『世界』6月号が、昨日届いた。真っ先に読んだのが、谷賢一の「コロナ禍の中の演劇」である。
COVID-19 の流行とその防御のために、音楽や演劇をはじめとしたイベントが中止となっている。これはとてもたいへんなことだ。ドイツのように、芸術は人生にとって必要だとして、多額のカネを出す国もあれば、日本のように文化や芸術に、国家権力がまったく関心を示さない国もある。日本政府は、カネが儲かるというなら関心を持つが、そうでなければ統制を加えることしか考えない、貧しい精神の人々が政治を担っている。それは地方行政も同じである。
演劇に関わる人々のことだけを記す。演劇人は、常時雇用されている人はほとんどいない。多くの人はアルバイトで食いつなぎ、劇が始まると集まってくる。といっても、全国巡演の場合はカネは出るが、それ以外はアルバイト収入である。このように公演中止が続くと、劇団も劇団員も、たいへんな状態に追い込まれる。「好きでやっているから(我慢せよ)」という人もいるが、好きでやっていて何が悪い、といいたい。「好きでやっている」人がいるから、音楽や演劇を、私たちが楽しめるのである。
谷賢一の文は、そうした窮状を記す。「演劇は、この社会に必要なものなのだ」と記し、「演劇の時空」について触れる。
以前にも、私は「演劇空間」について書いたことがある。谷もここで同じようなことを書いている。
演劇は、演じる人と観劇する人とが分離しているわけではない。劇場というひとつの空間に同時に存在し、そこで劇が展開する時間を共有するのである。そして劇を上演する人と見る人との間には、相互に交感が行われ、「その時」の劇はこの世の中にただ一つしか存在しないものとしてあるのだ。その意味で演劇というものは極めて創造的なものであって、それは劇場に同時に存在する人々によってつくられるのである。
私はそのような演劇が好きだ。これを書いているとき、それはYouTubeで、音楽座のミュージカル「Home」を見終わったところだ。Stay Homeということで、音楽座が無料配信している。有難いことだ。ただしかし、実際に劇場で見るのと、こうして動画で見るのとはまったく異なる。感動の大きさは、劇場でこそ味わうことが出来る。
だからコロナ禍による劇団や演劇関係者の窮状に心が痛む。早くコロナ禍が去り、心配することなく演劇を見たい。
日本政府はドイツのように、演劇をはじめとした芸術とそれに関わる人々に、補助すべきであると私は思う。
しかしどうであっても、演劇空間は、人類の歴史と共に創造的に存在してきた。人類は演劇を失うことはないだろう。
COVID-19 の流行とその防御のために、音楽や演劇をはじめとしたイベントが中止となっている。これはとてもたいへんなことだ。ドイツのように、芸術は人生にとって必要だとして、多額のカネを出す国もあれば、日本のように文化や芸術に、国家権力がまったく関心を示さない国もある。日本政府は、カネが儲かるというなら関心を持つが、そうでなければ統制を加えることしか考えない、貧しい精神の人々が政治を担っている。それは地方行政も同じである。
演劇に関わる人々のことだけを記す。演劇人は、常時雇用されている人はほとんどいない。多くの人はアルバイトで食いつなぎ、劇が始まると集まってくる。といっても、全国巡演の場合はカネは出るが、それ以外はアルバイト収入である。このように公演中止が続くと、劇団も劇団員も、たいへんな状態に追い込まれる。「好きでやっているから(我慢せよ)」という人もいるが、好きでやっていて何が悪い、といいたい。「好きでやっている」人がいるから、音楽や演劇を、私たちが楽しめるのである。
谷賢一の文は、そうした窮状を記す。「演劇は、この社会に必要なものなのだ」と記し、「演劇の時空」について触れる。
以前にも、私は「演劇空間」について書いたことがある。谷もここで同じようなことを書いている。
演劇は、演じる人と観劇する人とが分離しているわけではない。劇場というひとつの空間に同時に存在し、そこで劇が展開する時間を共有するのである。そして劇を上演する人と見る人との間には、相互に交感が行われ、「その時」の劇はこの世の中にただ一つしか存在しないものとしてあるのだ。その意味で演劇というものは極めて創造的なものであって、それは劇場に同時に存在する人々によってつくられるのである。
私はそのような演劇が好きだ。これを書いているとき、それはYouTubeで、音楽座のミュージカル「Home」を見終わったところだ。Stay Homeということで、音楽座が無料配信している。有難いことだ。ただしかし、実際に劇場で見るのと、こうして動画で見るのとはまったく異なる。感動の大きさは、劇場でこそ味わうことが出来る。
だからコロナ禍による劇団や演劇関係者の窮状に心が痛む。早くコロナ禍が去り、心配することなく演劇を見たい。
日本政府はドイツのように、演劇をはじめとした芸術とそれに関わる人々に、補助すべきであると私は思う。
しかしどうであっても、演劇空間は、人類の歴史と共に創造的に存在してきた。人類は演劇を失うことはないだろう。