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立川銅山(9) 金子村弥一左衛門の山師期間は、元禄7年中頃~元禄10年初の3年弱だった

2022-04-17 08:35:31 | 趣味歴史推論
 金子村山師弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)が山師をしていた期間は何時から何時までであったろうか。
弥一左衛門が請け負ったのは、果して諸書に伝えるように、元禄5年(1692)であろうか。史料に書かれた「時」に関しては、事件直後に記された文であれば、信頼性が高いが、かなり時間が経った後に記されたものでは、信頼性が大きく低下するものである。
泉屋叢考は、以下の様に論じている。

「時間的に甚だ接近した元禄8年8月、別子立川両銅山の坑道抜け合い争論について當の眞鍋氏を相手取り住友から提出した訴状の初めに、先ず自分の別子稼行が元禄4年5月の請負に始まり、爾来開発に非常な努力を払ったことを述べて後、その後西条御領分立川銅山も外の山師が請負い、この山師は大分の投資をしたが稼行を止めて、その後に金子村の弥一左衛門が請けたとある。これによると、弥一左衛門の請負った以前に、別の山師がある期間稼行しており、この山師の請負は別子開坑の元禄4年(1691)5月以後のことであり、しかも開坑時には立川は休止していたように思われる。」1)2)
 そして、泉屋叢考は、最も信頼できる史料として元禄7年(1694)4月の大火災に関した報告を挙げ、以下のように記している。
「元禄7年5月に、住友より、今度豫州より人上り咄申趣として、別子火災の顛末を大坂町奉行所へ報告した中に「風下は松平左京様御語領内立川之方へ何も逃申候。然る所に左京様銅山師金子源次郎と申者にて御座候。」とある。これによると、火災當時の立川の山師は金子源次郎であると明記されている。(中略)以上によると、弥一左衛門以前に稼行した山師は金子源次郎ということになり、弥一左衛門の請負は、元禄7年(1694)4月の火災以後のことらしい。」1)
 いつ止めたのかについては泉屋叢考では、以下のように論じている。
「元禄8年(1695)4月両銅山の鋪内で抜合が起きた。元禄10年(1697)閏2月評定所の裁決があって、両村の境界は分水嶺をもってすることに決定した。山師弥一左衛門・同甚右衛門・立川山村庄屋藤兵衛は入牢を申し渡された。立川銅山師は弥一左衛門入牢の後、やはり金子村の新五右衛門が請けたようで、作兵衛・茂左衛門が手代となって稼行したらしい。元禄14年2月大和間歩内先年の抜合場所の近くで別子がわから古鋪へ掘り抜いた。金右衛門・勘助は新五右衛門・作兵衛等と立ち合い立川の鋪内を見分し、さらに同様に双方が大和間歩で立ち合い、絵図を作り捺印し取り替わして、分杭を立てて一件は落着した。元禄14年4月中旬頃に、京都銭座の鮫屋三郎右衛門・金谷(屋)源兵衛・長崎屋忠七が新五右衛門に替わって立川銅山を請負ったのである。」3)4)

 以上のことから、立川銅山山師は次のようになる。請負までに休止期間があれば、その分開始時期は後になる。
①別子開坑の元禄4年(1691)5月以降(少し休山後)~元禄7年(1694)4月の大火災直後-----金子源次郎
②元禄7年(1694)中頃~元禄10年(1697)2月-----弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)
③元禄10年(1697)2月以降~元禄14年(1701)-----新五右衛門
④元禄14年(1701)~享保12年(1727)-----京都銭座・糸割符仲間

考察
  新五右衛門の名は、泉屋の史料に基づいて書かれていると推測されるが、その史料が何であるかはわからない。金子村の新五右衛門とはどのような人物であったのか。金子村庄屋弥一左衛門の次の代は、与次左衛門であるので、違う。小野清恒「近世の庄屋役変遷記」で新五右衛門を探したが、なかった。

まとめ
 立川銅山山師は以下のようになる。
金子源次郎が、元禄4年後半~元禄7年4月の3年の間
金子村弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)が、元禄7年中頃~元禄10年初の3年弱の間
金子村新五右衛門が、元禄10年末頃~元禄14年4月の3年半


注 引用文献
1. 泉屋叢考第13輯「別子銅山の発見と開発」p10~15(住友修史室 昭和42年 1967)
2. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p40(思文閣 昭和62 1987)
3. 泉屋叢考第17輯「住友と立川銅山」p2~9(住友修史室 昭和52年 1977)
4. 京銭座は京都の糸割符仲間が鋳銭の幕許を得て組織したものであるが、宝永5年(1708)末で鋳銭をやめた。立川銅山の請負山師としてそれまでは京銭座の名が多く用いられたが、以後は糸割符仲間と書かれている。


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