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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

報道について

2025-03-01 09:01:38 | メディア

 横田増生の『ルポ「トランプ信者」潜入1年』についてはすでに紹介した。なかなか良い本なので、ぜひ手に取ってもらいたいが、その最後のあたりに、報道が満たすべきものとして、「公共性、公益性、真実性」があるとしている。これらの条件にあわないデマやフェイクは、いうまでもなく報じられることはない。

 日々、『東京新聞』を購読し、ネットで『中日新聞』を見ている者として、「真実性」はもちろん第一に重要ではあるが、「公共性、公益性」については検討が必要だと思う。

 『中日新聞』(東海本社)の紙面は、ローカル記事で埋め尽くされている。わたしからみて、これが「公共性、公益性」があるのかと疑問に思うような、読者におもねるような記事が散見する。

 今、浜松市で問題となっている水道料金値上げに関して、わたしたちはそれに対する意見書を提出したが、その記事はベタ記事であった。今ここで、水道料金値上げの問題を書くことは控えるが、浜松市は静岡県から必要もない水を、太田川ダムから購入していて、その金額(カラ料金)は年8億円~10億円となっている、つかってもいない水を県から買わされている現状をなんとかすべきである、そのカラ料金を、水道管の更新につかうべきで、安易に料金を値上げすべきではない、というのがその意見書の趣旨である。この意見書提出に関して、ベタ記事で良いのか。「公共性、公益性」が小さいと、中日新聞(東海本社)は判断したのか。

 新聞などメディアは、権力を監視する「番犬」の役割を果たすべきだという言説が一貫して主張されているが、新聞などがその役割をきちんと果たしているとはとても言えない。そうした姿勢が部数減につながっているのではないかと、わたしは何度も書いている。わたしはその観点から、購読していた『朝日』をやめ、次に購読した『中日』(東海本社版)をやめ、今では『東京新聞』を読んでいる。

 今日、ポストに、『メディアを市民の手に』という小冊子が届いていた。「NHKとメディアを考える東海の会」が出したものだ。かつて共同通信に努めていた従弟が送ってくれた。

 そこに彼が書いた「新聞はどうなっているか~部数激減の中で報道機関の役割は~」を読んだ。東海地方の部数減は、『朝日』が43万部から23万部(以下、いずれも2000年7月から2021年7月)、『読売』が19万部から13万部、『毎日』は17万部から6万部であるという。『中日』は271万部から190万部だという。『中日』はまだかなりの部数を確保している。記者の給料は、『読売』が一番、次が『中日』だと、最近もと静岡新聞記者から聞いた。他社は、おそらくかなり減っていることだろう。

 それに応じて、記者の数も減っている。すべてが記者の数だとはわからないが、東海地域では、『朝日』が571人から135人、毎日は46人だという。各地にあった支局、通信部はかなり減らされ、おそらく全国紙の支局は、支局長一人というところもあるだろう。これでは取材力が落ちていくのは必然だ。

 彼は、「新聞紙面の内容」に言及していて、紙面の80%が、発表もの、つまり官公庁、企業、団体などが発表する内容を、ただ横書きのものを縦書きに書き直しているだけの記事が多いことを指摘している。『中日』のローカル記事も、取材に来て下さいといわれて書いたものが多い。

 部数減、それにともない、広告費の減も、新聞社の経営に大きな影響を与えている。今では、ネット広告の方が、新聞・テレビ・雑誌・ラジオをまとめた金額を、はるかに越えているという。

 新聞各社もネットに力を入れ、記事を読もうとすると、カネを払わなければならない仕組みをつくりあげている。

 しかしネット読者を増やそうという試みは、新聞紙面の内容の検討も伴わなければ実効性はないのではないか。まさに「公共性、公益性」とはどのようなことかをしっかりと考えることだ。新聞の役割としての、権力を監視する「番犬」という立ち位置を明確にするべきではないか。

