吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

若いアナウンサー

2005年05月31日 18時32分39秒 | Weblog
 KBSテレビを見ていたら、若いアナウンサーがとある老人福祉施設内で取材していた。
 周囲の環境から日本では立ったまま取材するシーンを韓国のアナウンサーは部屋に入る前に、深くお辞儀をして、取材相手の老婆をまるで母親に尽くす姿勢と言葉で質問と激励をしていた。
 あるキリスト教会付属幼稚園の保母さんは、
「一番大事な事は、目上の人を尊敬する子をはぐくむことです」
 と答えていた。
 ソウル駅待合室で見た光景は、亡き母を思い出させた。
 故郷に帰るかもしれない、年老いた婦人の両手をなんどもなんどもやさしく撫でながら、じっと顔を見つめている娘の姿に深く感動した。
「お母さまは風邪がもとで九十才で亡くなられました」
 初めて逢った時、ある友人はそう言った。
「母は風邪をこじらして九十才で駄目でした」
 日本人なら身内に敬語はつかわずそんな風に言うが、私はその時、激しいカルチャショックを受けた。そのご度々、身内なのに課長様、社長様、と言う言葉をしばしば耳にした。
 韓国の儒教がしみこんだ孝養の精神は徹底している。
 …枝の多い木に風の休む日はない…。
 親は子供が多ければ多いほど、人を尊敬し、社会に役立つ大人になってほしいと考え、苦労するけどそれが幸せと言う諺です。
…寝る子は育つ…この日本の格言とはだいぶ違っています。
 以前にK氏が成功した根本的言葉、嘘をつかない…にも次の格言があります。
 …鶏をつかまえて食べ、アヒルの足をだす…。
 失敗を隠そうとしても何時かばれてしまう…こんな言葉を母は子供に言い聞かせ、よき大人になるよう気をつかうのです。 
 もし子供が嘘をついたのを知った母は今流に言えば超激怒となります。

韓国人のユーモア

2005年05月31日 12時42分57秒 | Weblog
 いままで接した韓国人は皆ユーモアを自然に発揮する。
 物を見るのに笑いを発見してるような気がしてならない。たとえば蝙蝠(こうもり)は古くから韓国では五福の生き物として、古くからの伝統文化として今日まで、陶磁器、螺鈿細工、李朝箪笥などによく蝙蝠のデザインが使われる。
 たとえば茶に使う食籠(じきろうう)の模様、箪笥の鈎や取っ手は蝙蝠でデザインされている。
 私が初めて蝙蝠を見たのは幼少の頃、家近くの笹藪のなかだった。 小学校で蝙蝠は二股膏薬(どっちつかずの卑怯者)の譬えとして先生から教わった。ともかく暗く不吉なイメージしかない。
 蝙蝠を五福の動物とした歴史は遠く、新羅、百濟、高句麗、時代から模様としてほかの竜や虎とともになじんできた。
 日本人は蝙蝠を不吉で気味悪い動物としてきたが韓国人は文字の作りが幸せが遍く…としたのみならず宗教的感覚からか…。
 虫偏の虫は古代甲骨文字の蛇である。
 グロテスクとして感じた日本人と愛すべき模様化にした韓国人との民族性格が分かって面白い。
 韓国の仮面劇を見た人はなぜあのような笑いを誘う面をつけるのだろう?と思ったであろう。とくに痘痕(あばた)面の大袈裟な表現、また今も残る長柱(チャンスン)の出っ歯で眼がぎょろりとした地下大将軍の顔。韓国人は古来から物事を明るく楽しく見てきたにちがいない。かって外国から侵略された回数が、倭冠を主として八百数十に及ぶ国なのにその天性の明るさは失われていない。
 韓国旅行をされる方は一度、市場のど真ん中に衣類を山積みして喋りまくって売る兄(アニ)貴逹をしばらく観察してみてください。 まさにお笑いの名タレントぶりが楽しめる筈である。
 彼等はたまに行う市場警備員の整理員がやってくるといち早く衣類の山をかついで姿をけすが、すぐもどって事もなげに、イ、チョノン!イ チョノン!(二百円)と絶叫の手をたたく。
 私がTシャツの数枚を手にすると…アリガトウゴジャイマス!と言った。






