気ままな推理帳

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切上り長兵衛は実在した

2018-09-11 20:36:01 | 趣味歴史推論
平成に出版された書籍でも、切上り長兵衛は、実在したかどうかは分からないと書いているものがある。昭和60年以前ならその可能性があったが、平成では間違いである。孫引きで書いているのが多いことや、新居浜郷土史家の発見が知られていない、または認知されていないことなどが間違いの原因と思う。切上り長兵衛のためにも、郷土のためにも、郷土史家のためにも、大変残念なことである。
以下 切上り長兵衛は実在したとする筆者の根拠を記す。
1.切上り長兵衛の位牌と過去帳に記載があること。
2.切上り長兵衛の妻子の墓碑があること。
3.切上り長兵衛は、「宝の山」に全国11か所の鉱山と関わりがあったことが、書かれていること。
4.切上り長兵衛は、実在した人物である田向重右衛門に会って、話をしたことが、「伊予国宇摩郡別子山村足谷御銅山新見立之覚」及び「豫州別子御銅山未来記」に書かれていること。

[1] 切上り長兵衛の位牌と過去帳に記載があること。
位牌と過去帳の写真を添付した。1)
写真より、位牌は繰出位牌の中の白木板であることがわかる。
位牌の字は2)
皈眞 海山利白信士各位 
宝永五子年三月廿九日
裏面に俗名、年齢は書かれていないようだ。皈(き)は 帰の俗字である。臨済宗、曹洞宗では、新帰元(新たに亡くなった、真実に帰るという意味)として、物故、帰元、帰眞などと白木の位牌の戒名の上に書かれる。帰眞(きしん)とは、この現実世界から眞寂本元の世界(仏国浄土の世界)に帰ったという意味である。「各位」の所は、普通は 「霊位」と書かれるべきであろうが、なにかわけがあって「各位」となったのであろう。
この位牌には、皈眞と書かれているので、仮位牌である可能性が高い。仮位牌は、葬式のときに用いられ、四十九日の忌明けで成仏するとその証として本位牌に替える。本位牌には、「帰眞」「霊位」とも取り、戒名のみにする。3) ただし、位牌に上頭文字として、物故、帰元、帰眞と書かれるともあり、この場合の位牌が本位牌なのかどうかは、わからない。4)
位牌の文字は、宗派が同じでも、時代、地域、寺により異なることがあるという。今の場合、仮位牌かどうかは繰出位牌の中の他の位牌を調べて比較すればわかることではあるが。
本論では 断らない限り、単に位牌と記す。
この位牌があるということは、海山利白信士なる人物が実在した証拠である。
この位牌は、どこで作られたものであろうか。加藤家の繰出位牌にちょうど納まるのであるから、加藤家の菩提寺である慈眼寺であろう。慈眼寺は、禅宗曹洞宗派で、本寺は奥州磐城(福島県いわき市)の長源寺である。5) 位牌の上頭文字である「帰眞」も曹洞宗で使われるので妥当である。
戒名について考察する。
「海山利白信士」は(かいさんりはくしんじ)と読むのが妥当であろう。山は漢音にてサンと読むとあるから。5) 道号の「海山」(かいさん)も、戒名の「利」と「白」も一般的に使われる。5)
山の鉱石を鋭い鏨(のみ)で打ち、利を生み出すことに優れた人を表していると思う。

過去帳は、郷土史家の調査で、寺の過去帳とその写し(控え)が見つかっている。6)7)
(1) 慈眼寺 書き流し帳(死亡順、年表式)
 海山利白信士 宝永五子三月廿九日 銅山ノ切リ上リ長兵衛ヿ(こと) 濱井筒屋施主
(2) 眞鍋家 写しは、歿日別帳(月命日毎)となっている
海山利白信士 宝永五子三月 銅山ニ而(にて)切リ上リ長兵エヿ(こと) 濱井筒屋施主 

没年は宝永五年(1708)で別子大火の14年後である。
(1)は、慈眼寺の過去帳のうちの第一巻(延宝~宝暦年間 1673~1763)の中、右余白に、書かれており、その字体は、過去帳全体の字体と異なっている。
(2)は、「三十日」の 直前にあるので、月命日「廿九日」の最後に書かれていることがわかる。5)それは、長兵衛の命日である。そして、「海山利白信士」から順に遡ると、元文四年(1739)、寛保元年(1741)、寛保元年、寛保元年、元文四年、元文四年、元文四年、元文三年 とある。これらの新しい年の後ろに、古い宝永五年(1708)の海山利白信士が書かれているので、やはり後で書き加えられたと推定される。その時期としては、元文、寛保に続く延享-寛延-宝暦(1744~1763)である。正岡慶信は、住友が立川銅山を吸収合併して大別子銅山とした寛延二年(1749)以降に挿入されたとすでに推測しており、筆者もその通りで、寛延二年(1749)~宝暦であると推測する。

