気ままな推理帳

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切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた

2018-11-15 10:03:22 | 趣味歴史推論

「宝の山」の中に、「切上りまたは切上り長兵衛」と多数箇所記載されていることは、よく知られたことで、前の報文でその箇所をまとめて添付した。1) ところが、「宝の山」の中には、「庄屋長兵衛」と記載されている箇所があり、これも「切上り長兵衛」ではないかと、伊藤玉男がはじめて「頼み寺」の中で、指摘し、庄屋長兵衛は、開坑早々の別子銅山いたと推察した。2)
このことに関して、少し詳しく調べたので報告する。
「宝の山」の人名索引の「切上り(長兵衛)」の所には、「庄屋長兵衛」のページは記載されていない。「長兵衛」の人名は記載がない。編者は、庄屋長兵衛は切上り長兵衛と同一人物であると認めなかったのであろう。
「庄屋長兵衛」は、伊藤玉男が指摘した箇所「そう田間符」付近に加え、筆者は、もう1か所「下道川村古鋪」に記載されていることを見つけた。
「宝の山」から、関係個所を抜粋した内容は以下のとおりである。( )内は筆者。

享保10年(1725)巳4月、手代の平左衛門と重助が左(以下)に記した山所見分の覚書
1. 石見国邑智郡市木組見分所(以下略)
2. 同郡出羽(いずは)村組見分所
(1) 岩屋村の内、打通し1か所
但し、これは鉛である。(以下略)
(2) 同村の内、あい山1か所
但し、これは鉛山と見え、(以下略)
(3) 同村ほぼ並びに原山間符(以下略)
(4) 同村の内、右同断所、そう田間符
但し、これも6,7間山向きへ走り込んでいる。あい山、原山間符、そう田間符の3か所は、一つの山にある鉉筋3本を各人が銘々に開坑したものである。
右(上記)4か所は全て、石見銀山領の久喜山との境目にあり、山峰の表裏と近いまでにある。以前別子銅山にいたという庄屋長兵衛が、昔稼いでいたそうである。閉抗して、4~50年にもなるそうである。御代官平手六郎座衛門殿。
(5)都賀(つが)西村の内4か所(以下略)
3. 同郡跡市(あといち)組見分所(以下略)
 西方銀山銅山
4. 周布8か村の内
(1)~(6)吉地村、折居村、丸毛村、もちかとう、都茂村、炭川村(略)
(7)下道川村古鋪 木山がたくさんある
  但し、これは44~5年前に、 桑名や仁兵衛(にへえ)、すなわち別子銅山にいたという庄屋長兵衛が世話をした者、が稼いでいたそうである。間符数か所、もっともこのうち銀山であるという古鋪もあった。右(上記)場所は村より3里余り南へ入り、深山で、大木がたくさんある。広島境へ1里半。先年、銅山繁栄していたそうである。
(8)~(10)黒沢村、鍋石村、内村(略)
右(以上)の通りである。西方は総じて東と違い、(以下略)。

この部分は、泉屋手代の平左衛門と重助が記した享保10年(1725)の見分覚書であるということが重要である。
庄屋長兵衛なる人物が別子銅山にいたと泉屋の手代が書いていることなので、この記述の信憑性はある。享保10年には、立川銅山と別子銅山は、はっきり別で、対抗関係にあり、立川銅山を別子銅山と取り違えて書くとは考えにくい。すなわち、切上り長兵衛は、立川銅山に少しの期間稼いでいて、そこから田向重右衛門に知らせに言ったと「未来記」にあるが、この立川銅山にいた時のことを、別子銅山にいたと書いたのではないと思う。

手代の平左衛門と重助は ここの他にそれぞれ2か所の見分記録がある。
桑名や仁兵衛(にへえ)は、ここの他に以下3か所記録がある。
① 丹波国尾畑銀山では、「但し、伊予国にいる山留仁兵衛が地道に掘りかけたが、埒が明かないので、捨て去ったそうである。」
② 備後国尾原(おばら、小原)鉛山では、「山留仁兵衛が子供の時分に、得歩引(えぶひき、葛や竹を編んで作った籠・得歩を背負い坑口まで鉱石を運搬する人)をしていたので、以下のことを聞いた。」
③ 備後国尾原(おばら、小原)鉛山こつてい間符では「(略)、こつてい間符に鉑はたくさんにあると、この度召し連れた山留仁兵衛が言っている。」
山留仁兵衛は渡り鉱夫として、丹波、備後、石見、伊予にいたが、この経歴は切上り長兵衛とよく似ている。尾原(おばら、小原)鉛山こつてい間符では泉屋の見分に召し連れられる目利きとなっている。 

庄屋長兵衛は切上り長兵衛と同一人物であると推定する根拠を挙げる。( )内は筆者
(1)庄屋長兵衛は岩屋村の鉱山4)5)では、「昔稼いでいた」とのことなので、坑夫として働いていた可能性が高い。よって「庄屋」は、一般的な村役人職ではない。これに関しては、伊藤玉男が以下のように論じている。

 「庄屋というのは、鋪庄屋(しきしょうや)のことに先ず間違いはあるまい。鋪(しき)とは地中、坑内のことであり、庄屋とは親方と解してよいだろう。当時の鉱山労働者で親方になる者は、常に数名の手組をつくって(手下を従えて)採掘場(つぼ)を請負って、鉱石を掘り出していた。長兵衛は切り上りが得意だったと言うが、当時は銀切(かねぎり、鉱石に沿い採鉱の目的で掘削する坑道)という坑道は、水抜穴(排水坑)以外は掘削上経済的な切り上り又は切り下り(犬下り)であって、どちらも一人では出来ないから数名の手組で行っていた。従って、庄屋という文言から想像できることは、長兵衛は常に友子・仲間を連れて年季の長い、条件の良い鉱山(やま)を求めて移動していたのではあるまいか。」