喧嘩

2005年05月29日 17時56分47秒 | Weblog
 喧嘩と言っても諺の話である。
 友人のA氏と利川のT窯へ行った。
 酒好きなA氏は早くソウルへ帰りたくて、登り窯(今はすべてガス窯)の炎口でどうも落ち着かない。
 私は運転手のU君に合図してまだ午後三時なのに井戸端へ行って手を洗った。
 大きな洗面器だったので、彼の手の横へ私の手をいれた。
 突然、
「さぁ!吉松先生と喧嘩をしょうか!」と言う。
 はてな…喧嘩?私は首をひねった。
「ハッハッハ…ウリナラの格言ヨ…同じ器で二人一緒に手を洗うと あとで喧嘩するヨ…と言われてるヨ」
 A氏の眼はテレビのコメデアンのように悪戯っぽい。
「よしよし、今夜はフカ酒をおごるよ…あいつはフカみたいに興奮 させるからな…」
 私逹は国道へでた。
 ラッシュが始まっていた。
「U君!もっとスピード頼むヨ」
 A氏は子供のように気がせいている。
「ハハハ…慌てる乞食はもらいが少ないぞ…」
 私がからかうと、
「両班は尻から琵琶の音!…」A氏はすかさず答えた。
 これはなにごともせかせか慌てる両班を揶揄した諺。
 相変わらず両班きどりだ。
 南大門あたりから渋滞がひどくなった。
 ソウルでは渋滞緩和の策として自動車ナンバーを奇数日、偶数日と分けて乗り入れ指導をしたが、違反車は減らない。
「明洞まで歩いて十五分だ!ここで降りよう」ミスター琵琶はたまらず車を降りた。
 結局、二十数分かかって目的の日式料理店に到着したが、なぜ日式にするのか理由は日本酒、しかもその店にヒレ酒があるからだった。

ある酒宴

2005年05月29日 13時03分00秒 | Weblog
鐘路の日式料理店で文化財専門委員二人、国立文化財研究所長、東国大学教授、韓国を代表する陶芸家、そして私の六人で酒宴を開いた。
 発起人は友人の酒豪、文化財委員のA氏である。この店は東国大学の教授逹の溜まり場でもあった。
 文化財研究所は主として古墳の発掘調査を行い、天馬塚(新羅時代)の発掘もK氏逹メンバーがおこなったのだ。
 古墳発掘にさいしてかならず地元の農民が強く反対し、発掘し始めるとかならず激しい雷雨にやられたと言う。
 王のたたりで、天変地異が起きると信じていたからだ。
 K氏は戦前、日本のM大学で学んだ工学博士である。
 昼間は電気メッキ工場で働き、夜学で単位を取得したと言った。 K氏は日本の松本清張を尊敬しているがその理由が面白い。
 来韓した清張と会ったK氏は贈呈本の清張の署名が…きちんと楷書で書いてあり、それに感動したヨ…と言う。署名はいかにも達筆風なくずし文字が多いが、清張のは人柄がにじんだ文字だったと言ったが面白い感想だ。
 東国大学のG教授は戦後生まれ、いわゆるハングル世代の四十三才、A氏は…彼は日本嫌いの男ヨ…とG教授を紹介した。
 この店の酒は大関である。あっと言う間に一升瓶二本が空になった。三本目がテーブルに置かれ、グラスにこぼれるほど注いだG教授は、
「秀吉はなぜ天皇を倒さなかったか…そのわけを聞かせてほしい」 と私に訊ねた。
「秀吉はこの国の壬辰倭乱(イムジンウェラン)の李朝実録に宣祖 王の二十五年、倭酋と記録されてますね…酋は未開人の意味…後 陽成天皇に秀吉はたびたび参内してますヨ、尊敬してるのです… 倒す気持ちは考えてもいない…」
 説明になっていないが、A氏が通訳してくれた。
 G先生は納得しかねた表情だった。私は韓国民謡の(コレタギ)東京ワ偉イ 偉イワ 天皇 天皇ワ人間 人間ワ私。を思い出した。「去年、学術会議で大阪へ出張、日本の良さが少し分かった!」 とG教授は言い、グラスを傾けた。
「また来月、ここで会を開こう!」
 A氏は名目はどうでも酒宴の好きな人物である。

