6時40分の始発バスで仙台に行き、新幹線に乗り換えて、東京駅へ。東京から新宿に中央線で行き、そこでまた小田急線に乗り換えて生田に行った。駅の改札前に庄野家の告別式の案内人が立っていて、送迎バスに案内してくれた。午後1時の告別式にぎりぎりで間に合った。すでに座る席はなく、式のあいだ立ちっぱなしであった。庄野潤三は、それほどの流行作家ではないが、愛読者はちゃんといて、読者と思われる弔問者が相当数いた。喪主の庄野夫人、千寿子さんに「絵合わせ」「野ガモ」の「群像」連載の時はとても良くしていただいてありがとうございましたと言うと、「あら、芳賀さん、おひげが長くなりましたね。まだ、前のところにお住まいですか」と尋ねられたので、「いや、今は宮城県に住んでいます。ひげはもう白くなりました」と応えた。「なにかはまだ庭にありますよ」と言われたが、そのなにかが良く聞き取れなかった。私が差し上げたものなのか、もう40年近く前のことで忘れた。いずれにしろ、私を思い出してくれたので嬉しかった。
式のあいだ出版社の担当者たちが、案内人をしていた。芸術院の三浦朱門院長の弔辞に続いて、2人ほど女性が弔辞を読み、弔電をいくつか読んでから横一列に5人ずつの焼香になり、私は14時前に終わったので、待合室に元の職場の同僚や先輩がいたのに対して、今日は日帰りでゆっくりできない旨話して、東京駅発15:40の新幹線で帰途につき、仙台発18:05の最終バスに間に合って帰宅した。香典返しに『けいこちゃんのゆかた」(文庫)が入っていたので、帰りの新幹線で読んだ。
式のあいだ出版社の担当者たちが、案内人をしていた。芸術院の三浦朱門院長の弔辞に続いて、2人ほど女性が弔辞を読み、弔電をいくつか読んでから横一列に5人ずつの焼香になり、私は14時前に終わったので、待合室に元の職場の同僚や先輩がいたのに対して、今日は日帰りでゆっくりできない旨話して、東京駅発15:40の新幹線で帰途につき、仙台発18:05の最終バスに間に合って帰宅した。香典返しに『けいこちゃんのゆかた」(文庫)が入っていたので、帰りの新幹線で読んだ。