気ままな推理帳

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山下吹(21) 享保15年(1730)の足尾吹は、真吹であった

2020-12-06 08:51:19 | 趣味歴史推論
 足尾銅山は、慶長15年(1610)に百姓の治部、内蔵が露頭を見つけたことからはじまったとされてきたが、この百姓治部とは、実は足尾郷を支配していた星野治部左衛門(初代)であることを、墓の存在、過去帳、系図などから池野亮子が証明した。その成果を「足尾銅山発見の謎」(随想舎2009)に書いている。足尾銅山発見の経緯には日光山の領地復活の狙いがあったとしている。

 足尾銅山開坑(1610)から江戸中期までの製錬方法を探るために、村上安正「足尾銅山史」を調べたが、残念なことに全く記載がなかった。そこで、製法の参考にすべく、この「足尾銅山史」から、銅山の発見、開発状況を書き出したのが以下である。

(1)慶長19年(1614)「諸国鉱山見分覚書」には、足尾に住む農民治部、内蔵が黒岩山で銅の露頭を発見したのちに、二人の生国を記念して、黒岩山を「備前楯山」と改め、その功績を長く世に伝えることにしたという。
(2)元文元年(1736)「足尾山仕供指し出し候書付弐札の写し」(願王院への差出文書)
 足尾銅山は「慶長15年(1610)3月播磨国治兵衛、備前国清右衛門と申す者、銅見出し、座禅院様へ御披露申し上げ、翌亥年(慶長16年(1611))酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)様へ、問(間?)吹差し上げ候、その刻恐れ乍ら、大猷院様(徳川家光)御袴着御祝儀の節御披露申し上げ、御吉事の山と御沙汰御座候由---」
(3)寛政8年(1796)「足尾銅山草創記」(足尾山仕の差出文書・日光輪王寺文書)
 「慶長年中銅山見出し候は、百姓の内、治部、内蔵と申す者両人にて見出し候の処、播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門と申す者聞き及び罷り越す。このもの儀才覚ものにて山先伐(代?)り相勤めさせ候、右のもの大金(を)仕ため(為溜)、本国に罷り帰り申し候、その節建て置き候石碑、今もって御座候---」
(4)年不明「足尾銅山御掛御役人姓名控」(足尾から利根川岸までの足尾銅山街道上、5つの宿の2番目の花輪宿の名主であり御用銅問屋の高草木家所蔵)
 「百姓治部、内蔵が銅山を見出し、----花輪村弥右衛門、澤入村十右衛門一同、日光座禅院座守へ申し立て、翌亥年(慶長16年(1611))酒井雅楽頭御取次をもって、間吹銅差し上げ候処(中略)、大猷院様(徳川家光)御袴着御祝着御当日、間吹銅献上、その節御代長久吉事の銅山と、御褒詞の御上意なり下され置き、それと御用山に仰せ付けられ候。銅一式御用の儀銅山師どもへ仰せ付けられ候段聞き及び候て、播磨国山崎治兵衛、高坂清右衛門と申す者、罷り越し山先名代 吉田太郎右衛門儀山先* を相勤め、十文字鑓御免無高にて江戸表の儀は被官格付けられ候由に御座候---」
 *吉田太郎右衛門儀山先:因幡池田藩の家来で山先人として、幕府の命をうけて足尾銅山に招かれた。

栃木県史資料編の記述や文言とは、わずかな違いがあるが、製錬に関係することについての筆者の推理は以下のとおり。
 「日光山と星野治部左衛門らが、播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門を招き、露頭を教え、試し掘り、見立て、鉑吹→真吹して真吹銅(荒銅)を作らせ、これを幕府に献上した。
 幕府は、御用山として開発すべく、因幡池田藩に吉田太郎右衛門を山先として出させ、その名代(部下)として播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門をあて、この二人に銅山開発を遂行させた。」

 間吹銅は、以下の3つの可能性ある。①真吹で得られた荒銅すなわち真吹銅 ②真吹で得られた荒銅を間吹して得られた精銅 ③還元法で得られた荒銅を間吹して得られた精銅。①、②であれば、真吹がなされていたと言える。ただこの文書を書いたのは、実際の約120~180年も後のことなので、慶長当時に間吹、間吹銅といっていたかどうか。
足尾銅山の山に、備前楯山と名付けられたことは、備前山師の貢献が大きかったのであろう。普通なら「備前」と国の名を前に付けることはまずないであろうから。
播磨国と備前国から来た山師は、隣の摂津国山下町や多田銀銅山と関わりのあった者たちの可能性がある。山下吹が足尾銅山の開坑時の慶長からなされていた可能性が出てきた。

「宝の山」を調べたら、索引に「足尾吹」が1ヶ所あり、本文にその吹き方の概略が記されていた。以下のとおりである。3)→図

享保15年戌4月(1730)、与右衛門・山留八郎兵衛見分**
会津領 黒沢村銅山
・床屋 足尾吹

 鉑450貫目ばかりを升19杯に〆6吹し、直ちに間吹に致す。
 升は、横1尺8寸、長さ1尺8寸8分、深さ8寸。升に〆4斗1升7合6夕(75.33リットル)
 右に炭160~170貫目
 間吹に、(炭)60貫目ばかり。
  **山留八郎兵衛は、「宝の山」の中で、非常に多くの見分記録を残した山留である。

考察
 この間吹は荒銅を得る工程であるので、真吹を意味することは明らかである。また「直ちに」とは、6回に分けて鉑吹して得た鈹をまとめてそのまま「直ちに」真吹したということである。鈹の焙焼はしていないということである。「真吹に60貫目ばかり」とは、前の行と同じ炭の重量を指し、原料の鉑450貫を処理するのに入用な炭の重量を 鉑吹用と真吹用に分けて記している。
「鉑を焙焼することなく、生鉑を鉑吹(荒吹、荷吹、素吹ともいう)し、得られた鈹を直ちに真吹して真吹銅(荒銅)を得る方法」を足尾吹と称していたことが分かる。すなわちこれが足尾銅山の製錬方法であったと推定できる。この記録は享保15年(1730)であり、開坑してから120年経っている。しかも北隣りの会津藩銅山の記録であるが、足尾吹に関して貴重である。
120年経っているが、真吹であったという記録があったことは、足尾銅山が開坑当時から 真吹であった可能性がでてきた。すなわち、山下吹が誕生して間もなく摂津から、播磨、備前の山師によって伝えられた可能性がでてきた。
「山下吹(7)において、足尾銅山(維新前)の山下吹は素吹を指しているが、いつから行われていたか、初めから山下吹と言っていたのかということである。足尾銅山開坑の慶長期に、多田銀銅山で山下吹が発明されたと筆者は推測しているので、すぐ足尾銅山に伝わるには、早すぎると思う。山下吹が導入されたのは、もっと後であろう。」と筆者は記したが、取り消したい。

まとめ
 享保15年(1730)の足尾吹は、生鉑を鉑吹し、得られた鈹を真吹し荒銅を得る方法であった。

足尾銅山関連の古文書には、製錬方法が記載されたものがあるに違いなく、その発見は今後の課題である。

注 引用文献
1. 池野亮子「足尾銅山発見の謎」-治部と内蔵」の真相をもとめて-(随想舎 2009)
2. 村上安正「足尾銅山史」p30~31(随想舎 2006)
3. 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」p37(住友史料館 平成3年12月 1991)「宝の山」は、泉屋本店で宝永の末年(1710頃)に着手し、30年後の元文5年(1740)まで段々に書き綴られたものである。
図.「宝の山」 会津藩黒沢村銅山・足尾吹の部分