 あるいは、むかし、『朝日』の本多勝一が紙面に様々なルポを連載していたが、そういうものも復活させるべきではないか。わたしがむかし『朝日』を購読していたのは、本多のルポの記事を読みたかったからでもある。

 新聞を読まない人たちが、「・・信者」となって、デマゴーグがふりまくデマやフェイクを信じこみ、犯罪的な行動にまで、でてきている現実がある。

 最近、新聞販売店が多角的な事業を始めている。新聞配達だけでは生きていけない現実が差し迫っているからだ。

 新聞は、やはり購読すべきである。新聞は、「真実性」の検討をふまえた上で、様々な情報を流している。「公共性、公益性」とはなんであるかをしっかりと検討し、人びとにとってなくてはならないものになる、そういう努力をしていかなければならない。「真実性」を抛擲した情報が、ネット空間を占拠している状況をなんとかするためにも、新聞には頑張ってもらいたい。

 


【本】横田増生『ルポ「トランプ信者」潜入一年』(小学館新書)

2025-02-27 21:01:11 | 社会

 潜入ルポを果敢に行っている横田さんの4年前の大統領選挙(バイデンが当選したとき)の際、トランプの応援ボランティアとして「潜入」した経験を描いた部分と、最近の兵庫知事選の取材で得たことが書かれた部分が、違和感なく統一されている。

 というのも、トランプの信者も、斎藤応援団も、同じ特徴を持つからだ。彼らは、新聞を読まず、テレビを見ず、「自分が信じたいと思う情報」をネット、SNSから拾い出し、そのなかに“真実”を発見し、それ以外の情報を「敵」の情報だとして、烈しい敵意を示す。

 そのトランプは、平気で嘘を振りまく。「トランプとウソが不可分」なのだ。『トランプ自伝』には、こう書かれているそうだ。

 宣伝の最後の仕上げははったりである。人びとの夢をかきたてるのだ。人は自分では大きく考えないかもしれないが、大きく考える人を見ると興奮する。だからある程度の誇張は望ましい。これ以上大きく、豪華で素晴らしいものはない、と人びとは思いたいのだ。私はこれを真実の誇張と呼ぶ。これは罪のないホラであり、きわめて効果的な宣伝方法である。(146)

 この言説は、ヒトラーの『わが闘争』に相似しているし、最近の兵庫県知事選に絡む立花某の言動にも通じる。

 また横田さんは、こうも指摘している。

 扇動政治家が政治の頂点まで上り詰めると、その暴君が民主主義を破壊するのを食い止める手段は限られている。いずれの民主主義国家も、こうした独裁者が政権をとることを前提として作られていないからだ。(373)

 日本でも、ウソをつき続けた首相がいた。彼は、日本の民主主義を破壊し、その延長線上に今がある。

トランプがつき続けたウソは、人びとの認識に揺らぎをもたらし、事実とウソの間の境界線を曖昧にするのに役立った。(368)

 トランプと仲良しだった安倍も、ウソをつき続け、事実を無視し続けた。それが庶民のなかにも広がった。

 トランプは自分の発言を、ほんとうだと証明しない。トランプ自身が証明できないことを知っており、証明するつもりもないからだ。ウソを証明するのは、敵対する陣営の仕事だとして放棄している。だから、事実確認(ファクトチェック)で、間違いを指摘されようとも平気なのだ。(369)

 ウソをウソのまま流れていかないように、それがウソであることを、ウソをつかない人びとが証明していかなければならない、民主主義を守るということは大変なことだ。

 トランプ現象は、石丸現象、立花現象として、日本にも現れ、それが大きな力をもつようになっている。兵庫県知事選に関わって、悪質なデマを流した立花がいまだ逮捕されないことを考えると、日本の国家権力は、立花の言動を許容している、利用しようとしているように思える。

 日本やアメリカの民主主義の背後から、葬送行進曲が聞こえてくる。