人間は病む。病むことは、人間が生きていく上で避けて通れないことだ。人間は死ぬまでは生きていくし、生き続けようとする。だから病むことから逃れようと、人間は努力する。だが「難病」ということになると、病むことから逃れられない。絶望が襲いかかる。
ずっと前、アウシュビッツ収容所に入れられたフランクルの『夜と霧』を読んだことがある。毎朝、そこでは戸外で、どんなに寒くても点呼が長時間行われる。食べるものも少なく、労働を強制され、息絶え絶えの生活であった。そこで絶望に襲われた人は、息絶えていったという。しかし少しでも希望をもった人は、生き残ったという。フランクルは医者である。彼もいくつかの希望を失わなかった。他者との人間的つながりがあったからであるし、それだけでなく、もう一つ生きていくことを選ぶ力となったことがあった。朝焼けの太陽である。
私は朝焼けの東の空はあまり見かけたことはないが、しかし夕焼けの美しさは何度も体験している。まだ働いているとき、職場の二階から西の空を見ていたとき、こんなにも美しいものを見ることが出来る、生まれてきて良かったと思った。今でも、農作業が終わり家路につくとき、毎日毎日変わっている夕焼けの美しさを感動をもってみつめる。
子どもが入院したことがあった。病院のベッドの上で苦しんでいる姿を見て、自分が変わってあげたいと思った。快癒して今では元気に暮らしているが、生きてくれているというだけで、私は満足である。
他人が死にたいというとき、私はぜったいにそれはよくないことだと言う。死というものは、確かに個人の問題であるが、同時にその人とつながる大勢の人のものでもある。自死は、実は自死ではないのだ。
京都での嘱託殺人。この事件が報じられて、尊厳死の問題を論じるべきだと色めき立つものが出ている。しかしこの事件は、尊厳死なのか。私には殺人に思える。己の醜悪な思想の実践である。
香山リカさんが、そのうちの一人のTwitterの文を紹介している。
コロナが導火線になって、尊厳死法が通ればいいのにね。さすがにALSご一行さまは官邸や五号館前で叫ばねえだろう。ベッドの議員も国会サボるだろうし。
議員定数を若干減らすよりも、尊厳死法とか安楽死法を通した方が財政は持ち直すと思うけど。
医師たちの、この事件を起こした「思想」、きわめて醜悪なそれがよくわかる。
そして二人の医師のひとり、大久保医師の奥さん、衆議院議員でもあった大久保みよさんが、夫のことを記している。
バカにつける薬はない
アスペルガーの夫を支え続けた結果
文面には、すっきり受容できない部分もあるが、長年の生活経験からの思いが記されているようだ。
私は、この二人の医師に、ものすごい「思い上がり」を感じる。しかしそれは、多くの男が持つものでもある。多くの男にとっての「生きる杖」って、「思い上がり」なのかもしれない。それは、強烈にその個人だけのもので、他者とつながりをもたない闇そのものだと思う。