吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

やきものの大地 五

2005年12月26日 13時30分11秒 | Weblog
やきものの大地 五
                                         登り窯はやや変形曲がりの蛇窯だ。
 ひと窯の体積はやや小さいが、火回りがうまく行きそうな感じがした。
 窯の反対側斜面はT家の山所(サンソ…墓地)で芝に覆われた饅頭形の祖先の霊が眠る墓が山の上から子孫と順々にならんいでいる。T氏の族譜(チョッポ)を見ると二十三代目だった。
 韓国では祖先発生の地を本貫(ポンガン)と言って互いに見知らぬ人でもこれが同じと分かれば、もう百年来の友人親戚の親しみがわくのである。
 例えば、ソウルでT氏同士が逢って、本貫が京幾道、利川郡、新屯面となったら、大声でアイグーと叫んで抱き合うのは間違いない。
 丁度、おひる時間だったので、作品陳列室隣の部屋で昼食となった。
 大きい机には、ご馳走で机の足が曲がる…と格言があるくらい、小皿に分けたおかずが二十皿ほど並んでいる。
 その数と料理の色だけでお腹がいっぱいになった感じだ。
 韓国では昔から料理の色が決まっていてそのどれかが、例えばノリの黒、メンタイコの赤、菊酢の黄色、野菜の緑、コギの茶などなどを中心にワカメスープ、エゴマの炒め物、サツマイモのナムル、キムチ、スケトウの焼き物、シーフードの肉団子、メンタイコ、千切りダイコンの炒め物、カボチャ、ヒラタケと牛肉炒め、青唐辛子の焼き物、などがずらっと並んでいる。
 食べるだけでは勿体ない(?)ので麦酒(メッチュ)を頼んだ。
 とくにR婦人手製(どこでも手製)コチュジャンの辛さも凄いがその味に深みがあって麦酒がぐいぐい喉を通った。
 U君!(運転手)ご馳走食いすぎて後部が重いだろう!とからかったら、彼はのんびりとイェイ、イェイ!と返事した。

やきものの大地 四

2005年12月26日 12時23分20秒 | Weblog
やきものの大地 四
                                         利川よりの帰途国道脇の水下里のT窯に寄った。T氏はまだ五十になったばかりの新進陶芸家である。
 李王朝時代の粉青再現を狙って酸化と還元焼きを駆使していい味の粉青作品がある。
 俗に日本の茶人が慶び愛用してるイラボ釉は見事だった。
 日本でイラボ作家は出雲の長岡空権が第一人者だが、その釉調はやや堅さがあってT氏の作品に程遠い。もちろん出雲焼きも秀吉の侵略で日本へ拉致された陶工逹の影響を伝統としているが。問題は土にある。翡色青磁の釉色も日本では再現不能の現状から見てやはり釉と土はすぐれた韓国の大地にかなわない。
 T氏のR婦人は料理を研究していて、将来、国道沿いにたべものの店を持ちたいと言った。結婚してもTとRと姓が異なるのは韓国の長い伝統である。
 さて、李王朝以来の伝統から…戦後の民衆はどんなものを食べて暮らしたんですか?
 と訊ねた。
 答えは次のようなものである。
 光復節(太平洋戦争の終結…韓国の独立開放)のちにも朝鮮動乱によって食生活の厳しさは続いた。しかし飢餓から民衆を救ったのはアメリカによる食料物資の援助であった。 この点は日本もどうようであった。
 牛乳はそれまでから一般化され、庶民になくてはならない栄養源となり、子供たちの欲しがるチョコレート、ビスケットなども連合軍から行き渡った。アメリカから緊急物資として輸入されたもののほとんどは小麦粉と小麦である。韓国の穀物総生産量の四十パーセントはこうした輸入穀物によっておぎなわれたのである。
 つい最近まで施行された麦飯の励行もこの頃に始まった。R婦人の実家の食べ物を参考にすると次のようである。
 朝…麦飯、とワカメ汁とキムチ。昼…キムチとカクテギをおかずに麦飯の湯かけ、夜… 野菜の和えものとキムチ。そのほかトウガラシ、モヤシ、たまに魚の煮物…くらいだ。

