横田増生の『ルポ「トランプ信者」潜入1年』についてはすでに紹介した。なかなか良い本なので、ぜひ手に取ってもらいたいが、その最後のあたりに、報道が満たすべきものとして、「公共性、公益性、真実性」があるとしている。これらの条件にあわないデマやフェイクは、いうまでもなく報じられることはない。
日々、『東京新聞』を購読し、ネットで『中日新聞』を見ている者として、「真実性」はもちろん第一に重要ではあるが、「公共性、公益性」については検討が必要だと思う。
『中日新聞』(東海本社)の紙面は、ローカル記事で埋め尽くされている。わたしからみて、これが「公共性、公益性」があるのかと疑問に思うような、読者におもねるような記事が散見する。
今、浜松市で問題となっている水道料金値上げに関して、わたしたちはそれに対する意見書を提出したが、その記事はベタ記事であった。今ここで、水道料金値上げの問題を書くことは控えるが、浜松市は静岡県から必要もない水を、太田川ダムから購入していて、その金額(カラ料金)は年8億円~10億円となっている、つかってもいない水を県から買わされている現状をなんとかすべきである、そのカラ料金を、水道管の更新につかうべきで、安易に料金を値上げすべきではない、というのがその意見書の趣旨である。この意見書提出に関して、ベタ記事で良いのか。「公共性、公益性」が小さいと、中日新聞(東海本社)は判断したのか。
新聞などメディアは、権力を監視する「番犬」の役割を果たすべきだという言説が一貫して主張されているが、新聞などがその役割をきちんと果たしているとはとても言えない。そうした姿勢が部数減につながっているのではないかと、わたしは何度も書いている。わたしはその観点から、購読していた『朝日』をやめ、次に購読した『中日』(東海本社版)をやめ、今では『東京新聞』を読んでいる。
今日、ポストに、『メディアを市民の手に』という小冊子が届いていた。「NHKとメディアを考える東海の会」が出したものだ。かつて共同通信に努めていた従弟が送ってくれた。
そこに彼が書いた「新聞はどうなっているか~部数激減の中で報道機関の役割は~」を読んだ。東海地方の部数減は、『朝日』が43万部から23万部(以下、いずれも2000年7月から2021年7月)、『読売』が19万部から13万部、『毎日』は17万部から6万部であるという。『中日』は271万部から190万部だという。『中日』はまだかなりの部数を確保している。記者の給料は、『読売』が一番、次が『中日』だと、最近もと静岡新聞記者から聞いた。他社は、おそらくかなり減っていることだろう。
それに応じて、記者の数も減っている。すべてが記者の数だとはわからないが、東海地域では、『朝日』が571人から135人、毎日は46人だという。各地にあった支局、通信部はかなり減らされ、おそらく全国紙の支局は、支局長一人というところもあるだろう。これでは取材力が落ちていくのは必然だ。
彼は、「新聞紙面の内容」に言及していて、紙面の80%が、発表もの、つまり官公庁、企業、団体などが発表する内容を、ただ横書きのものを縦書きに書き直しているだけの記事が多いことを指摘している。『中日』のローカル記事も、取材に来て下さいといわれて書いたものが多い。
部数減、それにともない、広告費の減も、新聞社の経営に大きな影響を与えている。今では、ネット広告の方が、新聞・テレビ・雑誌・ラジオをまとめた金額を、はるかに越えているという。
新聞各社もネットに力を入れ、記事を読もうとすると、カネを払わなければならない仕組みをつくりあげている。
しかしネット読者を増やそうという試みは、新聞紙面の内容の検討も伴わなければ実効性はないのではないか。まさに「公共性、公益性」とはどのようなことかをしっかりと考えることだ。新聞の役割としての、権力を監視する「番犬」という立ち位置を明確にするべきではないか。
あるいは、むかし、『朝日』の本多勝一が紙面に様々なルポを連載していたが、そういうものも復活させるべきではないか。わたしがむかし『朝日』を購読していたのは、本多のルポの記事を読みたかったからでもある。
新聞を読まない人たちが、「・・信者」となって、デマゴーグがふりまくデマやフェイクを信じこみ、犯罪的な行動にまで、でてきている現実がある。
最近、新聞販売店が多角的な事業を始めている。新聞配達だけでは生きていけない現実が差し迫っているからだ。
新聞は、やはり購読すべきである。新聞は、「真実性」の検討をふまえた上で、様々な情報を流している。「公共性、公益性」とはなんであるかをしっかりと検討し、人びとにとってなくてはならないものになる、そういう努力をしていかなければならない。「真実性」を抛擲した情報が、ネット空間を占拠している状況をなんとかするためにも、新聞には頑張ってもらいたい。