次に この位牌はいつ作られたのであろうか。考えられるのは、以下の2つである。
(1) 没年---宝永五年頃
(2) 過去帳に記入とほぼ同時---寛延二年以降
(1)と(2)では、41年程度の隔たりがある。
 この位牌には 俗名と年令は書かれていないので、(1)とすると、この位牌を元に、41年後に、過去帳へ「銅山の切上り長兵衛こと」と書き入れるのは難しいであろう。
ただし、濱井筒屋が位牌と合わせて、文書(俗名、由来)を保管していれば、別である。しかし今のところそのような文書は見つかっていないので(1)の可能性は低い。よって(2)の可能性が高い。
寛延二年(1749)当時の慈眼寺の和尚は、第十世 天亮周應和尚であり、宝暦六年(1756)からは22年間は、第十一世 玉峯玄透和尚である。また宝永五年当時は、第五世 瑞山本的和尚であり、元禄十年から宝永、正徳をへて享保二年(1697~1717)の間、在職した。
①過去帳への記入は、没後41年以上である。②仮位牌であるとすると、ずっと仮位牌のままである。本位牌は見つかっていない。③施主が切上り長兵衛の親類縁者でない濱井筒屋(加藤家)である。
など疑問は残る。

[2] 切上り長兵衛の妻子の墓碑があること。
大正五年蘭塔場より移転して瑞応寺西墓地にある切上り長兵衛妻子の墓碑の刻字は以下のとおりである。8)

   元禄七甲戌年 切上長兵衛妻子
  相誉妙有信女
  一誉浄圓信士
   四月二十五日 俗名石見五良

裏には刻字なし。戒名の上の梵字「キリーク」は阿弥陀如来。
刻字は、誉号として 相誉、一誉としているので、浄土宗の様式である。この「妻子」の意味するところは、「妻と子」であろう(「妻」の意味に用いられることもあるが)。信女が上位にあたる右側に刻字されていて、男の信士が左側に刻字されているので、母と成人した息子であると見られる。
墓碑は、巾0.6m 高さ0.8mの青鉄平石(緑色片岩)の一枚石で、立派なものであり、祀られた人の立場を反映しているのであろう。
二人の没年月日は、元禄七年四月二十五日で、別子大火災の日で132人の没年月日である。しかし、元禄七年四月(五ノ誤)廿六日に泉屋重右衛門、平七が泉屋大坂本店を経由して京都町奉行所に届けた「死人銘々名書人数高改申来覚」には、切上り長兵衛の妻と子の記載がない。9)よって、切上り長兵衛の妻と子は、別子大火災で死んだのではなく、死因は分からない。ただ132人のうち、32人の死者は、名前が分からなかったとあり、その中に含まれていた可能性はゼロではない。
死因が火災であろうが、なかろうが、実際の没年月日が少し違っていようが、本論においては、二人の墓碑が存在すること自体が重要で、切上り長兵衛の妻と子が実在したことは明らかである。「切上り長兵衛」の妻子とあることから、切上り長兵衛が実在したと言える。
「別子開坑二百五十年史話」によれば、
「とにかくこの大火災は、住友家として前代未聞の椿事であり、且つ未曽有の大惨事であるため、家長並びに先代友信君は驚愕悲痛措くところを知らず、直ちに寶善寺住持を山に上せて殉職者およびその家族の諸霊を篤く弔ふと共に、遺族の慰藉と救護に最善を盡くし、一方泉屋理右衛門、田向重右衛門等を急派して、その指揮のもとに、吉岡鑛山より送れる多数の鑛夫を働かせ、ひたすら別子の復興に力めしめた。」とある。10)
妻鳥季男は、「寶善寺は浄土宗の寺のようである」と註釈している。11)
開坑以来その経営に當たりこの大火災で亡くなった元〆 杉本助七(勘庭詰助七)の墓碑が、切上り長兵衛妻子の墓碑の右隣り(上位にあたる)ふたつ目にある。墓碑は同じ青鉄平石で一まわり大きく、その刻字は、

玉誉一的居士 俗名 泉屋助七 元禄七甲戌年四月二十五日

である。誉号として玉誉であり、やはり浄土宗である。
筆者は、住友家が別子銅山元締めの助七の墓碑(浄土宗)を作る際に、既に亡くなっていた切上り長兵衛妻子の墓碑を助七と同じ浄土宗で作ったと推定する。そのために誉号となっているのである。この墓碑の立派さや戒名などから、切上り長兵衛は別子銅山に大きな貢献をした人であることが分かる。

