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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

並行して

2020-01-10 21:58:05 | 読書
 私は、芥川龍之介全集を持っている。その表紙は、浜松にあった今枝染工が染めたものだ。今、今枝染工の跡地はパチンコ屋になっている。

 私はその全集を読みはじめようとしている。その理由の一つは、最近某所で石川啄木や小林多喜二、竹久夢二らのことを「〇〇〇〇とその時代」と題して話をしている。それぞれが生きた時代を、彼らの生の軌跡をたどりながら浮き彫りにしていくという手法である。
 その聴講者から、芥川を扱って欲しいと言われた。はたしてできるかどうかを確かめるべく、岩波文庫の『芥川追想』を読んでいる。言うまでもなく、芥川と交流があった人々が芥川龍之介という作家・人間を追想しているのだが、これがなかなか面白い。

 芥川ほどの作家となると、芥川のなかに、捉えることができないほどの広大無辺の精神世界がある。その精神世界を、また同じように作家活動をしている人たちが語るのだ。収載されている文を読み続けると、日本にはものすごい精神世界の蓄積があることに気付く。

 『東京新聞』で、田中優子法政大学総長がコラムを書いている。楽しみに読んでいるが、江戸時代の文学などを主に研究している田中氏が、近世文学というか江戸学という方が正確だと思うが、その世界を少しずつ教えてくれる。近世にも、精神世界を書きつけたものがたくさん残っている。

 日本に生まれてきて、そうした蓄積された精神世界を知らずしてあの世に去っていくのは、あまりに惜しいと思う。

 学問研究でもそうだが、今の日本人は蓄積されてきた文化とか文学など、「良きもの」とあまりに疎遠になっていると思う。

 私は、いくつか並行して仕事をしているが、もうひとつは関東大震災における軍隊、警察、民衆の蛮行の背景に何があったのかを考えている。その作業の一つとして大江志乃夫さんが書いた『戒厳令』(岩波新書)を読んだが、まったく素晴らしい内容であった。大江さんらしく緻密でねちっこい研究成果である。大江さんはすでに亡くなられたが、大江さんの研究はすべて参照されるべき業績となっている。

 あらゆる分野で、多くの人たちが「良きもの」を著し、それらが蓄積されている。

 それらをあとどのくらい自分のものにすることができるだろうか。芥川がいう“孤独地獄”にはいり込まないとなかなか進まない。
 私は「良きもの」をできるだけ摂取したいと思うのだが、アベ政権の恣意的で暴力的な施策がそれを邪魔する。

 静かな晴耕雨読の生活、そして時々その成果を語るという生活に入りたい。

J・ポップ

2020-01-10 21:34:59 | その他
 J・ポップでただ一人CDを購入するのは、中島みゆきである。Amazon primeで、はじめて中島みゆきの曲がストリーミングで聴けるようになった。それを聴きながら仕事をし、久しぶりに中島のオフィシャルサイトにアクセスしたら、新しいCDが発売されたとのこと。

 CONTRALTO である。昨日注文し、本日到着。早速聴いている。このCDはウォークマンとカーナビに録音して、しばらくはずっと聴くことになるだろう。

 J・ポップでCDを持っているのは、中島みゆきと忌野清志郎だけ。中島のものは、なぜかほとんど買っている。中島のコンサートにも行ったことがある。しかし今は、なかなかチケットが手に入らないという。それに高額となっている。

 なぜ中島みゆきがいいのか?としばしば尋ねられるが、その理由を説明できない。私は「時代」からずっと聴いているから、その声が脳に刻まれてしまっているのだろう。

「推定有罪」

2020-01-10 08:36:21 | 政治
 弁護士の森法務大臣が、国際的に日本が民主的な近代国家でないことを明らかにしてしまったことは、先に記した。

 日本の刑事司法は、それほど前近代的であって、いったん警察や検察に疑惑を向けられると、その時からずっと犯人扱いされる。始めから、国際的には常識的な「推定無罪」はない。裁判官も検察官の主張を丸呑みすることが多いから、起訴されたものは裁判で99%以上の確率で有罪の判決が下される。だから日本では冤罪が多い。というのも、本来ならば被疑者がなぜ犯罪者であるかを証明するためには様々な証拠が必要であるが、日本ではそうした証拠ではなく、徹底的に自白をとろうとする。「推定無罪」などという原則は最初から無視される。警察や検察は犯人であるという予見をもって、犯人として扱う。「推定有罪」の原則が日本では貫徹されている。それは警察も検察も同じである。
 疑惑を向けられた段階から被疑者は自由を奪われ、長期間勾留され、長時間の取調にさらされる。取調の際には、被疑者を支えてくれる人は誰もいない。ひとりで警察官や検察官の執拗な取調に耐えなければならない。ほとんどの人は、それに耐えられずに、やっていないことでも「やりました」と自白してしまう。そうしないと、長時間の取調から逃れられない。自白しないと、勾留の期間は信じられないくらいに延ばされてしまう。裁判で自白を否定すればよい、と思っても、日本の裁判所はほかに証拠がなくても自白だけで有罪にしてしまう。
 日本の司法機関ほど人権侵害をするところはないといってもよい。

 弁護士はそうした司法手続きに対して疑惑を持たなければならないが、しかしすべての刑事事件で「推定有罪」の原則がまかり通っているために、弁護士の感覚もマヒしていく。弁護士出身の法務大臣も、法務省の役人も「推定無罪」の原則を知ってはいるだろうが、実態が「推定有罪」なので、あのように話してしまったのだろう。森大臣は後に訂正をしたが、しかしバザップの記事を読むと、まったく訂正されていない。日本の刑事司法がいかにふつうではないかということを暴露している。

 「司法の場で無罪証明を」森法相がゴーンの「日本で推定無罪の原則が守られてない」という主張を自ら追認

 Ghosnがそうした司法機関を批判する気持ちは十分に理解できる。それだけではない。アベ政権になってから、誰を起訴して誰を起訴しないかが、法律に準拠して行われるのではなく、政権に近いものは何をしても処罰されないというように、きわめて恣意的な扱いが蔓延している。

 伊藤詩織さんに性犯罪を行った山口某は、安倍首相との深い関係があるがために逮捕状がでていたにもかかわらず逮捕されず、森友学園問題では公文書を改竄したり隠蔽したものは誰一人責任が追及されない。

 日本の司法機関はすでに崩壊している。そうした司法機関から逃れる道をとったGhosnを、私は理解できる。

 日本の司法機関は、近代民主国家のレベルにいつごろ到達するのだろうか。