吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

街の温泉

2005年05月28日 17時15分12秒 | Weblog
ソウルへ走る車の窓から至る所に日本でお馴染みの温泉マークの煙突看板が見える。
 友人のK氏に日本から朝電話するときまって奥さんが…今、留守でサウナヨ!ヘンドホーン、チョナブタカムニダ!と返事が来る。 サウナ風呂とは銭湯のことだ。そこへ携帯電話してくださいと言うわけだ。
 その温泉マークへ友人と行って見た。若い男が満面に愛想こめて、オソォセヨ!と迎えてくれ、キーを手渡される。廊下の横に床屋もあって客がのんびり椅子に横たわって爪切りしているが料金は別に二千ウォンを支払う。湯船の縁の広いタイルには数人の男が大の字だった。蒸し風呂が素晴らしく入っただけで汗がわき出てくる。ヨモギ草がずっしり垂れ下がって蒸気が凄い。
 アカ擦りの兄さんから声をかけられる。ふと客の背中を見ると気持ち悪くなるほど、消しゴム状のアカがおちるまでごっしごっしと擦っていて、料金はわずか千ウォン(約、二百円)だから断じて安い。
 友人はタイルにあお向けに寝そべって眼を閉じている。日本人のようにあそこは丸出しで隠さない。じつに開放的な温泉である。
 街の温泉マークの密度から見て、日本人以上に韓国人は銭湯好きではないかと思う。飲み物も自由だが、帰る時に精算すればよい。 博物館の帰りあまり寒いので景福宮前の大道路を横ぎつた路地奥に、国会議員もくると言う高級温泉マークがあった。外の気温はマイナス十五度。フロントの横に可愛い女の子が五人ほど紺のそろいのスーツ姿で私に視線をおくってきた。
 料金がふつうの五倍もしたのでさすが待遇がいいと感心してたら、私の当番?らしい小柄なとても美しい子がキーを片手にオンドルの個室を開けてくれ、よく糊のきいたバジャマをだして着せてくれる。 あれっと!思ったがすぐヨモギサウナ室へ飛び込んだ。
 すっかり汗を流し、へやに戻ると女の子が開けてはいってきた。 頼むとビールの出前までしてくれ、キムチを肴にして喉を潤す間女の子はサービスしてくれたので、五千ウォンをチップにだしたらとても大きい声でカムサムニダ!と言われた。
 あとでK氏にその事を話すと、ストレス発散場所で有名ヨ、街の銭湯とは違ったでしょう…と笑っていた。

不浄の手

2005年05月28日 13時46分39秒 | Weblog
やきもの以外、なんの予備知識もなく韓国にきて、早速失敗をやらかした。
 南大門近くの天幕(テポチプ…飲屋台)で、隣にいた好青年に話しかけ、気がうちとけて、メッチュ(麦酒)をどうぞと差し出した途端…駄目ですヨ!左手は不浄です…と厳しい表情で手を振った。 右側に座った青年には左手のほうが注ぎよいのでそうしたのだった。
 二人の青年は真露(焼酎)を酌み交わしながら大声でしきりに議論していた。                         議論と言えば私の郷里、土佐人も議論好きである。実家は番役の五十石郷士だったが土佐は長曾我部以来、百姓の反逆精神、いわゆるいごっそうな人間が育つ風土、外来の山内藩武士にたいするいごっそう精神は村のすみずみまで行きわたっていた。        韓国の青年が議論好きなのは長い伝統を持つ儒教をバックボーンにした両班への風刺、反逆精神の気脈のせいかと思う。
 青年の一人はソウルの南、水原(スゥウォン)が故郷(コヒャン)で曽祖父は三.一独立運動の犠牲になって教会で死亡したと明かしてくれた。
 日本人の私に言うのはよほど親しみを持ったからこそと、私は言葉を失って黙って頭をさげた。
 この事件は独立運動の闘士逹を教会に閉じ込めて憲兵隊が火を放ったと言う残虐事件である。
 街へ出て食堂に入った。やはり、韓国人はスプーンと箸を右手で使って、飯椀は置いたままであった。日本人なら飯椀をぎっちょなら反対だが左手で持つが、左手を不浄の手とする韓国人はまず、左手を使わない。
 男性トイレもしかり、後から見て、左手をそえてるのは韓国人、右手を添えているのは日本人と知った。
 民俗村の広大な両班屋敷の牢獄も建物の左にあり、左遷、左道 (李朝の儒教以外の思想)など左は不遇である。
 年上から勧められる酒を飲む時は顔を横にして左手で口を隠すようにして飲む光景に私は感動したのだった。

論山まで

2005年05月28日 08時18分05秒 | Weblog
 ソウル駅は朝鮮総督府時代に開業した幹線駅で戦前は北の新義州を経て旧満洲にいたる全長七百キロに及ぶ幹線鉄道の中心駅である。 東京駅と同じく落ち着いた煉瓦建築で、今もそのまま保存され、ホームも旧上野駅を彷彿させる。
朝の八時三十分発の急行列車(特室)に乗った。
 目的地の論山(ノンサン)までの途中、大田(テーチョン)で釜山行きと南端の麗水(ヨースイ)行きに分かれる。
 駅のホームでうろうろしてると、いち早く日本人と知った駅員が私を指定車両まで案内してくれた。
 私は気動車の発車合図の警笛の音を聞いて一人笑いをした。   のんびりした韓国の赤牛の鳴く声に似ていたからだ。
 忠清道庁のある公州を経て論山まで約、一時間半の旅である。
 日本の旧急行列車と同じく向かい合った四人がけの座席に、故郷の麗水へ帰る女の親子連れが…失礼します…と会釈して乗り込んできた。
 発車して間もなく、社内販売がやってきたので、ガムとスナックを求め、そっと五才くらいの女の子の手ににぎらせた。
 驚いたのはその時だった。
 恥ずかしそうな小さな声で…コマヨ!(ありがとう)と言った途端、突然、イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュ、と早い日本語の数がとびだしたのだ。
「銀行勤めの主人が教えたんです…」と若い母親は微笑みながら言った。
 それにしてもどうしてまだ五才くらいなのに私を日本人と見破ったのか、ソウルの繁華街で群衆に混じって歩く私に…社長さん!安い時計アルヨ!とよく声をかけられたが、韓国人が日本人を見分ける能力は凄いと思っていたら、子供まで…この感覚は民俗本能としか思えない。
 窓外の風景は平坦で田園が美しくひろがり、昔から都に近いので、両班逹の田畑、住いが多く、まもなく錦江にさしかかると伽耶山が見えてきた。昔からこの山の周囲は土地が肥沃で、多くの邑があり、地勢から戦乱を免れたため、士大夫逹の理想郷だった。
 女の子はすぐ慣れて、通路を往復して私と隠れんぼ遊びをした。 扶余行きのバスに乗り継ぐため論山で私が降りるといつまでも親子が手をふっていた。