よきものの大地 三

2005年12月18日 08時57分04秒 | Weblog
やきものの大地 三

 初めての利川窯旅である。
 京幾道、利川郡は李氏朝鮮王朝の昔から良き陶土にめぐまれ、高麗王朝時代に焼かれた翡色青磁の伝承から、粉青(プンチョン…日本では三島)や白磁、青華白磁(日本の染付け)などが盛んに焼かれた。朝鮮陶磁を大別すると磁器所と陶器所に分かれ、その数はおよそ半分とみてよいだろう。それも分院が多いのは、朝鮮王朝のやきものは日本とことなり、官窯として保護奨励され、一般庶民の食器は白磁盒と真鍮を使った。
 真鍮の盒は端が内側に反って蓋がついているので飯がさめない。白磁盒も高台が大きく、匙(スゥッカラ)を右手(左は不浄の手)ですくっても盒がたおれたりしない。
 ご飯は麦飯(ポリパップ)だがこれは韓国のどこの家庭でもそうである。
 かって奈良(韓国語で国の意味)平安時代に日本の貴族逹も匙を使用していたが、日本の湿度の高い気候で金属の錆が生じて次第に廃れていったが韓国は今も食事に匙と箸(チォッカラ)を使っている。それも右手で箸と匙を交互につかうので音がかしましい。 しかも小皿(チョプシ)にキムチを始め、佃煮、岩海苔、焼き魚、みそ汁などなど具が多いので膳の足が曲がるほど…と大袈裟な表現が生まれる。
 具の種類が多いといっても、いわゆる薬膳料理と言って良いほど栄養のバランスがよいのは李朝の昔から伝統としてつづいているのだ。
 高麗仏教文化から李朝の儒教文化に変貌て、茶栽培に重税を果していらい、喫茶の習慣が次第に廃れ、老人のための薬酒としてマッコリルなどが盛んにのまれるようになり、茶の代わりに李朝の人々はご飯のお焦に湯を注いで飲む習慣が生まれた。それはスンニョンと言うが、現代では釜でご飯を炊くのは電化によってみられなくなり、同じ茶色の麦茶で代用するようになった。
 儒教の祭器として発達した白磁は李朝文化のシンボルと言ってよい。
 しかし白磁の美の誕生は日本では明治になってからだった。

やきものの大地 二

2005年12月17日 10時44分56秒 | Weblog
やきものの大地 二

 韓国の大地と日本のそれとは飛行機から見下ろした光景ではっきりとその違いを知ることができる。私は韓国のやきものの土、胎土をみるにつけいつもなるほどと合点するのだ。 具体的に国土全体の眼に映る自然を比べてみよう。
 私は百数十回に及ぶ韓国旅の前半は成田から、後半は仙台からのフライトだが、いずれのコースにしても、島根、鳥取上空から日本海にでて二十分もすれば韓国の大地が見えてくる。緑の多い日本上空から岩石の多い韓国大地の上空に達したのがひとめで分かる。
 私は本能的と言ってよいほど…なるほど…と合点したのだった。
 山口県の萩焼きは秀吉の朝鮮侵略によって拉致された陶工、李敬、李勺光の兄弟が毛利氏の命を受け、松本萩と深川萩の開窯となるが、これも最初からそうなったわけではない。二人の陶工は領内をくまなくよい土を求めて踏査し、各地で焼き物の試し焼きをくりかえし のである。
 条件として母国のような、耐火性、粘着性に富んだ胎土を見つけるまでの労苦は大変だったがついに日本一と言われる萩土の発見となる。世間で言う古萩を大きく二つに分けるとすれば、毛利藩で焼かせた初期の萩、そして江戸時代に発見された大道萩土による茶碗類となるだろう。それはさておいて、高度、一万米の上空から見下ろした大地が韓国で異質にみえるのは、岩石の風化による韓国の土がやきものにもっともよい自然の胎土に数万年もかけて変化してるのがおおよそ分かる。
 はじめて、上空からその光景を見た時…これだ!…と私は独り言をつぶやいた。
 日本は焼き物革命を歴史的に二度、経験している。最初は百濟土器(高火度焼成)技法の招来で焼かれた、須恵器である。この技法によるやきもの技術(ロクロ、築窯)は次第に北上して東北南部にまで達して、いまも各地に古窯の痕跡をみることができる。
 須恵器は約、七百年以上も続いてその伝統を今に残して、能登半島の州珠焼を始め備前、越前、瀬戸、常滑、信楽、丹波と存在している。