[3] 切上り長兵衛は、「宝の山」に全国11か所の鉱山と関わりがあったことが、書かれていること。
「宝の山」は、別子の第二期開拓もその効果がいよいよ望み薄となった宝永の末年(1710年頃)に住友大阪本社で着手し、三十年後の元文五年迄段々書きつづけられたもので、全国を山城から対馬に至る六十六箇国に分け、国別に金・銀・銅・鉛・白目等鉱の鉱山を五百箇所余り列挙して、これに住友自身の実地調査や各種の聞込旧記等により、所要の註記つまり年月・見分者・見立・沿革・将来の参考事項等を書込んだものである。12)

切上りは、三河の津具金山、美濃の畑佐銅山、越前の面谷銅山で若き時に稼いだと申している。また出雲の橋波銅山では、先年切上り長兵衛稼止めとフルネームで書かれている。播磨の桜銅山、豊後の大平銅山で稼ぎ、豊後の尾平こしき銅山では坑道を掘り、石見の津和野領亀井谷銅山、出雲の佐詰銅山、豊前の香春銅山、薩摩の阿久根銅山の情報を申している。13)

[4] 切上り長兵衛は、実在した人物である田向重右衛門(たむきじゅうえもん)14)に会って、話をしたことが、「伊予国宇摩郡別子山村足谷御銅山新見立之覚」及び「豫州別子御銅山未来記」に書かれていること。15)

(1)「新見立之覚」は、銅山執務上の参考として、別子銅山支配代官交替順序書並に立川銅山沿革覚書、別子銅山銅吹炭運上銀、焼木・板・鋪内留木柱の伐採、銅山附林山等の発端に関する文書を集録して一綴とし、その巻首に綴り合はした覚書で、この一綴の小冊子は宝暦九年(1759)に出来たものらしく、問題の「新見立之覚」もこの時始めてできたものと思われる。
「伊予国宇摩郡別子山村足谷御銅山新見立之覚」
1. 元禄三年午六月伊予國西條御領分立川銅山ニ相働居候下財長兵衛、立川銅山を立退此方ニ而相稼居候備中國吉岡銅御山江罷越シ、重右衛門 助七 平七等江申聞候者、立川銅山之南方峯越ニ山色宜キ銅𨫤筋在之所見届置候旨為相知候、-----

(2)「未来記」というのは、明和三年(1766)六月に記録されたもので、嘗て切上り長兵衛が、親友源四郎に遺言として別子銅山の将来に対する見解を語ったものを、源四郎の孫 金十郎が傳えていて、偶々豫州より上阪の節物語ったので、(住友)友俊が将来のためにとて直接の聴取者 傳右衛門に手記させたものである。
「豫州別子御銅山未来記」
1.山留切リ揚リ長兵衛 同山留源四郎 久右衛門 共に阿州之産、備中國白石銅山之稼人、也、其後同國川上郡吹屋村銅山に移居、支配人重(十)右衛門 助七在勤中有功之者共也、年舊敷致住居候故同所本教寺者頼ミ寺也、切リ揚リ長兵衛伊豫國新居郡立川銅山江立越暫致住居候、此間に立川銅山南方峯越に大𨫤鉉銅山有之事を見立、密に備中國吹屋村十右衛門方江参り此趣を告知せ候、-----
2.-----其頃長兵衛莫逆の友 源四郎に密に示しけるハ、此銅山日本第一の御山にて永々繁昌すへき事疑ふへからず、-----、------此趣を其方子孫に可申傳と遺言せしとなり、源四郎より其子九左衛門に傳へ、九左衛門より其弟半右衛門に傳へ、半右衛門より其子現 金十郎に遺言ス、金十郎弟元七といふ幼年より傳右衛門方に勤仕致し其母も寓食す
3. -----
4.金十郎、明和三丙戌年五月二日重左衛門船ニ乗豫州新居濱出帆、同十二日大坂九之助町傳右衛門宅江着、同人母江旅用銀傳右衛門致合力金十郎母子勢州 御宮江参詣、同廿二日又傳右衛門宅江帰着、逗留中右長兵衛遺言之秘傳を密に致物語候、金十郎母同弟元七其友四人同伴、同六月十五日忠七船に乗リ大坂出帆致帰國候
右之趣 理兵衛(友俊)江傳右衛門より申達候ニ付、傳右衛門自筆にて御銅山帳面に為致書記、永子孫に傳置者也
 明和三丙戌年六月十五日

