ぐうたら主婦 きっとの暮らしと遊び

ヘタレな主婦の山歩きとぐうたらな生活の中で思ったことなどを書き連ねてみました。

終活で

2018-10-09 00:56:50 | むかしむかし
長篠のお寺のホームページがあったので、いろいろ見ていたら
何と、そこには鳥居強右衛門のお墓があり、武田の名だたる武将達のお墓もあるではないか。

新東名の建設で移転したらしい。
それに、旧旧国道151(今は何号線か知らん)を通ってもっくる新城やこんたく長篠、
国道257号線へ出るのに、牛淵橋を渡って飯田線の線路を越すと、
これに似たような石のお墓がある場所があったっけ。
ひょっとしてそこがお寺かも。

しかも、合同納骨や永代供養も受け付けているとか。
一体12万円也。安いのか高いのかわからんけども、お墓を買ったり仏壇買ったりするより
よっぽど安上がりだ。お経を上げてもらう時にはお布施が必要だけれど
おっさまんとこはお安い気がする。死んでしまってからもあれこれ牛子に気を使わせては可哀想だし、
「そこら辺でウロウロしとるご先祖様らーは、みんなあたしが連れてくから。
心配いらんでね。」

「お母さんが死んだらお骨は海にでも撒いてくれ」
と牛子に言ったりしていたがあまりいい顔をしていなかった。
頭の片隅で時々考えてはいたものの、どうしようか。
そんな時の永代供養である。

私も相方もここで世話になってしまおう。
海に撒いたでは牛子も夢見が悪いだろうけれど、ちゃんとしたお寺で永代供養されていると思えば
安心していられるだろう。
爺ちゃん婆ちゃんの位牌もある事だし。
お参りに来たいと思えばいつでも来れる。

あと何年かしたらおっさまに頼んでおく事にしよう。

一周忌とお寺とおっさま

2018-10-07 07:10:46 | むかしむかし
昨日、爺さんの一周忌が終わった。
台風25号の影響で雨が降ったり晴れたりの不安定な天気だったが
お墓で準備をしている時には雨が降りながら、おっさまがお経を上げ始めた時には
すっかり止んでくれたので無事に済んだ。

実家の仏壇の横の床の間に、数週間前からお寺に置いてある大きな位牌が鎮座していたが、
(妹の戒名に加え、新しく父の戒名も彫られていた)
一周忌の法要が終わるとともに、おっさまが「じゃあこれは寺の方へ運ばせていただきます。」
と言って箱に収めて抱えて車に載せていた。
普通、お寺用の位牌に戒名を新しく彫っても、家にそれを持ってくる事はしないから
おかしいなあとは思ってたが

「ひょっとして、お寺変えた?」
と弟に聞くと
「ここまでやってもらったんだから、変えないわけにはいかん。」
という事だった。


菩提寺のおっさまが病気で供養が出来ず、葬儀の時も今のおっさまにお経を上げてもらった。
菩提寺のおっさま(長養院)と今のおっさま(長篠、新昌寺)とは兄弟であるから
今まで色々と都合をつけて新昌寺のおっさまが面倒を見てくれていた。
長養院には先祖代々の位牌やら過去帳があるし、幼い頃から通っているので
本堂奥の位牌堂でお経をあげてもらう時などは、何か落ち着くような気持ちになったものだった。
しかし、長養院のおっさまが病気でどうにもならず檀家の供養仕事の一切を長篠の新昌寺のおっさまが
引き受けていると言う。

新昌寺のおっさまは長篠、医王寺(武田勝頼の本陣だった寺)の住職も兼ねているから
(医王寺の実際の管理は有志の方々がやっているようだ)
もう、大忙しだそうだ。

「距離だけは走っとる!」
とおっさまが言ってた。

ところで、本来お寺を変えるという事になると、結構ややこしく大ごとらしいが
(お寺の方では大変かもしれん)
そこは宗派も同じ、兄弟であるから
「おっさまんとこのお寺に変える!」
と言えば
「わかった!」
で終わってしまったらしい。
あまりに簡単な話になってしまったので長男よっちゃんは
まだ次男あきちゃんと三男かずくんにその事を話していないんじゃないかと
さっき思った。

これは早いとこ連絡だけしておくように言わなきゃな、と考えていて
何故、長養院は「院」がつくんだろう?
とふと思った。
今まで全く気づかなかったけれども、普通どんな大きな寺でも有名なお寺でも
「◯◯寺」
と「寺」がつくのに、
「院」とは何故だ?光國舜玉和尚の命名なのだろうか。