長兵衛は若い時は、切り上りとして稼いでいたが、開坑した別子銅山では、鋪庄屋という親方として、働いていたと考えられる。
岩屋村の鉱山の閉坑は、享保10年(1725)より40~50年前とのことなので、延宝3年~貞享2年(1675~1685)となる。「未来記」によれば、切上り長兵衛は元禄元年(1688)頃に立川銅山へ移ったと推定され、それまでは、白石銅山~吉岡銅山に長年いたので、頼み寺として本教寺に縁があったとされる。この長年が10年位とすると、1678年から白石銅山にいたことになり、岩屋鉱山の閉坑(1675~1685)前に、岩屋鉱山で稼いでいてもおかしくない。
すなわち、庄屋長兵衛と切上り長兵衛は同一人物である可能性が高い。

(2)下道川村銅山は、亀井谷銅山のことか、同じ村にあった銅山である。6)
「宝の山」で、「切上り」と記された鉱山の中に、津和野領亀井谷銅山がある(P64)。書き手も書いた時期も違う。
「津和野領亀井谷銅山 
 但し、先年した切上りの新見立てを引き継ぐ。草際上を競い取って、下樋にして10挺だけ下まで掘りつくした。青石でできているとのこと。」

「切上り長兵衛」は亀井谷銅山(すなわち下道川村銅山)を見立てている。だから仁兵衛を世話できた。世話したのは、「庄屋長兵衛」と手代の平左衛門と重助に書かれている。
下道川村銅山では、庄屋長兵衛は、享保10年(1725)の44~45年前(1680~1681)以前に、桑名や仁兵衛を世話しており、この事は、岩屋鉱山で稼いでいた頃の長兵衛が世話をしたと考えると年代的にもよく合う。
以上ことから 庄屋長兵衛と切上り長兵衛は同一人物であるとして間違いない。
 
別子銅山開坑時に切り上がり長兵衛が、別子銅山で働いていたと推定する根拠は、以下のとおりである。
(1)享保10年の泉屋の手代の覚書に、庄屋長兵衛が別子銅山にいたとあり、これは切り上がり長兵衛と同一人物の可能性が高い。
(2)白石銅山、吉岡銅山で一緒に働いていた源四郎に別子銅山の未来について遺言するが、それを伝え聞いた源四郎の孫金十郎が新居浜に住んでいたことから、源四郎が別子銅山で働いていた可能性が大であり、この親友と一緒に、長兵衛が別子銅山にきたと推定できる。
(3)「未来記」のなかの長兵衛の遺言は、開坑した別子銅山にいて層状に厚く続く銅鉱床を見たので、以下の的を射た予言ができたと推定する。3)
「将来東南方向の嶮しい山で市左越の尾の下に坑道を掘下る頃は、鉱石の掘る量が減少し、歩留まりも劣るようになる。しかし、市左越の谷を90間か100間かの難所を掘りとおり、木挽平という大平山の下へ堀入れば、あちこちの鉱脈が落ち合う大鉱石に掘り当たり、切り地(坑道の垂直立面)を4~5間幅で切り通しすれば、中興開山大繁昌の御山になるに違いない。」

筆者の気ままな推理は以下の通りである。

切上り長兵衛は、吉岡銅山から移り立川銅山で2年位働いているときに別子の露頭を見つけそのことを吉岡銅山の田向重右衛門に知らせ、元禄3年の重右衛門たちの見分には加わらずに吉岡に留まっていたが、元禄4年に別子銅山開坑にあたり、源四郎や妻子(石見五郎)とともに、別子に来て、鋪庄屋として別子銅山で働きだした。長兵衛としては、自分が推して開坑した銅山でぜひともひと働きしたかったのである。
しかし3年後の元禄7年(1694)頃に妻子が亡くなってしまい、その直後に別子銅山を離れたのではないか。長兵衛の子は、戒名の位号が信士とあるので、成年(15才)以上である。生年は1679年(延宝7年)以前となる。名前に石見とあるので、長兵衛が岩屋鉛山か白石銅山にいたころに生まれた実子か、妻の連れ子であろう。

注 引用文献など
1.住友史料叢書[6] 監修小葉田淳 編集住友資料館今井典子「宝の山 諸国銅山見分扣」(思文閣出版/京都 平成3.12 1991)
2.伊藤玉男「頼み寺」山村文化28号p40(山村研究会 平成14.11)
3.住友修史室 泉屋叢考第13輯「別子銅山の発見と開発」附録 別子銅山発見開発関係資料(昭和42.10)「豫州別子御銅山未来記」
4.ポータルサイト「石見(いわみ)の種」の「石見の銀山」の中の「久喜・大林銀山」(吉川正著)
岩屋鉱山の歴史の概要や現在の姿が記されている。岩屋鉱山では、石見銀山(大森銀山)の銀製錬に必要な鉛を産出していいた。
5.ホームページ「邑南町の城跡」の「久喜・大森銀山跡」
最後の方に、「石見久喜・大林銀山・岩屋鉱山地図」があり、多くの間歩、坑口が記されている。
6.日本歴史地名体系第33巻 島根県の地名「美濃郡匹見町 下道川村」p718(平凡社 1995.7)
「下道川村は、匹見川の上流に位置し、東方の恐羅漢山を源流とする亀井谷川が西流して匹見川に合流する。亀井谷川沿いの亀井谷銅山は明和年間(1764~72)から採掘され、鉱夫が200人にも達したといわれる。」

伊藤玉男「頼み寺」の「庄屋長兵衛」の部分のコピー


「宝の山」の「庄屋長兵衛」の部分のコピー




「宝の山」の「仁兵衛」の部分のコピー


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