街の温泉

2005年05月28日 17時15分12秒 | Weblog
ソウルへ走る車の窓から至る所に日本でお馴染みの温泉マークの煙突看板が見える。
 友人のK氏に日本から朝電話するときまって奥さんが…今、留守でサウナヨ!ヘンドホーン、チョナブタカムニダ!と返事が来る。 サウナ風呂とは銭湯のことだ。そこへ携帯電話してくださいと言うわけだ。
 その温泉マークへ友人と行って見た。若い男が満面に愛想こめて、オソォセヨ!と迎えてくれ、キーを手渡される。廊下の横に床屋もあって客がのんびり椅子に横たわって爪切りしているが料金は別に二千ウォンを支払う。湯船の縁の広いタイルには数人の男が大の字だった。蒸し風呂が素晴らしく入っただけで汗がわき出てくる。ヨモギ草がずっしり垂れ下がって蒸気が凄い。
 アカ擦りの兄さんから声をかけられる。ふと客の背中を見ると気持ち悪くなるほど、消しゴム状のアカがおちるまでごっしごっしと擦っていて、料金はわずか千ウォン(約、二百円)だから断じて安い。
 友人はタイルにあお向けに寝そべって眼を閉じている。日本人のようにあそこは丸出しで隠さない。じつに開放的な温泉である。
 街の温泉マークの密度から見て、日本人以上に韓国人は銭湯好きではないかと思う。飲み物も自由だが、帰る時に精算すればよい。 博物館の帰りあまり寒いので景福宮前の大道路を横ぎつた路地奥に、国会議員もくると言う高級温泉マークがあった。外の気温はマイナス十五度。フロントの横に可愛い女の子が五人ほど紺のそろいのスーツ姿で私に視線をおくってきた。
 料金がふつうの五倍もしたのでさすが待遇がいいと感心してたら、私の当番?らしい小柄なとても美しい子がキーを片手にオンドルの個室を開けてくれ、よく糊のきいたバジャマをだして着せてくれる。 あれっと!思ったがすぐヨモギサウナ室へ飛び込んだ。
 すっかり汗を流し、へやに戻ると女の子が開けてはいってきた。 頼むとビールの出前までしてくれ、キムチを肴にして喉を潤す間女の子はサービスしてくれたので、五千ウォンをチップにだしたらとても大きい声でカムサムニダ!と言われた。
 あとでK氏にその事を話すと、ストレス発散場所で有名ヨ、街の銭湯とは違ったでしょう…と笑っていた。

不浄の手

2005年05月28日 13時46分39秒 | Weblog
やきもの以外、なんの予備知識もなく韓国にきて、早速失敗をやらかした。
 南大門近くの天幕(テポチプ…飲屋台)で、隣にいた好青年に話しかけ、気がうちとけて、メッチュ(麦酒)をどうぞと差し出した途端…駄目ですヨ!左手は不浄です…と厳しい表情で手を振った。 右側に座った青年には左手のほうが注ぎよいのでそうしたのだった。
 二人の青年は真露(焼酎)を酌み交わしながら大声でしきりに議論していた。                         議論と言えば私の郷里、土佐人も議論好きである。実家は番役の五十石郷士だったが土佐は長曾我部以来、百姓の反逆精神、いわゆるいごっそうな人間が育つ風土、外来の山内藩武士にたいするいごっそう精神は村のすみずみまで行きわたっていた。        韓国の青年が議論好きなのは長い伝統を持つ儒教をバックボーンにした両班への風刺、反逆精神の気脈のせいかと思う。
 青年の一人はソウルの南、水原(スゥウォン)が故郷(コヒャン)で曽祖父は三.一独立運動の犠牲になって教会で死亡したと明かしてくれた。
 日本人の私に言うのはよほど親しみを持ったからこそと、私は言葉を失って黙って頭をさげた。
 この事件は独立運動の闘士逹を教会に閉じ込めて憲兵隊が火を放ったと言う残虐事件である。
 街へ出て食堂に入った。やはり、韓国人はスプーンと箸を右手で使って、飯椀は置いたままであった。日本人なら飯椀をぎっちょなら反対だが左手で持つが、左手を不浄の手とする韓国人はまず、左手を使わない。
 男性トイレもしかり、後から見て、左手をそえてるのは韓国人、右手を添えているのは日本人と知った。
 民俗村の広大な両班屋敷の牢獄も建物の左にあり、左遷、左道 (李朝の儒教以外の思想)など左は不遇である。
 年上から勧められる酒を飲む時は顔を横にして左手で口を隠すようにして飲む光景に私は感動したのだった。