やきものの大地 一

2005年12月16日 08時54分26秒 | Weblog
やきものの大地 一

 一九七八年、厳冬の二月を選んだのは真冬の韓国こそ民俗文化を知るのに最もふさわしい季節と思ったからである。中学時代に北海道小樽で今とは比較できないマイナス十度以下の冬の暮らしを体験していた私にとってマイナス気温は苦にならない。
 金浦空港に着陸して空港の建物の屋根の曲線を見てすぐ、それが李氏朝鮮王朝時代の家屋の絵や戦前の韓国の農村風景の写真でみた光景と重なった。
 以前からあこがれていた李朝の匂いの面影が眼前にあった。
 色とりどりの広告の多い日本と比べてやや暗い感じはしたがすへぼてが簡素の美だった。 空港内の建物か、あるいは冷たい空気のそれか、かすかな匂いが胸にしのびよる。
 断定はできないが韓国人がいつも口にするニンニクの匂いが建物内にとけてしまったような、それほど強くはないけど、成田空港の空気とは違っている。
 どことなくユーモラスな感じの審査官がにっこりしてスタンプを押す。        出口へのゲートを出た途端に出迎えな感じの数百の視線が私にそそがれた。
 見知らぬ数人の男たち近寄ってくせのある日本語で…社長さん、ソウルまて安いヨ!と付きまとう。チェチング キダリョ ケンチャナョ!と下手なアクセントで友人がいるから心配いらん!と下手なアクセントが通じたか通じないのかまさに馬耳東風で、しばらくついて来て勧誘する。
 タクシーはすべてポニーと日産サニーとよく似た名前の小型車である。
 私はタクシーをやめてバス乗り場に並んだ。とにかくソウル市内へ到着すればあとはなんとかなると決め込んだ。
 乗り降りが激しいのと駐留場所ごとに各社のバスが数十人もの乗客をのせるべく激しい乗客の争奪を演じている。
 時々粉雪が舞った。
 漢江(ハンガン)の岸辺は青い氷で彩られ、低い周囲の山々のいただきは真っ白で、八車線もある国道はポニーとどれもこれも車体がおんぼろのトラックが洪水になっている。

カウライ男の随想 四十五

2005年12月13日 08時54分49秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十六

…先生、お伺いしたいのですが、お茶をいれるのをどうして点ずるというのですか?…。 好奇心の人一倍強い私は質問した。
…ホホホホ…私と同じ考えですのね、私も先生の弟子になって最初に質問したのはそのことだわ…それは中国の詩、たしか曲江詩だったかな、もう三十年も昔だからはっきりしないけど…点水スル蜻テイ…セイテイはオニヤンマトンボです…トンボが水面にすいすいと尻尾をつける様のように茶筅で茶碗にいれたお抹茶を静かにかき混ぜる…ところから点茶すなはち点前となったのです…。
 なるほど、私は昔の茶人の風流をしのんだ。
…こうして今、人間は贅沢を楽しんでますが、主人が永平寺で修行してるときの食事は粗 末そのもので、たまに藁屑の入った粥もたべたそうです…。
 シノと言うU先生の母はそう言って、でも今は戦争で家でも朝、夕はサツマ芋が半分のお粥ですの、と言った。
 帰る時間になった時、にわか雨が樹葉を激しくたたき、まもなく小降りになったが止まないので暇することにした。
 庫裏の広い玄関わきのコウモリを手にしようとした時、U先生が…私、送ってあげるは…と素早くコウモリを取って広げてどうぞと誘った。
 あまりの早業に断る言葉も出ないうちに寺の土橋にさしかかった。
 私が若い娘にいわゆる相合い傘を誘われたのは生まれて初ての経験だ。
 やわらかい肩がふれ、U先生の薄化粧の香りが鼻をついて私の心臓が大騒ぎになった。 そのまま栗平の上り口まで歩いた。
 途中でで逢った教え子、茂助の母は一瞬、驚いた表情をみせたが…今日は珍しくご一緒でどちらへ?…と訊ねた。
 坂下の京子の家まで、用事ができて…と咄嗟の嘘をついた。

