庄野潤三が亡くなったことが一昨日の新聞で伝えられた。
私が「群像」に配属されて直ぐに、「絵合わせ」の連載を担当させられ、1971年に「絵合わせ」が単行本となり野間文芸賞を受賞した。庄野氏とはウマがあったのか、その翌年、どういうわけか、私の名前を使った『明夫と良二』が岩波書店から出版されて毎日出版文学賞と赤い鳥文学賞を受賞している。
その頃また、『野鴨』の連載を担当して、1973年に単行本になり、その年に庄野潤三は日本芸術院賞を受賞している。
小田急線の生田駅から西三田団地の中を通り抜ける坂を上りきったところに庄野家があり、そこに毎月少なくても二回通い、夕飯やお菓子をご馳走になったりしたが、すべて奥さんの手づくり料理で格別に美味しかった。2年間以上通ったことになる。
私が月刊誌「群像」にいた頃は、第三の新人の全盛期で、その後、私が学芸、美術出版に移ってからも例えば、遠藤周作とは、交際が続き、「イエスに邂った女たち」を写文集の単行本にすることが出来た。また、遠藤周作に頼まれて、インドの最もインド的なところに一週間で連れて行ってほしいというので、バナーラスに案内したのが、『深い河』という書き下ろしの単行本になってその作中人物で、私が「江波」と言うガイド役のモデルになっている。遠藤周作は、この『深い河』を発刊してその年の文化勲章を授章している。
私が「群像」に配属されて直ぐに、「絵合わせ」の連載を担当させられ、1971年に「絵合わせ」が単行本となり野間文芸賞を受賞した。庄野氏とはウマがあったのか、その翌年、どういうわけか、私の名前を使った『明夫と良二』が岩波書店から出版されて毎日出版文学賞と赤い鳥文学賞を受賞している。
その頃また、『野鴨』の連載を担当して、1973年に単行本になり、その年に庄野潤三は日本芸術院賞を受賞している。
小田急線の生田駅から西三田団地の中を通り抜ける坂を上りきったところに庄野家があり、そこに毎月少なくても二回通い、夕飯やお菓子をご馳走になったりしたが、すべて奥さんの手づくり料理で格別に美味しかった。2年間以上通ったことになる。
私が月刊誌「群像」にいた頃は、第三の新人の全盛期で、その後、私が学芸、美術出版に移ってからも例えば、遠藤周作とは、交際が続き、「イエスに邂った女たち」を写文集の単行本にすることが出来た。また、遠藤周作に頼まれて、インドの最もインド的なところに一週間で連れて行ってほしいというので、バナーラスに案内したのが、『深い河』という書き下ろしの単行本になってその作中人物で、私が「江波」と言うガイド役のモデルになっている。遠藤周作は、この『深い河』を発刊してその年の文化勲章を授章している。