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立川銅山(7) 海部屋平右衛門は、創始者海部屋権右衛門の孫であった

2022-04-03 08:32:37 | 趣味歴史推論
 立川銅山4人目山師の可能性がある海部屋平右衛門及び海部屋(かいふや)一族の経歴について、知りたいと思い、「堺市史」を調べた。
当主の経歴1)と海部屋市左衛門の由緒書2)を参考にして、慶長の海部屋権右衛門から、文化の海部屋利左衛門までについて以下にまとめた。

海部屋権右衛門一数 
 海部屋の創始者である。阿波国海部中村3)に住んでいた権右衛門は、阿波三好氏の後裔で、兄彦太郎の遺命により武士をやめ、慶長元年(1596)堺の南宗寺へ来た。4)住持沢庵和尚の俗弟子となり、和漢の産物を交易し業とし産を積んだ。海部郡出身の故を以て屋号を海部屋と称した。寛永元年(1624)8月21日病歿した。法号は夷竹道伯居士。その子孫は商業に従事し、富豪を以て世に鳴り、支族また繁栄した。(惣年寄由緒書、元禄2年堺大絵図)5)

海部屋甚右衛門 中村家久
 権右衛門一数の子。道号は宗有。父の遺命により南宗寺の山門を建立し、南宗寺の有力な外護者であった。延宝4年(1676)歿 享年82歳 6)

海部屋市左衛門 中村宗治
 家久の子。道号は宗貞。南宗寺第27世の住職天倫宗忽は、宗治の寄進により延宝7年(1679)に南宗寺(の方丈・大厨庫)を復興した。元禄11年(1698)10月2日歿 享年67歳。法号を天徳宗貞居士。7)

海部屋平右衛門 中村宗久
 家久の子で、宗治の弟。兄に倣って、天倫退休所として天和3年(1683)不盡庵を再興した。7)→写真

海部屋市左衛門 中村宗雪
 宗治の子。元文2年(1737)死去 法号は梅僊宗雪居士。
中村家が父子兄弟相継いで南宗寺および禅楽寺の外護者となり、荒廃せる寺院の復興に努力したことは、堺の寺院史上没すべからざる業績である。8)

海部屋利左衛門 中村常雄
 小字は幸十郎、酉方庵又は吟巴と号した。家代々堺市之町濱に住した。藤田常好の第4子で享保5年(1720)12月生誕、入って中村利雄の嗣となった。天賦多能、殊に千家喫茶の儀を善くした。安永9年(1780)4月3日歿 享年61歳 子の利興が家を嗣いだ。9)

海部屋利左衛門 中村常興
 常雄の子。字は伯起、幼名は和吉、更に和助又は理兵衛のち利左衛門と称した。寛延3年(1750)生まれ 富豪を以て知られ、又累世堺市之町濱の年寄役を勤めた。禀賦洒脱、古史を渉猟、且貧者を憐れみ頗る客を愛した。文化4年(1807)3月9日歿 享年58歳。 法諱は宗與理性居士。子なし。家妹の澤某に嫁して生むところの子、常春を嗣とした。10)

 家系図は見つけられなかったので、筆者が堺市史から推定して作った家系図を示す。間違いはご容赦願いたい。→図

考察
1. 権右衛門が海部屋の創始創業者であり、阿波海部中村から慶長元年に堺にやってきて、交易を業とし、豪商となったことがわかった。三好氏の後裔なので、三好長慶氏に縁のある堺の南宗寺へ来たのだろう。
2. 平右衛門(中村宗久)の兄市左衛門(中村宗治)は、享年67歳なので、1632生~1698歿である。よって平右衛門が3才下とすると、生まれは、寛永12年(1635)頃となる。山師として想定した寛文11年~延宝2年は、11) 37~40才頃となり年令的には、あり得る。不盡庵の再興が1683年であるので、少なくとも49才頃までは生きたことになる。 
3. 堺市史の資料の人物誌には、寺への寄進、茶会、町の惣年寄としての事が書かれているが、家業については、ほとんど触れられていない。海部屋が銅とどのように関係したかは記載されていなかった。
4. 堺市史に、渡海屋平左衛門はなかった。

まとめ
1. 海部屋は、堺に住み、交易で栄えた富豪であった。
2. 海部屋平右衛門が、創業者海部屋権右衛門の孫であること、堺の南宗寺に寄進していることが分かった。
3.  堺市の海部屋(中村家)の古文書には、平右衛門の事や立川銅山からの荒銅の受け入れなどが記録されていないだろうか。

注 引用文献
1. 「堺市史」第7巻 別編 (堺市役所 昭和5年(1930))
 web. 国会図書館デジタルコレクション
2. 「堺市史」第5巻 資料編第2 p434(堺市役所 昭和4年(1929))
 web. 国会図書館デジタルコレクション 
3. 現在の徳島県海部郡牟岐町中村であろう。 
4. 南宗寺(なんしゅうじ)
 web. 堺観光サイト> ようこそ堺へ!> 堺のええトコ> 南宗寺
 「戦国武将の三好長慶が父・元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557)に大林宗套を開山として建立した南宗寺。臨済宗大徳寺派の寺院で、創建当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して自由貿易都市として栄えた堺の町衆文化の発展に寄与しました。中でも、千利休の師である武野紹鷗は、大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深め、千利休も第二世笑嶺和尚に参禅して禅に開眼。日常の俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、知識ではなく体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めました。
南宗寺は大坂夏の陣でことごとく焼失しましたが、その再興に尽力したのが、当時の沢庵和尚。俗論に沢庵漬けの考案者と言われる和尚です。沢庵和尚が現在地に再建を果たした後、17世紀中頃には国の重要文化財に指定されている仏殿、甘露門(山門)、唐門が整備されました。その仏殿の天井一面には、どこから見ても睨んでいるように見えることからその名の付いた「八方睨みの龍」が描かれ、迫力たっぷり。権力者や寺院の御用絵師として隆盛を誇った狩野信政筆で、昼なお薄暗い仏殿の中にはまさに龍が棲んでいるかのような錯覚に陥ります。」
5. 1のp391
6. 1のp391  2のp434嘉永6年の由緒書では、「甚左衛門」と書かれている。
7. 1のp393 →写真
8. 1のp394
9. 1のp359
10. 1のp343
11. 本ブログ「立川銅山(3)」
写真 海部屋平右衛門(「堺市史」第7巻 別編 )


図 海部屋家系図(筆者の推定による)


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