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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

劇的空間

2020-05-08 22:48:55 | その他
 『世界』6月号が、昨日届いた。真っ先に読んだのが、谷賢一の「コロナ禍の中の演劇」である。

 COVID-19 の流行とその防御のために、音楽や演劇をはじめとしたイベントが中止となっている。これはとてもたいへんなことだ。ドイツのように、芸術は人生にとって必要だとして、多額のカネを出す国もあれば、日本のように文化や芸術に、国家権力がまったく関心を示さない国もある。日本政府は、カネが儲かるというなら関心を持つが、そうでなければ統制を加えることしか考えない、貧しい精神の人々が政治を担っている。それは地方行政も同じである。

 演劇に関わる人々のことだけを記す。演劇人は、常時雇用されている人はほとんどいない。多くの人はアルバイトで食いつなぎ、劇が始まると集まってくる。といっても、全国巡演の場合はカネは出るが、それ以外はアルバイト収入である。このように公演中止が続くと、劇団も劇団員も、たいへんな状態に追い込まれる。「好きでやっているから(我慢せよ)」という人もいるが、好きでやっていて何が悪い、といいたい。「好きでやっている」人がいるから、音楽や演劇を、私たちが楽しめるのである。

 谷賢一の文は、そうした窮状を記す。「演劇は、この社会に必要なものなのだ」と記し、「演劇の時空」について触れる。

 以前にも、私は「演劇空間」について書いたことがある。谷もここで同じようなことを書いている。
 演劇は、演じる人と観劇する人とが分離しているわけではない。劇場というひとつの空間に同時に存在し、そこで劇が展開する時間を共有するのである。そして劇を上演する人と見る人との間には、相互に交感が行われ、「その時」の劇はこの世の中にただ一つしか存在しないものとしてあるのだ。その意味で演劇というものは極めて創造的なものであって、それは劇場に同時に存在する人々によってつくられるのである。
 私はそのような演劇が好きだ。これを書いているとき、それはYouTubeで、音楽座のミュージカル「Home」を見終わったところだ。Stay Homeということで、音楽座が無料配信している。有難いことだ。ただしかし、実際に劇場で見るのと、こうして動画で見るのとはまったく異なる。感動の大きさは、劇場でこそ味わうことが出来る。

 だからコロナ禍による劇団や演劇関係者の窮状に心が痛む。早くコロナ禍が去り、心配することなく演劇を見たい。
 日本政府はドイツのように、演劇をはじめとした芸術とそれに関わる人々に、補助すべきであると私は思う。

 しかしどうであっても、演劇空間は、人類の歴史と共に創造的に存在してきた。人類は演劇を失うことはないだろう。


 

ウイルスRNA抽出キット

2020-05-02 08:39:53 | その他
 以前紹介した記事で、西村秀一さんが、「実はRNA抽出キットがすべて輸入品であるからである。入手が難しくなってきている。」とありましたが、実際は日本でもつくっているとのこと。

 新型コロナ/PCR検査、迅速化キット相次ぐ

 新型コロナ拡散防止対策に貢献するため、ウイルスRNA抽出キットを無償提供

 こうなると、検査の数が少ない理由は、やはり厚労省の医系技官の指示であることが明確になってくる。厚労省の医系技官は、COVID-19 を抑えようという決意がないということである。



 

森英樹さん

2020-05-01 21:03:53 | その他
 名古屋大学名誉教授である憲法学者・森英樹さんが亡くなられたとのこと。驚きである。私が関係する研究会で、今年は憲法を歴史的に捉えるテーマで話をしてもらおう、ということで、その候補として森さんと古関彰一さんを私は推薦した。話し合いの結果、古関さんに依頼することになった。

 森さんには、浜松での憲法問題での講演を何回かお願いした。講演の前に、時間は?と尋ねられ、75分というときっちり75分、90分というと90分であった。なぜそんなことが出来るのかと問うと、すでに頭の中にまとまった話(「ユニット」って言っていたかな)がいくつかあって、時間にあわせてそれを並べて話すだけだ、と言われたことがある。
 
 森さんの話は、憲法状況、憲法の理論、憲法の最先端の研究状況がきちんと盛り込まれ、それでいて筋が通っている、そういうものであった。また書かれたものも、感嘆符をいくつも並べられるようなものであった。