「今度、一回お寺に行かんといかんね」
という事でお寺でおっさまに聞いてみよう。

どうでもいい事なんだろうけど、どうでもいい事が気になる。
先代のおっさまならスラスラと答えてくれただろうが、長篠のお寺と長養院の関係も
聞いておく事にしよう。

潜水艦乗り

2016-04-02 19:17:25 | むかしむかし
テレビを見ていて、戦艦長門を撮影していたので、(アメリカの空母サラトガも)
そこから戦争時の話になり、

義父がむかし、イ号潜水艦に乗っていてしかも機関長だったという事を聞いた。
潜水艦乗りだったというのは昔聞いた事があったけども、機関長をしていたのは初耳だった。
義父は病気治療の為に船を降りて療養していたところ、出航した先でその潜水艦が沈んでしまい、
陸戦隊として中国行った時にも何気なく振り返った目の前に死んだふりの敵兵が銃を構えていたので
思わず撃ってしまったのだそうだ。
その事を死ぬまで悔やんでいたという。
そして大陸からも怪我のために本土に帰って来て海軍工廠にいたのだが、
その海軍工廠の大空襲の日も休暇で家に帰っていた為に生き残ってきたのだという。

そこは私の父と似ている。
偶然にも父も同じ海軍工廠にいたらしいが、たまたま家に帰っていたところ
大空襲があったので命拾いをしている。

義父の兄弟も戦艦赤城に乗っていた人もいたが、マラリアかなんかで船を下ろされている間に出撃した
船が撃沈されて命拾いしたらしい。
しかし、やはり特攻隊に志願して飛行機で突っ込んで戦死した人もいると。

ちなみに自分の伯父も沖縄戦で通信兵をしていたらしいけれど、帰ってきた。
伯父は死ぬまで戦争の話をしたがらなかった。


まだまだ身近な話なんだな。

やっと陽の目をみた武田勝頼

2016-02-03 23:56:35 | むかしむかし
国営放送 歴史秘話のお話で、やっと全国区になれた武田勝頼。
唯一の理解者弟仁科五郎盛信(勝頼が甲斐に帰った後、高遠城に入り城を守って最後まで戦った。)
の事も少しは話に入れてくれんかなと思いながらテレビを見てた。
苦節45年。
長篠城ももっと映してくれよ。

初めて武田勝頼の名を耳にしてからはや45年がたっております。
450年の時間の隔たりはありますが、自分にとっては「そんな昔じゃない」気がして仕方がない。
それほど歴史の残る土地と縁があったのか どうなのか………。

しかし、勝頼のお話はいつも泣ける。
甲陽軍鑑は勝頼憎しで書いてあるので、かえって信長公記とか
三河物語とか(そんなんあったけ?)
熊谷家文書とか
ルイスフロイスの日本史とかをひっくり返したりほじくり返したりした方が
本当の事が書いてあったりするかも。




国営放送がやると

2016-01-06 22:24:55 | むかしむかし
真田丸の謎について国営放送が関わると、何でもやってしまえるんだなあ、と思って
テレビをみていた。

しかし、「真田丸」は丸かったと思われていたのに実際は四角だった・・・。
って、え?「丸」ってそういう意味じゃないでしょ?
ちょっと変。

でも、具体的に絵にして貰うとイメージをハッキリさせられますね。
考えていたよりずっと大きいものだった。
それに寺町とくっついていたというのも意外だった。
ただ、大阪城から離れていたというのは、昔何かの本で読んだ事ある気がする。
だからこそ、真田の強さが広まったように聞いたような・・・。
しかも徳川方は塹壕作ったり築山作ったりして結構近代的な戦をやってたことも面白い。
今の技術でないとわからなかった事がどんどん解明されていくと歴史がもっと面白くなる。
大狭間筒が使われていたり、大砲が使われていたり、すごいなー。
ただ単に野っ原を走り回ってただけじゃないんだなぁ。
しかも大砲の弾が飛び交ってる大坂城内で上さまが女中にそば団子を作らせていたりして。
ご先祖様たちは大変な時代を生きてた。
(妄想中)


はっと我に返り千田先生の説明に聞き入る。
贅沢な番組、千田先生が説明してくださるとは。
この調子で古宮城も徹底的に調べて貰って全容を作手の集落や亀山城、文殊山城なんかと
一緒に立体模型にしてもらったら、その周辺の城などとの位置関係もよくわかって
絶対面白いと思う。

かつて、まだ若い21か22の頃勤務先の先輩と二人で信州上田真田の里をうろついた事がある。
真田の町は鄙びた田舎まちだった。でも大昔だったから地形なんかを二人して見回しながら歩いていた。
今頃は随分変わってしまっているだろうと思う。
長篠城が山と桑畑の中に囲まれるようにポツンとあった頃と今はやはり変わってしまっているように。