吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

百済仏の微笑

2005年05月04日 14時51分41秒 | Weblog
 百濟仏の微笑

 百濟仏はいつも不思議な微笑をたたえている。
 とりわけ、私が感動したのは、扶余博物館の錦城山仏の口許と目尻の微笑である。
 暖かい包容と慈悲にあふれた仏像である。
 これを彫った仏師逹も生命の感覚が仏と冥合したに違いない。
 扶余博物館の屋根は日本の神社にあるような千木が巾広い鉄筋でくまれているが、この建造に際して千木をとりやめるべきとの反対意見がでて、甲論乙駁の末、やっと今の形に落ち着いたと友人の文化財専門委員のA氏が語った。
 このA氏は現在の両班と言ってよいほど、両班では名門の安東両班の出で、歩き方も、のんびりしたその性格、そして儒学の博識、かっての両班もかくならんと思はせる人物だった。曾祖父の代に賭碁で田地田畑が他人の手にわたったとまるで人ごとのように話す。 屋根の破風板の先端は出雲方式のように平にきってある。
 百濟と出雲神話のどこかで接点があるのだろうか。
 開館前に裏門からひっそりとした館庭を眺めていると、背中こしに老婆の声がした。
「日本人とワタシタチは兄弟ヨ!」と葱束を手にしてたっていた。
「昔、百濟へ日本の斉明天皇は援軍を…」私は答えた。
「だから兄弟ヨ!」
 老婆は親しげな表情で言った。
 館内の金銅如来三尊像はまるで息をしてるように感じる。銅剣、古代瓦、忍冬文、貴人用の巨大な甕棺など、なぜかにほん古代の遺物を彷彿とさせる。
 小さな金銅如来像の眼が私に優しい微笑を送ってくれた。
 館内には韓国中学生逹が十数人、しきりにメモをとりながら、引率教師の説明に頷いている他、日本人は私一人だけだった。

K氏の成功

2005年05月04日 10時52分44秒 | Weblog
 K氏の成功

 K氏は今の北朝鮮、咸鏡道、咸興市の出身で、両班の血を受け継いで、今はソウル市銅雀区新方洞の閑静な丘陵の豪邸に住んでいる。
 二十二歳の時、朝鮮動乱にあい、三十八度線をこえて韓国へ逃げてきたと言い、つかまった時、韓国に忠誠をつくす意思として彫ったと言う。
 彼は会寧の商船学校をでて海軍軍楽隊にはいり、世界の港めぐりをするうちに酒と女の遊びも覚えたが、ある時、将来を考えて、南大門市場に行き、たまさか、祭祀の花が売れてるのを見て、その器も必要と気ずいて利川の窯場から青磁壺を仕入れて並べたところ、 飛ぶようにうれだした。以来、作品種類を増やし、いまでは、利川や聞慶の窯場作家で彼の名前を知らぬ人はいない程、有名になった。
 息子の一人は、名門、ソウル大学をでて、建築士、次男は医師、長女は薬科大学の助教授で恵まれた家庭環境にある。
 彼は広州郊外に五千坪の土地を手にいれ、四千本の桜の苗木を上、公園として地域の人々に開放し、日曜礼拝をかかさぬ熱心なカソリック教徒である。
 北に残したままの兄弟や祖先の祭祀は簡素ながらかかすことはない。
 儒教の祭祀は繁雑で、そのためよく論争がおきるのが韓国の習俗とも言える。
 魚ひとつにしてもウロコのあるもの、頭の方角も東頭西尾がきまっているし、供物の配列にもきまりがいろいろあって必ずその是非を巡って論争がおきるのである。
 K氏が成功したのは少年時代に習った日本人教師の教えによるものが大きい。
 朝鮮人を差別することもなく…嘘をつくな、努力、の教訓を七十才の今日まで守り続けたのが成功した理由である。
 日本人贔屓なのか、車のラッシュに前に強引に割り込む手合いに…韓国人はヨクナイ!日本人はこんなことはシナイヨ!とか、漢江にかかる鉄橋の陥落事故を見て、この橋は明治時代に建設したがまだびくともしないヨ…と自慢?するのだ。
 私は日本人だって…と言いかけて、口を噤んだ。
 

黄いらぼ

2005年05月04日 09時51分55秒 | Weblog
いらぼ茶碗は点前の時、砂まじりの土にていらいらする様なり。と、江戸時代の
数奇者の解説にあるところから日本の茶人の間では人口に膾炙されている。
そもそもいらぼ茶碗も御本茶碗のひとつである。
日本でも出雲焼きの長岡空権や京都の作家達がいらぼに挑戦しているが
残念ながら土味は本来のいらぼに届かない。
確かにいらぼ茶碗は朝鮮生まれにあることに間違いはない。
いらぼ茶碗も他の柿の蔕、斗々屋などと土味は同じである。
したがっていらぼも柿の蔕も斗々屋も点前するときに茶せんでいらいらする様になる。
それなのに、柿の蔕、斗々屋がなぜいらぼと呼ばれなかったのか・・・。
ここに吉松説を聞いていただきたい。(在野の焼き物狂・・・韓国窯旅150回)
さて、御本茶碗が日本に招来するためには対馬を忘れることができない。
分かり易く言えば、朝鮮南部、または倭館で焼かれた茶碗が
他の木綿や薬品や皮革製品そのほかと一緒に
船積みされるときに記録される言葉で「これは何か?」と日本の役人が
質問したときに「イラゴチャワンイムニダ」(これらは茶碗ですの意)
とあるところから、役人はたまさか積み込んだチャワンを「イラゴチャワン」と記録し
それがそのままいらぼに変化したものである。・・・吉松ひろむ説。

芭蕉について

2005年05月04日 09時01分34秒 | Weblog
飯坂温泉駅に着くと十綱橋のたもとに芭蕉の像が出迎えてくれる。
本来、芭蕉は伊賀者とされ年齢的にも奥の細道行脚に向かったのは壮年の頃である。
ところが、この像は俳聖芭蕉のイメージで老人の姿になっているが
本来とは違う。壮年の芭蕉は伊賀者の逞しさが溢れていたはずである。
芭蕉が飯坂で鯖湖湯で一夜を明かした時に、蚤と虱に悩まされ
翌朝、早々にほうほうの体で伊達の大木戸に向かった。
のみしらみ 馬のしとする まくらもと
この句はその時の有様をいかんなく歌っている。
その後、芭蕉は奥の細道を仙台から石巻に向かった。
紀行文を読むと、この行程で水ひとつにしても快いもてなしを
受けられなかったようである。
しかし出羽道(現在の山形)にはいると文人等が多く、各地で
芭蕉は歓迎を受けた。
ちなみに奥の細道で滞在日数が一番多いのは出羽路であった。
五月雨を 集めてはやし 最上川