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伊豫軍印(3)八雲琴創始者の中山琴主が奉納した可能性が高い

2023-03-19 08:00:00 | 趣味歴史推論
 この銅印を所蔵する土居町天満の八雲神社(やくもじんじゃ)に参拝し、宮司の近藤純夫氏に神社の由緒と銅印の由来について、お話を伺った。→写真1
1. 神社の由緒
 境内の石碑に八雲神社由緒が記されている。 →写真2

「  八雲神社由緒
     旧称 牛頭天王宮
(ごずてんのうぐう)
御祭神 素盞嗚尊(すさのをのみこと)奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)手摩乳命(てなづちのみこと)
往古素盞嗚尊がこの地に来られ、社林の山上に仮殿を營み給うた旧蹟地に、後人修補を加え、尊を祭ってきたが、推古帝25年(617)に社殿を建て永く後世に遺し奉ったと伝えられる。元徳2年(1330)旧8月25日、北野・畑野・土居・上天満 四ケ村の氏子一致して、初めて祭典を執行し、爾来この日を大祭日としてきた。文明15年(1483)近郷に疫病流行、村民等祈願してその害をのがれ、大いに御威徳を崇めて、翌春社殿を修補。天正15年*1(1587)に至って宮山より現在の山麓に遷宮。創建以来牛頭天王宮と称してきたが明治2年八雲神社と改称する。古来悪病除け並びに牛馬の守護神として尊崇され、正月7日までに参詣すればその年家内の悪病が除かれると云われてきた。八雲琴の創始者中山八雲琴主*3は当社に参籠して眼病治癒を祈り快復したというその御神徳を感謝して琴主は京都の公卿一條忠香公*4筆の「牛頭天王」の額を奉納している。
  境内社  春玉神社 天王宮龍蛇神社
  例祭   正月7日 厄除悪病除祈願祭
       10月15日 秋季大祭
  県指定有形文化財*2  伊予軍印
   平成元年4月吉日  行星謹書   」

*1 碑の正保3年は間違い *2 碑の県指定重要文化財は間違い
*3 中山琴主(なかやまことぬし) (1803~1880)土居町天満の出身。17才で出雲大社を訪れた時、風にそよぐ竹の美しい調べに心打たれ二絃琴(別名・八雲琴)を創り出したと言われる。その後、京都で公家などに二絃琴を教授したほか、諸国の神社へ二絃琴の演奏とともに奉納する旅を続けた。晩年は帰郷し、道や橋を整備するなど地域の発展に尽くして人々から慕われた。1)
*4 一條忠香(いちじょう ただよし) (1812~1863)官位は従一位・左大臣。一条家22代当主。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊王攘夷派の公家と対立した。余技で絵を能くしたほか、鹿背山焼で好みの煎茶器を作らせた。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の実父にあたる。2)

2. 宮司近藤家の由緒
 近藤家の先祖が、ここの神主に最初に奉職したのは、正徳3年(1713)である。神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)卜部朝臣(うらべあそん)兼敬(かねゆき)からの神道裁許状を拝見した。

「豫州宇摩郡天満村牛頭天王の神主 近藤丹羽守藤原屋冨 恒例の神事参勤之時 風折烏帽子(かざおりえぼし)狩衣(かりぎぬ)を着すべきは、神道裁許の状 如件
 正徳3癸巳年5月21日
 神祇管領長上従二位卜部朝臣兼敬* 印  」

*卜部氏嫡流吉田兼敬(1652~1731)

3. 銅印に関しての宮司の話
(1)銅印に関する文書記録はない。
(2)口伝によると、銅印は、中山琴主が奉納したか、奉納に中山琴主が関係しているという。神社の宝物の多くが中山琴主の奉納したものである。琴主は、出雲大社および京都の公家と非常に蜜な関係があった。拝殿に掲げている左大臣一条忠香公筆「牛頭天王」の額や、有栖川宮熾仁親王3)筆「八雲神社」の額は、琴主が奉納したものである。→写真3
(3)綬(組紐)は古くからなかった。
(4)印を納めた箱は古いものではない。
(5)神社は火災に遭ったという記録はない。風水害はあったかもしれない。

まとめ
 伊豫軍印は、中山琴主が奉納した可能性が高いことがわかった。銅印の由来を知るには、中山琴主の経歴を知ることが重要である。


宮司の近藤純夫様にはご丁寧に説明を頂き、お礼を申し上げます。
  
注 引用文献
1.  暁雨館「宇摩の先人ゆかりの地マップ」p5(2022.10)
2.  Wikipedia「一條忠香」
3.  日本大百科全書(ニッポニカ)「有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王」
(1835~1895)幕末・明治時代の皇族。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持。元治元年(1864)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門の変で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。慶応3年(1867)王政復古とともに総裁職に就任。翌年の戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿、福岡県知事、元老院議長を務め、明治10年(1877)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清戦争中に没した。
写真1. 八雲神社


写真2. 八雲神社由緒


写真3. 八雲神社の額と牛頭天王の額



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