南野陽子の夫が逮捕された事件。清水の「ベイコート清水」の横領事件。このニュース何度も報じられているが、なぜこういうことをする人が社会福祉法人 誠心会の理事長に就任したのか。
こういうわからないことをもった事件が多いように思う。
南野陽子の夫が逮捕された事件。清水の「ベイコート清水」の横領事件。このニュース何度も報じられているが、なぜこういうことをする人が社会福祉法人 誠心会の理事長に就任したのか。
こういうわからないことをもった事件が多いように思う。
斎藤茂男の取材ノートの3である。労働現場と教育現場を取材して歩いて書いたものだ。
斎藤は、いろいろなところに入り込み、それぞれの「現場」の実態を取材し、それをルポルタージュとして表現していた。それを読んで、私は社会のそれぞれの「現場」の様相、さらに日本社会がどのように病んでいるのかを知ることができた。
それらのルポルタージュは、連載であった。短い文章で「現場」を具体的に示し、その病理をえぐることなんかできるわけがない。しかし今、そうした連載は少なくなっている。
さて本書を読みながら、労働現場から離れてからすでに長期間経過した、そうした私にとって、「現場」に対する共感力が減じていることを発見する。それは、斎藤が描いた「現場」がすでに過去の時期のものであることもあるだろうが、それだけではなく、「現場」が自分自身と密接に関わるところではなくなっていることもあるのだろう。
それはネットや新聞の記事を読んでいても、差し迫った感覚が喚起されなくなっていることと同じである。人間はその置かれている環境に規定されていることを実感する。
今の日本社会が停滞、いや後退しているのは、「現場」と離れた老人が増えていることにもよるのではないかと思った。「現場」に対するビビッドな感覚がわいてこないのである。
老人たちが「現場」を認識できるような、あるいは知ることができるような「疑似現場」をつくりださなければならないと思うようになった。「疑似現場」とは、実際の「現場」と何らかの接触を持つことが出来るような集団的な集まりである。
メディアが「現場」(少なくとも『東京新聞』は報じている)を報じなければ、私たちが「現場」にアクセスしていかなければならない。