カウライ男の随想 四十五

2005年12月12日 16時35分49秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十四
カウライ男の随想 四十五

 三重県の松坂出身のご両親で、父は宗洞宗中学をでてすぐ永平寺で三年の修行したのち東京府下、西多摩の海林寺という大きい古刹に住職として赴任するはずだったのにねこのような山寺にだまされて来たのよ…とU先生の母は挨拶のあとに言った。
 庫裏のに続く離れの裏は竹林だった。離れから本堂に渡り廊下が続いている。
 軸はまんまるい模様の墨書で円窓と言うそうだ。
 円は宇宙を表わし、宇宙即禅の悟りとなるらしい。
 床に、桔梗の紫花がいけてある。これは学校でU先生から教わってしっていた。
 まい床の間の軸をみて、生けた花に一礼して正座した。
 すぐ隣はU先生だ。                            
 香の匂いがしたがU先生ではなく、部屋全体の匂いで、伽羅(キャラ)という香木の王様をたいたと言う。              
 最初に出てきたのは最中だった。戦時中ではもはや珍しい生菓子である。       そしてつぎに筒茶碗のそこに粥状の抹茶がでた。
…どうぞそのまま召し上がれ!…。
 言われるままに口をつけて吸った。
 苦さの中に香ばしい抹茶の香りがした。
 紀州、松坂から取り寄せた銘茶で青の露と言う銘でございます…。
 私は思わず…ヘヘェとなった。
 生まれて十八才、初めていただく茶の湯の抹茶である。
…この茶入れは古瀬戸の肩衝で、母の寺にふるくから伝来したものでございます…。
 歴史にあった織田信長が論功行賞に土地の代わりに与えたと言う茶入れが脳裏をよぎった。こんな小さな入れ物のどこにそんな値打ちがあるのだろうか…。

カウライ男の随想 四十四

2005年12月12日 15時25分36秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十四

 栗平の夜は五軒の農家はほのかなランプの灯りがまるで小さな火魂のように浮かんで静寂そのものだった。囲炉裏の窓から満天の星がきらめいてO君の手紙にある…カントの夜の輝ける空…を思い出させた。
 私はいつも朝に炊いた御飯を夕方もどってから、囲炉裏に薪をくべ、茶を沸かしてほとんど漬物でお茶漬け飯をたべるのである。一度、福生陸軍飛行場の気象観測をしている兄が訪ねて来て…こんな食生活するのなら、帰高しなければ栄養障害を起こすぞ!…と厳しい叱責をうけた。しかし、週に一度はU先生が野菜や肉の缶詰を持参して栄養補給をするので、何とか健康は維持できた。
 O君から貿易商社をいとなむ華僑の家庭教師をやって食生活が再び西峰時代に戻ったとのハガキが舞いこんだ。
 ある日の放課後、学校の囲炉裏でU先生の点じたお茶を一服ご馳走になった。
 禅寺なので母が若い頃から学んだ遠州流の点前と言う。
 茶碗は備前焼の筒茶碗でこれも母が娘時代によく使った茶碗と言った。
 私は初めて拝見した備前焼きのわびに満ちた釉の変化の美のとりこになった。
 日本にもこんなに優れたやきものがあったとは…驚きだった。
 それまで美術好きな私は美術の本でふるい縄文や弥生土器、そして須恵器などを写真でみていたが手にとってみたのははじめてだった。
…今も母上様はお茶を…?と訊ねた。
…はい、週に一度は離れでお点前しますわ…。
…ちょっと質問…おてまえをどうして点前と書くのですか?…。
…知らないわ…今度の日曜日にいらっしゃい、学校前の正沢川を少し上ったところのお寺 よ…。
 そんな約束である日曜日に正沢寺に行った。
 禅宗の寺格は二十四級とかで禅では最高が百級の芝、高輪の泉岳寺と言う。奥多摩の寒村の北小曽木では檀家もわずか九十軒しかない。父も学校に勤め、つい三年前に北小曽木の校長を定年退職したばかりだ。