論山まで

2005年05月28日 08時18分05秒 | Weblog
 ソウル駅は朝鮮総督府時代に開業した幹線駅で戦前は北の新義州を経て旧満洲にいたる全長七百キロに及ぶ幹線鉄道の中心駅である。 東京駅と同じく落ち着いた煉瓦建築で、今もそのまま保存され、ホームも旧上野駅を彷彿させる。
朝の八時三十分発の急行列車(特室)に乗った。
 目的地の論山(ノンサン)までの途中、大田(テーチョン)で釜山行きと南端の麗水(ヨースイ)行きに分かれる。
 駅のホームでうろうろしてると、いち早く日本人と知った駅員が私を指定車両まで案内してくれた。
 私は気動車の発車合図の警笛の音を聞いて一人笑いをした。   のんびりした韓国の赤牛の鳴く声に似ていたからだ。
 忠清道庁のある公州を経て論山まで約、一時間半の旅である。
 日本の旧急行列車と同じく向かい合った四人がけの座席に、故郷の麗水へ帰る女の親子連れが…失礼します…と会釈して乗り込んできた。
 発車して間もなく、社内販売がやってきたので、ガムとスナックを求め、そっと五才くらいの女の子の手ににぎらせた。
 驚いたのはその時だった。
 恥ずかしそうな小さな声で…コマヨ!(ありがとう)と言った途端、突然、イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュ、と早い日本語の数がとびだしたのだ。
「銀行勤めの主人が教えたんです…」と若い母親は微笑みながら言った。
 それにしてもどうしてまだ五才くらいなのに私を日本人と見破ったのか、ソウルの繁華街で群衆に混じって歩く私に…社長さん!安い時計アルヨ!とよく声をかけられたが、韓国人が日本人を見分ける能力は凄いと思っていたら、子供まで…この感覚は民俗本能としか思えない。
 窓外の風景は平坦で田園が美しくひろがり、昔から都に近いので、両班逹の田畑、住いが多く、まもなく錦江にさしかかると伽耶山が見えてきた。昔からこの山の周囲は土地が肥沃で、多くの邑があり、地勢から戦乱を免れたため、士大夫逹の理想郷だった。
 女の子はすぐ慣れて、通路を往復して私と隠れんぼ遊びをした。 扶余行きのバスに乗り継ぐため論山で私が降りるといつまでも親子が手をふっていた。


韓国国立博物館

2005年05月27日 14時55分05秒 | Weblog
 初訪問の韓国タクシー乗り場で…国立中央博物館まで…(クンリップ パンムルガン カジ カプシダ)と言ったが一台目、二台目、三台、四台…。どの運転手も妙な顔して首をふるばかりだった。
 ホテルへ戻ってフロントの日本語が出来る係に訊ねた。
 フロントマンは景福宮(キョンブククン)と言えば行きますヨと教えたくれた。
 再び、タクシー乗り場で行き先を告げたらドアを開けてくれた。 発音が悪いのか、クンリップなんて場所は一体どこにあるのか?と思ったに違いない。あるいはクンニパンムルガンカジ…と言えば通じたかもしれないし、博物館と分かってもどの博物館か分からず、結局理解させるのは無理だった。
 アメリカ式の、ザット オーライはザッツオーライ。水はウォーターではまず通じない。ワラーで済む。子音から子音の連続なんてなんでも母音をつける日本人には無理だろう。ソウル ヨク カジ カプシダ(ソウル駅まで行きます)はソウル ヨカジで通じる。 苺(タルギ)もタ!は喉の奥から、吐きだすようにタ!ルギィ!と言わねばならないが、目の前にある苺は指差すだけで済むのに、知ったかぶりのタルギで店の者は、こやつ何者?と首かしげる。
 国立中央博物館に移転する前は、国宝の金銅弥勒菩薩半跏思惟像は旧博物館にあり、金色の縄で囲っていたが、手の届く距離なので、私は通算、四十七回もその足指にふれた。
 しかし景福宮に移転してから台座まで七、八米の距離になってその後足指にふれる機会を失った。
 広隆寺の半跏像は顔の表情は同じく不思議な微笑だが木造である。 ここに陳列してある三島(粉青…プンチョン)から象嵌青磁に変化する過程はやきもの好きな方にじっくり見学するよう薦めたい。 年月とともに(高麗王朝末から李氏朝鮮王朝初期まで)次第に変化してゆく有様がじつによく分かる。
 遠くから見て青磁象嵌と思っても、近くで見ると十六世紀とあり、微妙な釉技術の時代変化がよく分かるのである。

