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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

浜松市の水道料金アップについて

2025-02-07 21:21:33 | 政治

 浜松市が、今年度から水道料金を大幅にアップさせるという情報がある。そのアップ率は約18%であるという。浜松市では民営化された下水道料金が高いので、この水道料のアップは、市民に大きな影響を与えるだろう。

 水道料金値上げの背景には、水道を各戸に配水する水道管が老朽化し、その更新を図らなければならないから、ということがある。確かに近年、水道管からの水漏れが多発し、市もその対応に苦慮している。だからやみくもに値上げ反対というわけではない。しかし浜松市の水道料金の場合、ちょっと待って、といいたいことがある。

太田川ダムの建設

 天竜川の東には磐田市、袋井市、森町がある。この地域は、1974年7月の七夕豪雨で、大きな被害を受けたところである。そこで静岡県は、太田川にダムを建設しようと企画し始めた。もちろん治水用のダムである。ところが、治水だけではなく、利水の機能も含めれば補助金が多くなることから、県は利水の機能ももたせようと、机上の数値をあみだした。すなわち、浜松市も含めた磐田袋井地域の人口は増加し、水の需要が高まる、このままでは給水能力が不足する、としたのである。それを理由に、太田川ダムに利水の機能をもたせたのである。

 そのHPにはこう記されている

近年流域市町村の都市化が著しく進み、一度災害が起きたときの想定被害額が格段に大きくなったことや、社会資本の整備の進展、水需要の増加などから、 治水、利水の重要性はさらに増していることなどを勘案して、静岡県では河川の改修計画を検討した結果、従来からの河川改修と並行してダムを建設することとしました。

また、当流域の森町、袋井市、磐田市等の水道用水についても都市化の影響により逼迫してきています。
そのため、将来の水需要に対処すべく水源確保の機能を併せ持つ多目的ダムを建設することとしました。

 ところが実際は、水道水は余っているのである。浜松市は太田川ダムからの水供給量として、一日16万5000㌧を契約しているが、実際の使用量はその約6割で推移してきた。県のHPのQ&Aでは、水需要が増えるようなことを無理して記しているが・・・

 浜松市は太田川ダムからの水供給に対してカネを支払っている。つかってもいない水に対して、浜松市は毎年7億から9億のカネ(カラ料金)を払っているのである。浜松市がこの太田川ダムの受水市となってから、2022年までの間に、なんと149億円以上のカラ料金を払っている。そのなかには、受水量に対応する費用だけではなく、ダム建設や水路建設の事業にかかった「固定費」も入っているというが・・。

 太田川ダムは、浜松市を受水市町のなかに組み入れることにより、建設されたのではないかと、わたしは疑っている。

 なお2018年の浜松市の「外部監査」の報告書には、「水運用の経済性・効率性を高めるためには、自己水源からの取水と遠州水道からの受水の割合を検討し、遠州水道の受水単価が明らかに不効率な場合には、契約内容の見直しや解除に向けた調整も必要であると考える」とある。つまり、太田川ダムからの取水がなくても、浜松市にはやっていけるだけの「自己水源」が確保できるということである。

 少なくとも、カラ料金を払い続けていてカネが足りないから水道料金をあげる、ということについては、市民として納得できない。

 


【展覧会】「しないでおく、こと。ー芸術と 生のアナキズム」

2025-02-07 16:49:27 | 美術

 今日は、豊田市美術館に行った。「しないでおく、こと。ー芸術と 生の アナキズム」という展覧会があったからだ。浜松から豊田市は、なかなか遠い。しかし、行かずばなるまいと思い、車に乗って馳せ参じた。

 展覧会は小規模で、これで1500円かいなと思うほどのもの。最初に新印象主義の画家の絵が陳列されていた。絵はほぼそれだけだ。ほかには、モンテ・ヴェリタ、シチュアシオニスト・インターナショナルSituationist ーinternational、ロシアと集団行為に関する展示、マルガレーテ・ラスペの作品など。またそれぞれが行った芸術活動の様相がヴィデオで示されていた。そして床などのスペースには、「コーポ北加賀屋」の作品というか、ゴミのようなものが置かれていた。片づけなければならないと思うほどであった。

 若い頃、前衛劇をよく見た。台詞には意味深長なことばがちりばめられ、俳優の所作には象徴的だと思われるものがあった。わたしはしっかりと見つめ、真面目に台詞の意味を考えようとした。

 しかしそこには、重大な意味なんかないことに気づいた。一瞬の台詞や動きに、感覚的に反応し、面白ければ笑う、ただそれだけのものだということを学んでいった。

 今日はヴィデオをいくつか見た。そこに映し出されている人びとは、真剣に何ごとかをし、真面目に台詞を語っている。しかし通常の感覚からは、くだらない、何の意味もない、あほらしく思うものばかりだ。

 わたしは、しかしすでに学んでいた。そういうものをとにかく受容する、しかし理解しようとはしない、ただ受容する、可笑しかったら笑い、理解不能なものはそういうものとして受容する・・・

 わたしたちが理解できるものは、一定の秩序とこの社会の約束事に縛られているもので、既知のものと何らかの関係をもちうるものだからこそ、わかる、のである。しかし秩序もなく、了解可能な意味もないものには、違和感をもち、ある場合は拒絶する。

 芸術とは、まったく自由でなければならない。人びとの既知なものと連係させることをしないでもよく、作者の勝手な構想や思いを、そのまま何らかのものに表現すること、それが芸術でなければならない。とするとき、芸術は何でもあり、なのだ。

 この展覧会の趣旨、にはこうある。

「芸術=創造とはそもそも、いまだ了解されない認識や知覚の領野を拡張していく営みです。」

 そのとおりである。そしてこう続く。

「ゆえに芸術とは「芸術」として名づけられ、一つに回収されてしまうことへの抵抗をあらかじめ含んでいます。」

 これもその通りであって、その後に、「制度化され、統治されることへの抵抗・逃走の姿勢=アナキズムに芸術の本来的な力を認め、その可能性を問う」とある。

 つまり、芸術はアナキズムと親和性があるということを言おうとしているのであろう。それにもわたしは同意する。

 だが、これら展示された作品群からは、この展覧会を企画したキュレーターの意図をしっかりとつかむことはできそうもない、表面的な受容で終わってしまいそうな危惧を感じた。

 展覧会に行くたびに図録を買うことが多いが、今回は買おうという気がしなかった。キュレーターの意図を、展示されている作品群から帰納的に推察するには、どうも無理があるような気がしたからだ。