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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

啄木「渋民日記」(1)

2018-05-20 13:10:29 | その他
 1906年の「渋民日記」は、内容豊かで、感動すら覚える。さすがに「詩人」だけあって、唸るような表現がある。啄木は二十歳である。

四月24~28日

 自分は、涙を以て自分の幸福を絶叫する。

 そしてこれも。名文だと思う。

 渋民村の皐月は、一年中最も楽しい時である。天下の春を集めて、そしてそれを北方に送り出してやる時である。花といふ春の花は皆この五月に咲き、鳥という春の鳥は皆この五月に啼く。山も野も人の心も春の装束をつけて乾坤の笑を湛えるのはこの五月である。五月は春の盛りで、又、趣深き行春の季(とき)である。

 下線の部分に、私はいたく感動した。   

 ついでに徴兵検査の日の日記を紹介しよう。彼の検査は、4月21日であった。検査の結果は、

 身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸く安心した。
 自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る銷沈して居た。新気運の動いてゐるのは、此辺にも現はれて居る。
 (中略)
 一家安心。


 日露戦争後の、軍隊に対する意識である。啄木は、「新気運」と書いたが、日露戦後、「文壇では硯友社一派の封建的遺習に対して自然主義、現実ばくろがさけばれ、個性の尊重、個人の解放が合言葉となり、政治的には軍部と藩閥批判、普選の要求、そして社会主義運動が頭をもたげ」(山川菊栄『二十世紀を歩む』)るなど、新しい動きが出て来た。渋民村でも、そうした気運があったということなのだろう。

 

啄木の日記「甲辰詩程」

2018-05-20 11:09:06 | その他
 「甲辰詩程」は、明治37年、啄木18才である。16歳で上京、しかし金を使い果たして翌年2月帰郷。

 明治37年は1月に堀合節子との婚約成立する。

 1月1日 啄木は年初の希望を記す。

 白姫が天ふる領の白彩に光は湧きて
 新世なりぬ。
 地に理想天に大日の眩(は)ゆき世に眩ゆき
 希望の春を迎へぬ。


 「白姫」は、冬をつかさどる女神である。おそらくこの頃、岩手は白い雪に覆われているのだろう。それを「白彩」としたのか。
 私の住むところは雪は降らない。高校を卒業して上京した冬、窓から降り積もった雪を見て、なんて美しいのかと思った記憶がある。都会の塵や醜さを覆い隠した雪の美しさは格別だった。
 
 その「白彩」に太陽の光が射し込む。眩いほどの「白彩」に、春を感じたのだろう。

 1月4日

 天は曠し。地は大なり。さて宇宙はこれを包みて無限の高きに見る。ここに我生命あり、思想あり。曠く大なるが故に、その動きを見えず。限りなき高きが故に其丈計られざるなり。凡てを包むが故に、小さき眼はこれを無実虚無と見、限りなく深きが故に其深さ却りて浅きに似たり。ああ天の才のみ独り真に自由なるかな。

 未来ある若き頃、無限に続く生きゆく先を遠望する啄木。みずからの才能を確信し、その確信のうえに、みずからを自覚する。啄木は、齢を重ねた私が読むべきものではないとふと思う。

 
 8日

 この情熱。この情熱、はたして私にあったか。高校三年のころを振り返ると、つきあっていた女性はいたが、ここまでの情熱はなかった。ただ『椿姫』や『マノンレスコー』を読んで、情熱的な愛には憧れていたが・・・

 夜の八時すぎまでせつ子と語る。ああ我けなげな妻、美しの妻、たとへ如何なる事のありとて、吾らは終生の友たる外に道なきなり。さなり、愛なくして吾は如何にして生くべきや。ああこの一問はやがて我終生の方針なり、理想なり、希望なり。波立つ胸のいかに温かなりしよ。輝く瞳のいかに美しく、又鋭く我心を射たりしよ。

 啄木の日記は、妻節子にあてたラブレターではないかと思う。

 この年、日露戦争開戦。啄木も、「大日本帝国」の一員としての感慨をかきつける。旅順港封鎖の報を受け、「日本軍にして始めてなしうべき大胆の事たり。痛快」と書く。

 この頃の啄木に、「大日本帝国」の虚妄は見えていない。