窯場のスンニヨン

2005年05月26日 12時41分24秒 | Weblog
 いつ頃からスンニョン(米の焦げ汁)が日常の飲み物になったのか、多分、李朝の前の米飯(麦飯)の習慣以来の事と思う。
 現代はほとんど白米になったが、日本でも農村地帯ではひきわり麦が半分かまたは四分くらいの混合がつい戦前の食習慣だった。
 私の郷里、土佐の山間農村では、昭和の初め頃、麦だけでなく粟も食べていた。韓国でも電気釜を使わずに釜で米を炊いてお焦げをスンニョンにする所もある。
 ハングル世代は別としてソウルに住む老人逹はスンニョンが出ないと食事した気がしないと言う。
 今は、ホテル、街の食堂、いずれもスンニョンと同じ色の麦茶が大半で、果たして麦茶になったのが食生活の進歩なのか疑問に思う。 よきにつけ、悪しきにつけ、練炭か薪のオンドル部屋で食事にスンニョン飲みながら家族が団欒するのはとてもいい事だと私は思う。 友人のマンションでの食事に、子供達はてんでに食事はしない。 きちっと父親がいただきますと箸とスプーンを手にしない限り子供達は待っている。儒教五百年の躾ぶりは今もまもられている。
 一時流行ったヒッピー族がズボンの裾を地面につけて闊歩する姿を見て、ソウルの大人逹は眉をひそめるかわり…街の掃除人!…と言って笑ってすましていた。なるほどズボンの裾が箒代りになるわけだ。
 韓国人の食事はスプーンと箸(金属製)と共用するので、一緒に食事をすると箸とスプーンをかわるがわるテーブルに置く音が賑やかである。
 日本も平安時代、貴族の間で食事をスプーンが伝来して使った時もあったが、やがて廃れてしまった。
 日本は梅雨があるので、その季節、湿気でスプーンが錆びたのが原因ではないだろうかと思う。
 T窯場の賄い婦は、ほんもののスンニョンをだしてくれる。
 麦茶代用と違ってやはり、米の香りがするし、味も濃いので私の口に合う。
 同じ窯場でも若い世代の窯での食事は麦茶が多かったが、年配の作家のおひるにはかならずスンニョンがでた。
 スンニョン テダニ マッスムニダ!私の褒め言葉に恥ずかしそうににこっとしたハルモニーの笑顔が今も忘れられない。

初訪問

2005年05月26日 09時42分05秒 | Weblog
 一九八〇年、厳冬の二月、韓国の冬こそ魅力のある旅、と心にきめていた私はソウルに飛んだ。 
 金浦空港建物を見た瞬間、まさしく李朝だ!と心で叫んだ。 空港の屋根が李朝建築の屋根の勾配と同じで白く清楚な建築だった。 戦前にある建築家が修理した朝鮮の建物を見た在日朝鮮人の一人は…これは朝鮮の屋根ではない…と指摘した。
 勾配が微妙に違っていたからだ。
 この感覚は民俗性からきたもので、たとえば陶工のロクロ捌き一つ見ても、明らかに日本と違っている。
 どこが違うのか…肩から胴にかけての曲線が微妙に違うのである。 贋作で重文指定を取り消された永仁銘(加藤唐九郎作)瓶子のそれと韓国国宝の梅瓶(メイビン)のそれでは曲線は微妙に違う。  街並もやや暗い感じだったのは、電力制限で日本のように派手なネオンもなく、看板もすくなかったせいかもしれない。友人は丘陵のサムソン電子工業の看板を指差し…看板の裏は高射砲陣地ヨ!…と教えてくれた。
 ソウルから広州以南の四キロほどの高速直線道路は戦闘機が離着陸できるようにコンクリートも厚く特別舗装されている。
 ホテルの窓から市庁前の広場を眺めていたら、突然、車両の通行が止まり、人影もなくなった。どこから現れたのか、警官が十数人、バリケードをはっている。夜間通行禁止の時間だったのだ。
「初めての韓国はいかがですか?」
 戦前、日本の商社勤務の経験のある、G氏が訊いた。
「少し街が暗い感じ、でも落ち着いてますよ」率直に答えた。
 国内便でソウルから釜山へ飛んだ。カメラは出発地の空港でとりあげられ、窓は遮蔽されている。
 秘苑、景福宮、徳寿宮、宗廟など李朝の建物などをのぞいて、すべてが北との緊張に包まれたソウルだった。
 ソウル駅前広場を韓国語会話の本を片手に歩いていたら、突然、若者に尋問され、パスポートの提示を命令されたので身分を訊ねると…官邸警護室の要員だった。三十八度線近く、閔山街道へ行く途中、銃を肩にした兵士の検問をうけ…陶磁器の研究で訪問…と答え、OKとなった。
 二十数年後のソウルは全く東京と同じ大都市で、郊外に林立する高層マンションのおびただしい団地を見ると今昔の感にたえない。