の子どもをもった夫婦は、夫は夜、妻は昼間の勤務をしているという。アパートは6世帯だが、そのうち外国人が3世帯である。
労働力の、低賃金で働く日本人の労働者よりも、さらに低賃金の労働力を得んがために、門戸を拡げてきた日本政府。
ヘイトスピーチを叫び、暴力的な言動をくり返した在特会、今やその在特会が地方選に立候補者を立てて公然とヘイトスピーチをしている。しかし、警察官はじめ自治体も、それらを規制することなく、逆に守っている。ヘイトスピーチを行う集団とアベ政権は、おそらく価値観を共有しているから、そうした政権の下では、警察も政権の意向通りに動くのだろう。相模原市や川崎市で、彼らは公然と排外主義・民族差別を主張している。それも聞くに堪えないことばをつかって。日本語がかくも卑しめられてることに、私は心を痛める。
さて今日の『朝日新聞』に「寛容の風よ、新時代に吹け」というコラムがあった。フランスの文人グールモンのことば、「女を悪く云(い)う男の大部分は或(あ)る一人の女の悪口を云って居るのである」(堀口大学訳)をもとに、排外主義的な風潮を戒めるものだ。この文の「女」のところを「外国人」としてみよ、というのだ。
「外国人を悪く言う人の大部分はある一人の外国人の悪口を言っているのである」となる。
まあ「一人」ではないかも知れない。集団としての外国人。
今日本にはたくさんの外国人観光客が押し寄せている。成田空港など混雑を極めているという。キャパシティをオーバーしているのではないか。
日本の労働者を低賃金にする、という1995年に開始された政策が功を奏して、今や日本の労働者の賃金は下がり続けている(最近、その逆の統計結果が公表されたりしているが、隠蔽や捏造など朝飯前の安倍政権下の官僚たちによる統計操作により、日本の統計はまったく信用できなくなっているから、その統計はおそらく噓だろう)。したがって、経済成長しない日本の物価は相対的に安く、日本に来た外国人は「安い、安い」といってたくさんの買い物をしていくのだという。
観光客として、低賃金労働者として、たくさんの外国人が日本に住んでいる。外国人との共生は、今や待ったなしである。
そういうなかで、在特会とそれにつながる日本第一党が、外国人に対する、とりわけ中国人やコリアン達に対する憎悪をかき立てている。
そのコラムは、イチローの「アメリカに来て、外国人になったことで、人の痛みを想像し、今までなかった自分が現れた」ということばをもとに、「・・・誰もが多様な人間同士だ。平成に続く新しい時代に寛容の風を吹き込みたい。憎悪の軍門に降(くだ)ることなく、イチローさんの言葉のように。」を末尾にしている。
憎悪は憎悪を生み、人びとの精神に深刻なキズを残す。憎悪の奔出をおさえなければならない。しかしアベ政権は、それを利用している。そのキズを深くしないためにも、アベ政権は倒されなければならない。日本の未来のために、日本人の未来のために。