 森さんは、たくさんの著書もあるが、民科法律部会が編纂した『法律時報』や『法学セミナー』(日本評論社)の臨時増刊号では、執筆者でもあり、また編集責任者であり、森さんの文がよく巻頭を飾っていた。

 ほんとうに惜しい人をなくした。森さんの力強い話をもう聞けなくなると思うと悲しい。

 

生き残るに値するか

2020-04-28 21:31:40 | その他
 いつの頃からか、人が死ぬときとは、その人がこの世界で生きようという意志を失ったときではないかと思うようになった。だから、自分自身が死を間近に見すえざるを得なくなったとき、まだ生きたいという強い意志を持っていたなら、死が我が生を奪っていくことはありえないと思って生きてきた。
 今後も、そういう気持ちを持ちながら生きていたいとは思う。

 今も、私はまだ読まなければならない本を読み終えてはいない、だからまだ死ぬわけにはいかぬ、と思ってはいる。だがその生きる意志が少し弱くなっているような気がしているのだ。

 それは、この日本は生きるに値する国家なのかという疑問が、大きくなってきているからだ。COVID-19 の流行、それに対する日本政府のあまりに貧しくお粗末な対応、あの「アベノマスク」が象徴している対応、それしかなし得ない日本国家のありよう。これは、私だけではなく、人々に絶望感を与える。

 そうしたありように、私は怒り、そして時に悲しむ。だが怒っても、怒っても、現実は変わらない。少なくとも、このCOVID-19 の流行を効果的におさえるために必要な検査は拡充されない(補正予算にも計上されていないのだ)。
 そのため、早期発見、早期治療ができないから、死ぬべきでない人がこの世を去っていく。

 私の怒りは表面から、徐々に奥深いところに沈潜していこうとしている。

 そんなとき、私は藤原辰史氏の「パンデミックを生きる指針」を読んだ。

 そこに私の意識と通じることが書いてあった。「日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうか」。

日本は、各国と同様に、歴史の女神クリオによって試されている。果たして日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうかを。

 私は、躊躇なく「値しない」と言う。

 だがこれは、こういう問いにもなり得る。すなわち、

果たして日本人はパンデミック後も生き残るに値する国民なのかどうか・・。


 

このひとは、鶏冠で考えている

2020-04-16 22:07:31 | その他
 『週刊文春』がスクープしたこのネタを、様々なメディアがとりあげている。

 私はこの人の素行をスルーしようとしたが、AERAもとりあげているので、少し言及したい。

 この人は、思考力がものすごく弱い人なのだと思う。学校の成績もけっしてよくはなかっただろう。たしか森永製菓の経営者の娘だと思ったが(だからわが家は森永製品は買わない)、知力に欠けるところがあってもカネだけはあるので、何でも自由にやらせてきたのだろう。その人が、安倍晋三と結婚した。お似合いなのだ。類は友を呼ぶというか、同じような人間が結びついたのである。
 
 この二人が日本の政治のトップに居続けるところに、日本の不幸がある。そして彼らを支持するのが、今も40㌫いるという。これも同じ穴の狢というべきであろう。

いつもの春は・・

2020-04-14 16:26:51 | その他
 わが家の庭には、ネモフィラとわすれな草のうすい青色の花が咲き乱れ、その間からキンセンカが黄色い花をつけている。大きな鉢には、スミレが咲いている。そしてバラも、蕾を出して春を彩ろうとしている。

 実家では、アイリスが咲き、ツツジが少しずつ花弁を広げようとしている。またすでに咲き終わったユスラウメの木には小さな実がいっぱいできている。

 いつもの春が来ている。しかし、今年はいつもの春ではない。心の中が、いつも騒がしいのだ。

 『週刊朝日』の「現役医師が告発するコロナ“野放し”の実態」を読む。そこには「ゼーゼーハーハー」というほどでないと、PCR検査は受けられないという説明があった。

 検査をし、誰が感染しているかを確定し、その人が他の人に感染させないようにすること、これをやっていかないといつまでもウィルスは感染を続ける。

 なぜ検査をしないのか。厚労省の医系技官が検査をさせないようにしていることは確かである。2009年の新型インフルエンザのときもそうだった。
 
 院内感染が多発している。保健所に検査を求めても拒否され、一般病院で診察してもらいなさいといわれ、ウィルスをもったまま診てもらう。ウィルスのキャリアは、そこの医師や看護師に感染させてしまう。あるいは診察を求めてきている人びとにも。

