浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

俺は生ききる!

2013-05-31 19:34:23 | 日記
 午後、畑に行った。男爵という種類のじゃがいもを掘るためだ。じゃがいもの栽培は今年で3年目だ。家の庭で、メイクイーンと、きたあかり、そして家から離れた畑で男爵。今年はたくさんつくった。

 農作物は、一挙に収穫期を迎えるので、自分の家だけではとても食べきれない。だから親戚に送ったり、近所の人などに分ける。じゃやがいもを嫌いな人はまあいないだろう。来年はもっとたくさんつくろうと思う。

 少しくたびれてきた葉を取り除くと、土の中から顔を出すじゃがいも。土を掘っていくと、次々とみつかる。収穫の喜びがあるからこそ、農業は面白い。

 こうして農作物をつくっていると、地球上の生命の支えあいというものを感じる。土を掘るとミミズをはじめ、いろいろの虫にであう。土を掘りおこしていると、いつのまにか小鳥が飛んできて、杭の上でじっとボクの仕草を見ている。

 大根やさといもを植えてある畝には、雑草が生えている。雨が降ると、たちまち雑草は生長する。

 風が吹き、太陽が輝く、そして青空にかかる雲、かたちを次々変えながらゆっくりと去っていく。

 自然に包まれながら、生きていることを感じる。


 ボクには、いつ息を引き取るか、という友人がいる。今日も、畑に行く前にお見舞いに行った。もう反応はなく、首の辺りにああらわれる心臓の鼓動が、彼が生きていることを知らせている。浅い呼吸は不規則だ。もう快方には向かわないことはわかっている。今まで頑張って生きてきたから、「頑張れ!」ともいえない。彼の生の行く先は、近くに迫った死しかあり得ない。それをみつめるボクは、とてもとてもつらい。彼の耳元に、「おれは辛いぞ」と語りかける。それだけで涙が出てくる。

 いつも見舞いにいきながら思う、「おれがいるときには、絶対に生きていてくれ」と。

 ボクはほぼ毎日見舞いに行く。友人たちも時間を見つけては見舞う。皆、ボクの報告を心待ちにしている。ボクは報告の末尾に、彼の姿をみるのがつらい、つらいと記す。友人たちは、ボクにも頑張れと言う。彼が頑張っているのだから、と。

 生きている、ということを考える。

 彼は、脳幹出血の後、首から下が動かなくなった。とてもとても健康で、一生懸命働いていた彼なのに。ボクはあるとき、彼に、体が動かなくても生きていてよかったかと尋ねた。彼はもちろんというように、強くうなずいた(彼は喉を開いて呼吸をしているので、話せない)。

 ボクは、体が動かなくなったら、もう死んでもいいな、と漠然と思っていた。でも、彼の力強い生の肯定に、ボクの思いは間違っているのだと思った。

 最近も、紫陽花が好きだという女性から、体が動かなくなったら生きていても仕方ない、というようなことを言われた。ボクは今は、そうは思わない、というようなことを話した。

 生きている、ただそれだけで人間には価値があるー学生時代にみた「夜明け前の子どもたち」という映画でボクはそういう認識を得ていたはずだ。生まれてこの方ずっと寝ているだけの子どもが、ある暑い日、先生に体を抱きかかえられてプールに入る、すると一度も感情表現したことのないその子が、微笑を浮かべる。その場面をみて、ボクは感動のあまり落涙する。その一回の微笑だけでも、他人を感動させるに十分なのだ。人間はそういう力を持っている。

 ボクの友人も、体が動かなくても、生きていたいという意志をしっかりと示していた。ボクも、そして友人たちも彼が体で示すその意志に、感動を得ている、学んでいる。

 「人間の尊厳」。唯一性と一回性。すべての人間は、古今東西ただ一つしかない生を生きていく、それもたった一回だけ。ひとつひとつがとても貴重な生。その貴重な生が、そう簡単に奪われてたまるか。

 彼は、生きながら、ボクに人間のあり方を示している。ボクはまだまだ認識が足りないようだ。

 明日もボクは、涙をこらえながら、彼を見つめる。ボクのこころに「こんなに頑張ってきたのだから、もう頑張らなくてもいいんだよ」と言いたい気持ちがある。だが、彼はそれを峻拒する。最期の最期まで、「俺は生ききる!!」という意志を感じる。

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