カウライ男の随想 四十三

2005年12月06日 13時33分24秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十三

 私は進学を前提にしたら浪人の身であるがしかし、今の戦争状況からみたら進学しても所詮は軍隊に行く年齢だ。
 来年には繰り上げ徴兵も行われる情勢だった。
 O君もいずれ陸軍か海軍へ学徒動員がかかってくるだろう。
 村にも、のぼりを翻す兵士を送る行列が峠に向かって行く。
 非常時の国民学校の銃後にしなければならぬ研修会も度々行われたが、私の学校は職員が男性は校長と私、ほかの三名は皆、女教師であり、私はいつも教頭代理で研修会に参加させられた。それも壮年の教師は皆、軍隊にとられ、のこった教頭は年配か病弱の教師ばかりで研修もどことなく迫力にかけていた。
 そんななかで、鹿児島造士館高等学校二年を中退して私と同じ助教師になった男がいて、学生として中途半端な生き様をしたくないと上京し、食べてゆけないので教師をしている…いまは自分の内在的超越のせかいに甘んじて教師をしているが、学校は奥多摩のH町にあるといった。H町は奥多摩でも人口の多い町で御岳町から十数キロあり、山を越えたすぐ隣は山梨になる。
 彼から、H町へ遊びに来ないかとさそわれたが断った。
 私は自分のある意味での哲学は、自分自身で体系化すべきとその頃は思っていたのでかれの魅力は心にあったがそうしたのだ。
 村道から三キロほどきつい坂道をのぼると視界は開けて栗平盆地になる。
 借りた馬方の隠居屋は格子窓から夜はきらめく星が手の届くくらい近くに澄みきった夜空に輝いて見える。
 ふとO君が最近読みだしたカントの純粋理性批判にある…夜に輝く星とうちなる道徳律…を思い出した。
 彼は商大教授が『学徒に賜りたる勅語』を倫理時間に話すのでジレンマを感ずると手紙に書いていた。

カウライ男の随想 四十ニ

2005年12月06日 06時40分33秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十二

 私は彼が発奮した時期は例のクラスソングについて校長が時にははっきりと時には陰湿にO君を苛めたことにたいする反発もあったと思う。師範学校を出て、いまだに郡部の校長に過ぎないMは毎週、三里の道を土讃線の豊永駅まで自転車で下り、なんの用事か高知に帰るのだった。そんな様子を畑で見ている村人は…また寝押しじゃ!と皮肉っている。私はズボンの寝押しとばかり思っていたがO君から別の意味をおそわった。
 職員会議でいつもその自由教育ぶりをO君は校長から皮肉られ、辛辣な苦言を受けていた。田舎で都会へ転勤の夢を追うおろかな校長と大秀才のO君とはレベルが月とスッポンだ。
 校長に苛められる度に…今に見ろ!…O君の胸は偉大な未来に燃えていた。なにしろまだ十七才の青年になったばかりだ。
 放課後の教室でO君は涙を浮かべた。
 そんな彼と、私はよく子供逹と長瀬河原へ遊びに行った。
 O君はその深い知識とウイットを駆使して遊びながらもよく生徒の指導を行った。
 恐らく生徒達も一年生から高等科二年まで、十三名の教師に担任されたがO君のような教師は始めてだったろう。
 級長で秀才ののN君は私にもよくなついていつも自炊宿へやってきたが、O先生の教科の進展ぶりは凄い!と喜んでいた。
 O君はJ中学の尊敬する先輩で海兵出身の大尉から南方海域で致命的な敗北をきっしたことをしらされていた。
 しかし新聞は艦船撃破、敵機撃墜の報道を載せていた。
 彼は滅多なことで生徒を怒ったことがない。
 ある日、廊下でO君の大声が聞こえてきた。
…そんなに言うことが分からんと、腕をべし折るぞ!…と怒鳴っている。