 ヒドイ話しだ。こんなことは誰にでも想像できることだ。しかし医系技官にはそんな想像すらできない。

 毎年、いつもの春が来ていた。いつもの春をボーッと迎えるのではなく、いつもの春がきちんとやってくるように、私たちは眼をしっかりと見開いてこなければいけなかったのだ。
 こんな中途半端でいい加減な対応しか出来ない政府をなぜそのままにしてきたのか。

 実際みずからが体験してはじめてわかる、ということもある。だが、ある程度予想できたのではないか。
 医系技官の問題も、すでに2009年に指摘されていた。彼らの跳梁をなぜそのままにしてきたのか。

 こんなにも大きな災難が襲いかかってきているのに、本来もっとも頼りになるはずのところが、動かない。

 その中枢の人は、愛犬と戯れ、お茶を飲みくつろいでいる。

 破壊されつつある生活をどうしようかと追い込まれた人びとの眼に、中枢の人の言動が映る。

 絶望、それしかない。

 
 

 

「私にウソをつかないで」

2020-04-12 15:19:57 | その他
 この歌は、トランプに宛てたものである。しかし我が日本の安倍晋三にもあてはまる。

Barbra Streisand Addresses Trump In New Song: 'Don't Lie To Me'

 木曜日、バーブラ・ストライサンドが 政治的に焦点をあてた新曲を発表した。 "Don't Lie to Me"である。

 その歌は、バーブラのたくさんの作品の精神のなかにあるいろいろなものを結集した、壮大で、豊かな、濃密なものである。バーブらが指摘しているが、叙情的ではあるが、繊細ではないものだ。

 「あなたは銀と銅の塔を建てることが出来る。あなたは空に城を作ることも出来る。あなたは煙と鏡と陳腐なことばを使うことができる。私にウソをつかないで」とバーブらは歌う。コーラスでは、バーブらは身につまされる。「世界が変わろうとしているとき、あなたはどのように眠るの?私たちが築き上げてきたすべてのものが崩れてしまった、世界が燃えているとき、あなたはどのように眠るの?」

 シンガーソングライター、女優、監督、映画プロデューサーとして活躍する彼女は、木曜日に発表したビルボードのインタビューで、自分の政治的信念を音楽に入れ込む時が来たと感じていると語った。「私はこの人について何度も記事を書いてきた、マナーがなく、誰をも侮辱し、障害者を物笑いの種にする」とビルボードは彼女の言葉を引用している。「言うべきことを私は知らない。ハフィントンポストの記事を15本くらい書いた。他にどんなことを私は考えられるの?これはある意味で、歴史における前例のない時代への抗議なのです」。

 この曲は11月2日にリリースされるニューアルバム『Walls』に収録され、2005年以来のオリジナル曲を中心とした初のアルバムとなっている。

ボランティア

2020-03-26 08:50:06 | その他
 5年以上ボランティアで、歴史や時事問題を話す講座を引き受けてきた。今朝、その担当者ではない、おそらく上司の方から電話があり、その講座を中止するというのである。
 
 今月は新型コロナウィルスの関係で中止となったが、担当者は今後もよろしくおねがいします、と言っていた。突然の変更である。

 私はわかりました、と言って電話を切ったが、今までタダで、交通費も払われないまま、まったくボランティアで講師を引き受けてきたが、電話での中止連絡、あまりに失礼であった。

 さすが浜松市の職員はやることが違う。

 スマホに登録してあった電話番号を削除した。もうそこに行くことはないだろう。

マスクなど

2020-03-23 22:15:04 | その他
 いったいマスクはどこにあるのか。

 私は花粉症なので、早くからマスクを購入してあったので、いまだ間に合っているが、しかし一日で捨てることはしないで、一週間ちかく、時に日光消毒をしながら使用している。しかし、それでも先が見えてきている。はてどうしたものか。

 アルコール消毒液やアルコールタオル(これはまだコロナ禍が始まる前に通販で注文していたのだが、3月22日に入荷予定と連絡があったのに未だに配達されず、昨日今度の入荷は4月中旬になりそうだ、とのこと)、これもいったいどうなっているのか。

