気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(1)

2020-02-26 16:15:45 | 趣味歴史推論

 別子銅山の製錬工程を調べていて筆者は、素吹で、鍰をつくる融剤として添加するSiO2源の物質名や量の記載が江戸期の記録にないことに気が付いた。(現場の記録である別子銅山公用記や操業日誌などには記載されているのかもしれないが確認できない)。

1. 江戸期の「銅製造図記」「鼓銅録」「別子立川銅山の仕格覚」1)には、素吹(鉑吹)、真吹で珪石(SiO2源)の添加操作をしたという記載はみつからなかった。
2. コワニェ覚書(明治6年に別子視察、覚書明治7年(1874))
 ① 素吹では、SiO2源を添加する操作の記載はなかった。
 ② 真吹では、「鈹は酸化され、大部分のヒ素は煙突から蒸気となって脱去し、酸化鉄は円蓋やブラスクの粘土によって煆焼せられる。」とあった。この煆焼とは、鍰をつくる反応をさせていると解釈される。鍰は、酸化鉄が炉内壁ブラスクの粘土と侵食反応してできることを意味している。ということは、少なくとも真吹ではSiO2源を意図して添加する操作はしていないことを示していると思われる。
3. ラロック「別子鉱山目論見書」(1875)
 ① 素吹 ここでは、鉄を含んで半ば風化した泥質片岩の相当量が、熔剤として使用される。---製錬夫は、吹床に入れる混合物(焼鉱・熔剤と素吹工程から出る高品質の鍰)を運び、早急に熔解する。---
明治7年(1874)6月~11月の間に330回の素吹作業を行った結果の物質収支が記録されており、1回あたりに換算すると
 仕込:焼鉱 609kg  泥質片岩 40kg 木炭 225~262kg 
 回収:鈹 88.4kg  床尻銅 8.5kg  鍰 355kg
流れ出して固まった鍰片を順次集め8回の分析を行ったところ、Cuの平均含有率が3.5%と驚くべき高さであった。あまりに多くのCuが捨てられていた。
 ② 真吹 泥質片岩の添加操作は記載されていない。
4.  明治13年(1880)第2内国勧業博覧会出品説明書
 ① 素吹 1日の工業は、[焼鉱480貫目]・ [鍰70貫目]・ [千枚(雲母板石)36貫目] を熔融するに、木炭210貫目を消費して、鈹135貫目を得る。(筆者注 鈹135貫は最も多い時である)→1回に換算すると 
 仕込:焼鉱600kg 鍰87kg 雲母板石45kg 木炭263kg 
 回収:鈹169kg 床尻銅と鍰は記載なし
5. 「近世住友の銅製錬技術」(2017)によれば、鍰(からみ)はfayalite(鉄かんらん石 Fe2SiO4)が主体であること、化学分析による各元素定量値(質量% 14サンプルの平均値)は、
  Fe 41.5  Cu 0.6    SiO2 30.0  Al2O3 9.0  CaO 1.8  MgO 1.1  K 0.6  Zn 0.5 S 1.0 
上記分析と熱力学的解析で、鉑吹(素吹)では、モル比でSi:Al=2:1のフラックス(融剤)を約14%添加していたと推定している。


 以上が素吹炉、真吹炉に関連する記録である。

ラロックが初めて明治7年の素吹において、泥質片岩を焼鉱に対して(40/609=)6.6%添加していることを記録した。その後、明治13年の素吹において、雲母板石を焼鉱に対して(45/600=)7.5%添加していたことがわかる。
ラロックより1年前に別子を訪れたコワニェは、珪石の質や量を的確にすることは、炉の操業や、鈹の品質や収率の向上に役立つと知っていたはずである。この重要な操作が書かれていないということは、書き忘れたのではなく、この時は添加操作をしていなかったのではないだろうか。
外部(外国、国内)からの情報で、他の銅山では鍰を作るためにSiO2源を選び、意図して加える操作をしているところがあるということを知り、別子でもそれを参考にして添加操作をするようになったのではないかと推理した。

江戸期は添加操作をしていなかったとするならば、鍰をつくった大量のSiO2分はどこから供給されたのであろうか。その可能性としては、
1. 黄銅鉱や黄鉄鉱の鉱石にくっついている脈石 
2. 炉の内張りのブラスク(炭灰 すばい)中の粘土 
である。これらが、成り行きで反応して鍰となったのではないか。 別子では制御していなかったのではないか。もし制御していたら、添加珪石の種類や重量は重要なので、操作基準や添加記録があるはずである。
このようなことから、江戸期の素吹では、珪石の添加操作はしていなかったという仮説を立てた。以下これを検証していきたい。
添加していたということが書かれた古文書が見つかれば、この仮説は間違いである。(その古文書は既にあり、筆者が知らないだけかもしれない)。

注 引用文献
1. 住友別子鉱山史[別巻] (平成3.5.9 1991)に載っている8つの仕格覚を調べた。
 仕格覚は別子銅山の概況報告であり、幕府や松山潘の巡見使に提出されたものである。技術書ではないので、珪石の添加についてはもともと記載されなかった可能性が高い。
2. コワニェの明治6年(1873)別子銅山の視察記録「日本鉱物資源に関する覚書」石川凖吉編著 羽田書店(1944)→国会図書館デジタルコレクション コマ67~71 p114~122
3.  ルイ・ラロック「別子鉱山目論見書第1部」p150,157(住友史料館 平成16.6.30 2004)
4.  住友別子鉱山史-別巻- p132 「別子鉱山公用記 13番」
第2内国勧業博覧会出品(出品物名 銅鉱 鈹 荒銅 精銅 丁銅) 説明文:別子銅山の地質は、満山雲母石板にして、まま珪土薄層を雑ゆるものあり。壱番吹(素吹 鉑吹):この炉は従来供用せしもの。仕込みの鍰(弐番吹(真吹)よりでた熔渣)、千枚(センマイ、雲母板石)、鈹(かわ、紺色にして純銅100分の40ばかりを含有)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