切上り長兵衛が友 源四郎に話したことが、源四郎→九左衛門→半右衛門→金十郎→傳右衛門と伝わり、傳右衛門が書き記したということがわかる。
なお、この覚書は、切上り長兵衛が、阿波の出身といわれるもとになったものである。

ここまで書き上げた直後、曽我幸弘氏に 偉大な先達の伊藤玉男の書いたものがあると知らされた。各事項を検討したもので、非常に参考になる。16) また、そこには「私は長兵衛の存在そのものを否定しているのではなくて、通説のように別子銅山の最初の発見者は長兵衛なんかではない、と言っているに過ぎないので、彼の末路のことなどは余り興味もないし調べてもいなかった」と書いている。

注 引用文献など
1.写真コピーは、新居浜の「別子銅山の歴史を学ぶ会」の前会長 曽我幸弘氏の好意による。
2.毎日新聞 昭和59年(1984)8月4日「加藤さん宅で位牌確認」コピー添付 
新居浜の郷土史家 村尾利夫が、昭和59年(1984)7月中旬、新居浜市港町の加藤敏雄宅(濱井筒屋)の仏壇に祀られている先祖伝来繰出位牌の中にあった「海山利白信士」の位牌(縦20cm,横5cm)を見つけた。この繰出位牌は延宝八年康申年(1680)以来、加藤家に保管されている先祖代々の位牌である。
加藤敏雄は、この位牌が切上り長兵衛であることをずっと知らなかった。
3.くらとも仏壇ホームページ 「位牌・仏具などの基礎知識」「お位牌」 
金光泰観墓相研究所ホームページ 各宗派の戒名「曹洞宗」
葬仙ホームページ 戒名の話
4.禅宗 院号・道号・戒名字典(慧岳曲水編著 国書刊行会、平成元年12月(1989))
5.白石正雄 「慈眼寺史」p219,p243 (慈眼寺伽藍再建立建設委員会発行 平成4年(1992)11月)
6.新居浜の郷土史家 藤田敏雄が、昭和59年(1984)5月、慈眼寺にある延宝-宝暦年間(1673-1764)の過去帳に「切り上がり長兵衛」を発見した。
毎日新聞 昭和59年(1984)6月1日 「愛媛で過去帳見つかる」コピーを添付
朝日新聞 昭和59年(1984)5月31日
愛媛新聞 昭和59年(1984)5月31日「元禄の大火逃れていた?没年は14年後」
読売新聞 昭和59年(1984)5月31日
7.新居浜の郷土史家 正岡慶信(芥川三平)が、慈眼寺に過去帳が見つかった後、慈眼寺を菩提寺とする当時の金子の庄屋、真鍋家(新居浜市河内町)にある過去帳の写し(控え)を調べたところ、同じ内容の記述があることを見つけた。
8.瑞応寺西墓地にある切上り長兵衛妻子の墓碑の写真のコピーを添付
9.住友修史室 泉屋叢考第13輯「別子銅山の発見と開発」附録 別子銅山発見開発関係資料p19(昭和42.10)
同じ内容(但し、日付の間違いを訂正していない)が、編者 住友史料館 住友史料叢書「別子銅山公用帳 一番・二番」p30(昭和62.10.20 思文閣)にもあり。
10.「別子開坑二百五十年史話」p115
11.妻鳥季男「瑞応寺西墓地の怪について」新居浜史談352号p28(2004.12)
12.住友史料叢書[6] 監修小葉田淳 編集住友資料館今井典子「宝の山 諸国銅山見分扣」(思文閣出版/京都 平成3.12 1991)
13.「気ままな推理帳」ブログ 「別子銅山切上り長兵衛の霊と藤田敏雄の対話」(2018.3.27)に「宝の山」で切上り(長兵衛)と書かれた部分のコピーあり。
14.曽我孝広のホームページ 別子銅山 人物伝
田向重右衛門(初代)(タムケジュウエモン) 承応3~享保9年(1654~1724)
住友家の手代。法名道智。備中吉岡銅山の支配役を勤めるとともに、元禄3年(1690)秋には、抗夫切上り長兵衛の報告を受けて別子山中を踏査し、鉱脈を確認するなど、別子銅山の開坑にあたって重要な役割を果たした。これらの功績に よって田向重右衛門は別家の重要な名跡となり、代々襲名した。
15.住友修史室 泉屋叢考第13輯「別子銅山の発見と開発」附録 別子銅山発見開発関係資料(昭和42.10)
16.伊藤玉男「頼み寺」山村文化28号p40(山村研究会 平成14.11)





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