 メーカーではマスクも消毒液も、24時間操業でつくっているというニュースがあったのに、店頭にはまったく並ばない。

 いったいつくられたそれらはどこにいっているのか。

 マスクなどは、企業にはボックスで搬入されているという情報もある。

 いずれにしてもふつうの家庭では入手は困難のようだ。

 安倍政権は何かをしているふりはするが、実態としては何もしていない。検査は言うまでもなく、マスクやアルコール消毒液の流通対策も無策である。

 かくも無能な政権には早くおさらばしたいと思うのだが・・・・


考えるということ

2020-03-17 18:37:24 | その他
 『世界』に、もうずっと前に亡くなったA・G・ガードナーの文が載せられている。4月号は、1919年に書かれた「自分自身で考える」である。ガードナーは、イギリスの随筆家である。

 安倍政権の支持率が50パーセント近くもあると報じられると、がっくりする。まあメディアが政権から流される情報をそのまま流し、また批判的に扱う場合でも、これが批判的?と疑ってしまうような穏便な表現だから仕方がないかもしれない。どんなひどいことをしてもメディアは怒らない。「批判されそうだ」などと他人事で報じる。

 だから私は思っている。メディア関係者は「考えない」。

 ガードナーはこう書く。

 人間の多くは、心のいかなる問題についても、自分自身の本当の考えを一度も持つことなしに一生を送るのかもしれない。群れの中で考えるのだ。

 まさしくメディア関係者は群れの中で考える。次のことばも、メディア関係者にそのままあてはまる。

 人には考える力がない、というのではない。考えるのを恐れるのだ。世間の流れとともに流れていくほうが流れに逆らって進むより楽だし、群衆とともに叫ぶほうが群衆の中で一人立ちつくし疑問を抱くよりずっと楽だ。頑張って群れの催眠術から逃れようと試みる者も自分一人で考えることに成功しない。せいぜい別の群れの中に入り込むだけだ。

 自分で考えようとしないから、まさに権威にすがる。権威にすがって、権威の声を神の声のようにして語るのだ、あるいは書くのだ。

 人間は一人だけで考えるには力不足だし、自分の感情や自分の判断を信じるには謙虚すぎる。すがることのできる権威を欲しがるのだ。それが得られると、その陳腐な考えをよく考えもせずに喋りまくる。

 ではメディア関係者は考えることはあるのか。ガードナーはこう記している。

 正しい思考力は自由な環境では栄えず、圧政の下でのみ栄えるのだ。人は自由をはぎ取られて、はじめて自由が死ぬほど大切だとさとるのだ。

 だがメディア関係者がこれに気がつくとき、すでに圧制下で何も言えず、何も書けない。今はまさにこの段階である。見ててごらん、メディアはまったく怒らないから。結局、メディアは、圧制者の味方なんだ。

 

英辞郎

2020-03-16 21:50:31 | その他
 英文を翻訳するときに、たいへん役立っているのが英辞郎である。アルクが出している英語辞書。現在私はその第九版をパソコンにインストールして使用している。

 私は電子辞書も持っているが、それには英和はジーニアス英和大辞典、リーダーズ英和辞典が入っている。しかし英語もことばである。それぞれの単語の意味内容は常に変動している。電子辞書に入っている単語は、その変動を取り込めない。

 アルクの英辞郎は、その変動を取り込み、第九版で202万語である。

 英文を読んでいてわからない箇所があるとき、そこにカーソルを持って行って単語を反転させ、コピーをクリックすると、その訳語が出てくる。通常の英和辞典にでていない訳語がたくさん並んでいて、そのなかから一番適すると思われる訳を選ぶ。

 今回も、英辞郎には大分お世話になっている。これなしに翻訳はできない。

 調べたら、現在は第11版(第九版までは漢数字だったのに)が出ている。217万項目が入っているという。第九版から15万語が増えたということである。

 私はこの第九版で、三回新版を購入してきている。第11版は3080円。Windowsが対応できなくなると購入してきたが、もう買わなくてよいかな?

南三陸町のピアニスト

2020-03-11 22:13:07 | その他
 『南三陸日記』に、西宮市職員でピアニストの谷口博章さんのことが記されている。

 南三陸町に支援に入った谷口さんが、ピアノを弾いて被災者を元気づけたという話である。その谷口さんのことがテレビで放映された。

【特集】脳梗塞から復帰 よみがえったピアニストの東北支援

 この「故郷」も、素晴らしい。

3月11日

2020-03-11 13:35:41 | その他
 2011年3月11日、東日本大震災がおきたとき、私はまだ職に就いていたのだが、残っていた年次有給休暇の取得により自宅で、今と同じことをしていた。2階の自室でパソコンに何ごとかをうちこんでいた。

 すると、ゆっくりとした横揺れを感じ、これは地震だと思い戸外に出たら、隣家の方々も家の外にでてきた。これは地震だ、などと話していたことを覚えている。

 その時代はテレビをもっていたので、テレビをつけると、信じられない光景が次々と映し出された。とりわけ、津波の映像は衝撃的で、津波が家や温室や、車を呑み込んでいく光景は、もう唖然として声もでない、ただ見つめているだけだった。

 退職したら海外旅行をしまくって世界を見て死ぬのだという決意は吹き飛び、今後の自分の人生は楽しんではいけないという気持ちが大きくなり、まさにその後一度も海外に行っていない。行く気持ちが失せてしまったのだ。

 3月11日は、東日本大震災と福島原発事故をふりかえらなければならない日である。

 今手元に、朝日新聞記者の三浦英之さんの『南三陸日記』(集英社文庫)がある。最初に口絵が並んでいる。

 ヘリコプターの写真の下にこうあった。

「遺体は魚の腹のように白く、濡れた蒲団のように膨れ上がっている。涙があふれて止まらない。隣で消防団員も号泣していた」

 あの日、私も、テレビを見ながら涙を流していた。なぜだ、なぜだ・・・と問いながら見続けていた。

 次の頁の写真は、倒壊した家屋である。そこにこういう文言があった。

「・・・気がつくと空ばかり見上げていた」

 あの日、私も空を見上げた。この空は、あの空につながっている・・・重苦しい、重苦しい日々が、続いた。

 忘れてはいけない、と思う。あの原発事故も。

議論の立て方

2020-03-07 22:43:44 | その他
 未来が不透明である。とりわけ新型コロナウィルスの感染者増加など、自分自身の生命の危険さえ感じられる時代である。しかし、未来が不透明であることは、いつの時代もそうであった。未来は予測できないのである。第一新型コロナウィルスが発生し、世界に蔓延することなんかも予想できていなかった。

 未来が不透明だから、それに備えなければならない、として、学校では子どもたちに未来志向の教育が必要だと喧伝され、教育界では大きな混乱が起きている。

 未来のことを予想して議論をたてて論じる、ということがある。しかし私は、そういう議論が苦手である。なぜか。私は歴史を研究してきた。だから、過去から現在までを相手にする。現在は、過去の蓄積の上に存在するのだ。歴史学というのは、過去の一部分を切り取って分析して記述する学問である。歴史学だって、過去を過去として全体的に認識することなんかできない、それを展望はするが、それとて部分的な認識の蓄積をもとにするしかない。
 過去ですらそうなのだから、未来なんかとてもとても、である。

 私の議論は、今までがこれこれだから、まずこういう課題を解決するように努力しようということになる。未来からではなく、あくまでも過去からつながっている現在に対する問題意識からみずからの行動をどうするかを考えるのだ。
 未来は不確実なのである。たとえ未来はこうだという断定があろうと、しかしその断定がそのとおりに来ることはそれこそ「不確実」なのである。
 過去を振り返ってみても、たとえば幕末に生きていた人々は、維新変革により近代日本国家が姿を現すなんてことを予想していたか。幕末の人々が、いずれ近代日本国家が姿を現すはずだから、こうすべきであるということをしていたか。

 たとえば、2013年、「雇用の未来」という論文が注目された。今後10~20年で全米の雇用のうち47パーセントがAI等に置き換えられる、というのだ。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。「不確実」なそうした未来のことを考えて準備しなければならない、という議論がなされる。
 私はしかし、その議論はあまりに飛躍があると思うのだ。そうした議論を、私は前提にしない。私が前提とするのは、あくまで現在の事実、である。それは過去の蓄積であり、そして未来は現在が積み重なっていくことによってつくられていく。
 「雇用の未来」が描くように、10~20年(なかなか大きなスパンである)で、雇用の場が半減するのであろうか。半減するとするなら、どういう場が減っていくのか、きちんと分析したのだろうか。

 未来がこうなるだろうからという視点から私たちの考えや行動を決めていくのではなく、現実に立脚しながら現実の問題点を解決すべく一歩ずつ歩んでいくというあり方の方が確実ではないかと思う。